病気じゃないっ!!
私は昔の思い出の中に生きているようだ。
その空しさの為に心というか自分の中心にポッカリと空いた穴を埋めるには出会いしかないと極端に思ったがあながち間違ってない発想の様に私はそれを信じた。
だが、簡単な性行為は神に逆らう考えだと自分を制御しようとするが…
物心付いたら産まれていた。産まれた瞬間の光景は親には申し訳ないが覚えていない。母や父がどんなに喜んで私を見たか…私に神の目線が持てるなら客感的にその瞬間を見たいと思った。どんなに喜んだ顔をしてたのだろうとか本当に私が産まれて母父は喜んだ顔をしたのだろうかを。36歳に今年なる私は私の出産の時の気持ちを母父に聞いた事がなくここまで生きてきてしまった。それを聞くのは照れ臭く恥ずかしくもあり私は聞けずにいた。その光景の事を聞けていたら今みたいに少し親とギクシャクせずに生活出来ていただろうなぁ〜と虚しく1人頑なに生きてきてしまった、恥ずかしく孤独に…そして誰よりも純粋に。そして歳を重ねたが同級生も時を同じく産まれている所に私は運命を感じた。恵まれた少年時代だったと。
ちょっと先の事まで描きすぎたか。
物心が付き私に記憶と言う今を見る映像が付いたのは4歳ぐらいだったと思う。ミニカーと鉛筆を持ってノートに何かを無心に書いていた。後から親に聞くとミニカーの車種名を字を練習する様に反復して書いていた。そこは薄暗い仏様の部屋だった記憶がある。薄暗いと言うよりかは天気が曇っていたんだろう。歩けていたかは記憶になく、どっしりと机に向かい畳の上に座っていた。
ふと少し考えていると初めて立った時のお母さんが喜ぶ顔が脳裏にある様な気がした。お母さんは若かった。その記憶が脳裏に残ってる事は少し嬉しく感じた。何故なら見ようとして見える訳じゃないから。
いつの間にこんなに時が過ぎたのだろうか?
時は誰にでも平等であるから。
でも、皆あの時の時を忘れ失い日々の忙しさの中を住んでいる。この地球の中に、彼の様に命を絶たなければ会わなくてもこの地球の中に一緒に住んでいるのだという実感は伴いはしたが、彼の死だけが、もう会えないという事だけが私の心にポッカリとした穴の様に私の中心を貫いていた。
私の体は女体を望んでいる。挿入したいだけではない。その前にちゃんとお互いを理解して声とかもちゃんと聴いてみたいと思っている。
運命の女性なんて本当にいるのだろうか?
そしてそれがこの世界にいるならこの世界はなんて贅沢な空間だろうかと自信なさげにそんな運命を信じた。 それにしてもなんでこんな急に女性を欲しくなったのか、わたしは。 いや、ずっと欲しかったんだ、近くに居てくれる最愛の人を。今まではそれに恵まれていなかっただけ。にゃんにゃんな関係になりたいと強く願う。ちなみに私は犬より猫派だ。
こんな事を言いつつスマホのカメラ機能で自分を見てみると明らかに老けたなと自信を消失している。 10代の頃の髪質はサラサラで艶もあった、悩んだ20代はろくに外見も気にせず、女性との関係も無縁でいいと思っていたが、今の鏡に映る私の髪の毛は艶もあまり無くパサパサした髪の毛という印象で自分に冷めた。もはや私を好きになる人なんて居ないだろうという超ネガティブ思想に私は20代のある頃から自分を信じられなくなったし、周りも私を信じなくなった。親までも……
そんな事を考えているとまた自分の子供時代の記憶の中に逃げ込もうとしてる自分がいた。これが正しくないと私は初めて自分で思った。思い出の奴隷になるのはもうまっぴらだ。
と言ってこの現実に女神の様な女性が私の手の届く所にいないのは大きな悲しみだった。女神というか……普通でも良いんだけど、理想を大きくしてしまうのが私の悪い所だ。これまでは変にプライドや拘りにとらわれている所があったし、とらわれなんて言うものは神の掟を守る事だけに集中していればいいと思っていたから自制心が働き、欲が消えているのだと思った。
何故こんなに神に私がとらわれているのかというと古都と呼ばれる鎌倉に産まれ、氏神のいる家柄に産まれて、その糸を繋げていくと八幡の神を祀るかの有名な鶴岡八幡宮に繋がりを持った家柄に産まれていたから成人の頃になると宗教に対して考え、日本の神や仏教の勉強をしていたが、26歳頃の時に孤独を感じて、そして虚しさが広がる人生の中に私は聖書という救いどころを発見したのだった。