はらはらり
今年も桜が色づき始める。
木々を点々と染める桃色が、冬の終わりを告げようとしている。
まだ冷たい風の中にも、温もりが感じられるようで。
「だから、」
春が来る。
すぐそこで、待っている。
「……俺は、お前が」
春のにおいは、桜の香り。
桜が香れば、空気が香り。
その香りに花々すべてが、喜び謳う。
花が笑えば、世界が笑う。
「……好きだ」
だから、春は輝かしい。
だから、春は、愛しくて。
どうしてか、知らず誰かを幸福に誘い込む。
蕾が開き、桜が笑う。
木々が1年にたった1度、桃色に染まったその頃に。
「……なん、で……」
しかし桜の季節は出会いと別れ。
「……なんで……」
「ごめん…………」
「いやだ……」
「……」
「……いや……。絶対、そんな、」
「……ごめん」
咲いた花からひとひら、桜がこぼれ落ちた。
「……忘れてくれ」
花びらは空を渡り、滑り台の上へとたどり着いた。
「そんな、」
「さようなら」
一つ、強い風が吹いた。
木々から飛び立った桜の花びらは、まるで桃色の雪のようだった。
なぜ散る桜は儚く見えるのか。
……これほどまでに美しいのに。
「なんで……」
吹雪く姿は誰も見ない。
これも一つの姿なのに。
今年の桜ももう終わりなのねと、誰かがそっと呟いた。
花が終われば葉が芽吹き。
若い芽たちは夏の到来を待ちわびて我先にと輝き始める。
受ける光こそ絶対で、愛しいと。
光一つで、無邪気に喜ぶ子供たちのように。
輝きたいと、木々は言う。
そんな木の声を聞きながら、滑り台の上に落ちた花びらは時を過ごす。
ある日偶然、花びらの上に石が落とされた。子供たちのいたずらだ。
石の下で、動く事も雨に打たれる事もないままに。花びらは思ったのだろうか。
土に還りたいと。
土に還って再び根から這い上がって。
また、花になりたいと。
今日も子供たちのはしゃぎ声がする。
日常の、繰り返される毎日の。
――光景が、一変したのは。光。
その日、世界は崩壊する。
……かと言って。
誰にも何もわからない。
起こった事は光った事。
轟音すら消える、まるで沈黙の中の光。
光は一瞬で無になった。
音は終ぞやまない、静寂へ姿を変えて。
誰もいなくなった。
はしゃぐ声など聞こえない。
……いいや、爆音が聞こえる。
衝撃の中で、炎が散った。
炎は海となった。
桜の樹々は、わけもわからず焔を上げた。
若い芽たちは、焼け落ちる瞬間まで笑い続けた。
幹が落ちた。
木々は墓標となった。
土の上に陽炎が躍った。
……誰も何の説明もない。
ただ言える事は。
もう、桜は咲かない。
来年は、ない。
……夏は来たのだろうか。秋はあったのだろうか。
空から落ちるこの白いものは、雪とは別のものなのだろうか。
しんしんと降り積もる。
どこか、冷たさもない雪と、だけれど心底震えるような寒さ。
桜の木は残っていない。真っ黒な大地があるだけ。
あれから一度も風が吹かない。
時が止まったような世界だった。
これが終わりの姿なのか。
……だから、その風はあまりにも唐突だった。
そして突然の事に、滑り台の上の石がグラリと零れ落ちた。
その下から現れたのは、桜の花びら。
乾いて、色が変わってしまっても、だがまだ土に還る事もなく。
――風の後に生まれたのは音だった。声だ。
声は、泣いた。
ただずっと泣いていた。
嗚咽に混ざる言葉は、ごめんなさい、ごめんなさいと唱えていた。
なぜあなたが別れを告げたのかと。
なぜあなたはいなくなったのかと。
なぜ……私を残して。
私はどこへ行けば。
私はどうすれば。
これから――。
何か奇怪な単語も入り混ざった。その意味はわからない。
声は最後にこう言った。あなたは今どこにいるの? と。
私もそこに、連れて行ってと。
もう一度静寂の世界が訪れた。
沈黙の夜と沈黙の朝。
……そしてまた風が吹いた。
小さな風だった。滑り台の上の花びらは一瞬飛ぼうとしてためらった。
ああ、飛びたい。空を見上げてそう言っているように。
もどかしそうに揺れて。
風の後にまた、声が生まれる。
「……諦めないと言ったら」
笑うかな。
……また風が吹いた。花びらはもじもじと揺れた。
次に吹いたらその時こそ飛ぼう。
大空に向かって。
最高の風を呼んで。
ここにこいと。
今ここで、空に向かって一直線に。
「……ごめん、あなたは忘れろと言ったけど」
――吹く風が。
花びらが飛び立つ。
ああ、空だ。
ひらり、ひらりと裏表。
「……もう迷わない」
――散るために咲くのではない。
桜の本当の姿は、木を離れる瞬間。
それは散るのではない。落ちるのでもない。
舞うのだ。
生涯に1度の最高の舞い。
どこよりも遠く、誰よりも美しく。
その瞬間に桜は恋い焦がれて。
夏の日差しに笑い、雨の中に身を潜め、冬の寒さに力を蓄える。
待ち続けたその瞬間、舞い踊る姿は。
はらはらり。
「あ……」
地面にある、雪とも言えない白い物の上に辿り着く。
ああ、満足だと、桜は笑ったのだろうか。
白い物に抱かれるように、花は静かに眠りにつこうとしているようだった。
「桜……?」
だが、不意に花びらは再び空へと持ち上げられた。
感じたのは指先の温もり。
「今年の桜……」
声が言う。ああ、お前は……と。
そして声は……涙は、堪え。
「……一緒に行こう」
知らない風が吹いた。
舞うのと違う、優しさがあった。強さがあった。
今年の春には戻れない。
次の春はいつだろう。
……それでも、風は吹くのだろう。
温もりはあるのだろう。
そしてどこかで花はまた舞うのだろう。
はらはらり。
――夢のような、ひと時を求めて。
そのために、最高の花を咲かす。