3 一希の十月 ─思い出してくれよ─
夢の中で僕は、けやきの木が街頭に立ち並んだ、大通りの歩道を歩いていた。小学生だった頃の僕が通学路して用いていた、その並木道。けやきの木たちは僕の背よりもずっと高く繁り、そっと頬を撫でてくれるようなそよ風に静かに揺れている。
西の空が鮮やかな赤色に染まっていて、太陽はもうその姿をビルに隠し始めている。でも、暗くて歩く先が見えないというほどではない。
僕が歩いているのは、小さな一軒家に帰るためだった。この道を歩いていけばいつかは、温かい我が家に帰ることができる──はずだった。
もうどれくらい歩いただろう? ほとんど一本道で、前だってしっかり見えているはずなのに、道は果てがないかのようにどこまでも続いている。
その日はとても寒かった。けやきの葉がまだ緑色に繁っているにもかかわらず、今にも凍えてしまいそうなくらいだった。
少しずつ、不安が募ってくる。
瞼から滲むように溢れる涙を誰にも悟られたくなくて、僕はいつの間にか俯いたまま走り出していた。
そのうち涙で前が見えなくなった。肩にかけたバッグがはいつもの何倍も重たい気がして、いくつもの重りをぶら下げているみたいだった。僕は凍りつきそうな冷たい風に逆らいながら、必死に走った。
そのとき、不意に声を掛けられた。
「一希」
ようやく涙を拭って前を見ると、そこには母さんがいた。いつも見ていたオレンジ色のカーディガン。少しだけ長めのブルーパンツ。ああ、いつもの母さんだ。
「母さん……」
僕は小さく呼び掛けた。それだけで──その言葉を耳にするだけで、僕はもう涙を溜め込んでいることができない。
ここは夢の中──いや、夢の中だろうとなかろうと、母さんはもうこの世に住んではいない。そのことがとてつもなく悲しくて、淋しくて、どうにもたまらなくなる。
「ごめんね……」
母さんは相変わらずの聞き取りにくい声でそう言い、僕の頭を引き寄せた。母さんの腕の中はびっくりするくらい温かくて、少しだけタバコ臭い匂いがするけど、これ以上ないくらい安心した。ややあって、僕の腕に一粒、涙が落ちた。服の袖の生地越しにもわかるくらい、大きな涙の粒。
「ごめんね、一希」
僕はその声にいよいよ感情を抑えていられなくなって、人生における全てと言ってもいいくらいの量の涙を流して、大声で泣き叫んだ。
「こんな母さんを、許して……」
その声にびっくりして目が覚めた。
目の前には、仕事帰りであろうサラリーマンたちが忙しなく歩いていて、後ろの方からは聞き慣れた電車のアナウンスの声も聞こえる。手元には、中からコロッケの美味しそうな匂いがする袋が三袋。どうやら僕は、駅前のベンチで寝てしまっていたようだ。
学校を終え、今日の夕食となるコロッケを買いに行った後、僕は急激な疲労に襲われてこのベンチに腰掛けた。最近は徹夜で勉強をする日々が続いていたから、そのツケが回ってきたのだろう。僕は目覚ましとして、大量のコロッケの中から一つ取り出して、口に運んだ。
どうしてこんなにたくさんのコロッケがあるのかというと、別に僕が相撲取り並みの大食いだからというわけではない。行きつけのコロッケ屋の店主は、僕が受験生であることを知っているおかげで、いつもサービスをしてくれる。だが今日は、いつも以上に多く──余っているからと言ってたくさんくれたのだ。一パック五つ入りのパックが計六パック。いくら何でも食べ切れる気がしない。
ひとつ目を食べ終えたところで全く減った感じがしない、多すぎるコロッケに苦笑いをした後、僕は立ち上がって家へと向かった。
* * *
けやき大通りから大新通りへと入り、五十メートルほど行った先にあったのは、大新公園という公園だった。ここも、僕が小学生の頃に利用していた通学路だ(とは言っても、遅刻しそうな時に突っ切っていただけ)。僕の最近の帰りは、ここに立ち寄ることが日課になっている。
広い敷地の中にある滑り台や砂場、ブランコに、鉄棒。その奥には桜の木々がたくさんある第二の広場みたいな場所があって──。
そこに、ひとつの小さな人影が見えた。何気なく近づいてみると、体のサイズより少し大きめの黒いジャージを着た小柄な中学生くらいの子(おそらく僕より年下)が、ぽつんとひとり寂しそうに、低い石垣の上に座っていた。
まただ。
小柄なその子を、ここ最近毎日のように見かける。特別目立つようなことをしているわけではないけど、僕はその子を見るたびに何か大きなものを感じて目が離せなくなるのだ。一目惚れとはまた違う、まるで磁石のN極が対極であるS極を前にしたときみたいに引きつけられて、自分の力じゃ離れることができないような感覚を味わう。
唐突に、強い風が僕を横切った。冬の訪れを感じさせるようなその風は信じられないほど冷たくて、一瞬で全身の筋肉が縮むのを実感した。吐いた息がほんの少しだけ白くて、僕は思わずブレザーの上着のポケットに手を突っ込む。
その時、僕の足元に白い一輪の花が飛んできた。花径は十センチメートルくらい。大きくて綺麗、そして何より、美しいその花弁と、茶色い湿った土の地面はあまりに不釣り合いに見えた。
一瞬見とれてしまったけど、その花がどこから飛んできたのかがわかるまであまり時間は掛からなかった。僕はそっと花を拾い上げて、小柄なその子の方へと近づいていった。
風は相変わらず冷たい。かじかんでよく動かない足をゆっくりと動かして歩いて行くと、その小柄な子は少し離れたところで僕に気づいた。
これ、と僕は訊ねる。
「君の?」
近くで見た小柄なその子の顔立ちは、誰もが見惚れてしまうくらい美形だった。サラサラと流れる小川のように綺麗な黒のショートヘアから覗いたぱっちりとしたアーモンド型の目、小さめだけど筋のしっかりした鷲鼻。どこをとっても美しさで溢れていた。その子の華奢な膝の上にはいくつか花が乗っていて、どれも綺麗なものばかりだ。
「あんたさ」
不意にそう言って、その子は疎ましいものを見るような目で僕を見遣り、そっと肩を竦めた。
「毎日ここ来てるよね」
やはり、その子も気づいていた。いつも熱心に花の手入れ(毎日見ていたわけではないけれど)をしていたとはいえ、毎日訪れる僕を知っているようだ。僕は頷き、その子に、うん、と言った。
「ここ、帰り道なんだよ」
その子は僕の言葉に面倒臭そうに首を振った。
「へえ」
それだけ言って、その子は再び膝の上にある花へと視線を移した。僕はその横に拾った白い花を置いて、その子の隣に並ぶように石垣に腰掛けた。
僕は小柄なその子が扱う花が少し気になった。びっくりするくらい綺麗な花々のことが。
花はときに、冷たい風に寒そうにその花びらを揺らしていた。季節の変わり目である今の季節の風は、花たちもあまり得意じゃないのかもしれない。そんなことを思いながら、その子の手元をぼんやり眺めていた。
落ち着いてくると、最初は僕のことを邪魔なものを見るような目で見ていたその子も、地面につかない足をぶらぶらさせながら、少しだが口を開くようになってくれた。
その子は僕より二歳年下の十三歳、つまり中学一年生だった。目の下にはうっすら隈ができている。背丈は歳の割に小さめで、ずいぶんと痩せて見える。何より、中学生とは思えないくらい大人で、語彙が豊富で、整った顔立ちをしているけど、ほんの少し気難しそうなところもあった。
話をしてみると、本当にその通りだった。笑うどころか、表情を変えることすらない。中学生であるということを疑いたくなるくらい冷静で、暗い感じがした。
「毎日来てるんだったらさ」
そんな中学生はそう言って、抱えていたバッグから空き缶のようなものを取り出して、僕の前へと突き出した。
「お金入れてよ」
「お金?」
「お金ないと、今日の夕飯が食べられないんだよ」
え? と僕は思わず中学生を二度見する。食べられない、という言葉の意味が、僕にはよくわからなかった。
「どういうこと?」
どういうことって、と中学生は言った。
「どうもこうもないよ、そのままの意味」
そう言われても、僕の理解は追いつかなかった。中学生が夕食を食べるためのお金がない? 一人暮らしをする大学生や職に就いていない大人ならまだしも、中学生が口にする言葉ではないだろう。
「……家は?」
少し躊躇いがあったけど、僕は小さな声で訊ねた。けれどその子は僕とは対照的に、冷静さを保ったまま口調を変えなかった。
「ないわけじゃないけど」
と、中学生は言った。
「五ヶ月くらい帰ってない」
「帰って、ない……」
僕は動揺のあまり、返ってくる言葉をただ繰り返すことしかできなかった。どうして家に帰ろうとしないのかということ、どうして今日のような平日に制服すら着ていないのかということ、訊ねたいことが山ほどあったが、どれもこれも初対面で訊いていいようなことではなかったので、何も言えなかった。
それからしばらく沈黙が続いた後、ややあって中学生は、あーあ、と大きなため息をついた。
「今日は公園だめだな。場所変えよっと」
そう言って立ち上がり、荷物をまとめ始めた。
「どこ行くの?」
どこって、とその子は言った。
「駅前にでも行くよ。夕飯代稼がなきゃいけないし」
じゃあ、と言って、中学生は大きめのバッグを背負って、ジャージの裾を引きずりながら歩き出した。その後ろ姿はすぐに消えてしまいそうなくらい頼りなくて、大きめのジャージを羽織っているのに、ものすごく小さく見えた。僕は何だかその姿がとても悲しく思えて、思わず声をあげた。
「ねえ!」
自分でも不思議なくらい無自覚に出た声に驚いて、少し焦った。
ん? と中学生は振り返り、ジャージの袖をまくった。
「なに?」
えっと、と僕は言ってぎこちない笑みを浮かべた。
「コロッケ」
「……は?」
「いっぱいあるんだけど……よかったら食べる?」
僕が袋を見せながらそう言うと、その子は大きな目を一層まん丸にして、しばらくそこに立ち尽くした。
遠い東の空が、ぼんやりと暗い雲に覆われているのが見えた。ここからどのくらい離れているのかはわからなかったけど、あまりいい雲行きだとは思わなかった。
「あんたさ、何人家族なの?」
中学生は紙袋に包んだコロッケを頬張りながら、信じられないと言うかのように呟いた。おそらく、袋に入った大量のコロッケを見てそう思ったのだろう。僕は思わずクスリと笑って、いやね、と言った。
「僕今年受験生なんだけどね、そのことを知ってるコロッケ屋さんの店主がよくサービスとしておまけしてくれるんだよ。今日はそれがとんでもない量だったというわけ」
受験生、とその子は繰り返した
「じゃあ……あんたも中三なんだ」
「あんたも、って?」
「いや、確か姉ちゃんも今年受験って言ってた気がするからさ」
へえ、と僕は言った。
「じゃあ君は、弟なんだ」
何気ない言葉のつもりだったけど、中学生はなぜかコロッケを食べる手を止め、少しの間俯いてしまった。その横顔はどこか寂しそうで、少し色薄く見えた。ややあって、その子は
「久しぶりだ」
と囁いた。
「え?」
「ボクを女の子と間違えなかった人」
「ああ……」
確かにその少年の容姿は、どちらかというと女子的な魅力を持っているような美形だし、逆に男子であると言われた方が、信じられないという人も多いだろう。けれど僕は彼を一目見たとき、なんとなく、この子は男の子だな、そう思った。でもそれはほとんど直感で、どうしてそう思ったのかなんて、分かりはしない。
「よく間違えられるの?」
「しょっちゅう」
彼は両手に持っていたコロッケを包む紙袋を、膝上に置かれていた綺麗な花に持ち替えた。僕は空になったその紙袋をそっと手に取り、大量のコロッケが入った袋へと突っ込む。彼はそんな、僕のなんでもない一つ一つの行動に、度々驚いたような表情を浮かべていた。
やっぱり、この少年からは不思議な何かを感じる。それが何なのかはっきりとはわからないけど、彼の横顔を見ると、自分が強くなったような、弱くなったような、矛盾したような感覚に襲われる。
名も知らないその感覚に浸っていると、ねえ、と少年が呟いた。
「あんたは何のために受験をするの……?」
「何の、ため……?」
「何を目的に受験をするのかってこと」
今まで生きてきて、初めて受けた質問だった。創知学園を目指す理由ならこれまで幾度となく訊かれてきたが、受験そのものの目的を訊ねられたのは、これが初めてだ。確かに僕にとって高校受験というのは初めての受験であったけど、その目的を明確に考えたことがなかった。
たかが十数年しか生きていない僕は、人に自信を持って語れるような受験の目的を抱いているのだろうか? そんな質問をされたらおそらく、僕は腕を組んで首をひねることしかできないと思う。
僕はアリジゴクの巣穴に落ちた蟻のような人間なのかもしれない。自分を満たすためじゃない、必死に何かにしがみつこうと足掻く。これじゃあ、例え助かろうとも巣穴に引きずり込まれようとも、清々しく自分を褒めてやることなんてできやしない。
必死になりすぎるあまり、結局は洗い物に使う洗剤か何かのように、受験というものに費やす時間が無駄なものになっているのではないか? ときには自分に大きな充足感をもたらすようなこと──そして自分が胸を張って人に語れること──はっきりとしたビジョンを持つことも僕には必要なのかもしれない。心臓に爆弾を抱えていること、母親がいないということ──きっと僕は、そんな現実を振り払いたくて必死に足掻いている。
「考えてみると、ちっぽけだね」
ちっぽけって、と少年は訊いた。
「どういうこと?」
「母さんが死んだり、心臓が悪かったり、僕は少しだけ嫌なことを経験してきたから。そんな経験を覆すようなことをしたい、というか、しないとどうにかなりそうなんだ」
だから、と僕は続けた。
「自分に残ってる可能性はもうここしかなかったってわけ。その可能性にしがみつくしかなかった、っていうのかな」
そう言って、僕は自分の頭を指差した。
「ちっぽけでしょ? 充足感よりも疎外感に追われて動いてる人間なんて」
そう言うと、今まで静かに聞いていた少年は僕の拾った白い花に手を伸ばした。
僕は何を言っているのだろうか。年下の中学生にバカなことを言ったと、後悔が募る。結局僕はこんなことを言い訳にして、受験からも逃げるのかもしれない。本当に、僕はどうしようもない人間だ。
「……そうかな」
不意に、少年が呟いた。
「ボクは意外と、あんたの考え嫌いじゃない」
少年は小さく肩を竦めた。
「誰かに説教くらった気分だけどね」
「あ……ごめん」
いや、と彼は大きく伸びをした。
「ろくでなしの大人に説教されるよりかはよっぽどましだよ」
「大人?」
と僕は訊き返す。
そう、と少年は言った。
「ボク、大人嫌いなんだ」
彼の言葉に応えるように、僕らの後ろにある山茶花の垣根が音を立てて揺れた。
少年の手によって剪定されていく白い大きな花は、どんどんと美しさを増している。
「大人はみんなバカみたいな理想論、綺麗事しか言わない。学校の教師なんて特にそうじゃん。現実味のない空論を『お前のためなんだぞ』とかなんだとか言って押し付けてくる。本当は、他人ために綺麗事を言う自分がかっこいい、としか思ってないくせにさ」
ずるいよね、と言って彼は大きくため息を吐いた。
「ボクはそんなやつらの言うことなんか聞きたくなかった。学校になんて行くより、生きてるって感覚を実感できる物事を探しに行きたかった。ただ家族にはそれがわかってもらえなかった、だからボクは家を出てきたってわけ」
僕は少年の言葉を脳に焼き付けて、彼の境遇を頭の中で描いてみた。
僕とよく似ている。
自分を励ますことよりも自分を満たすことを求めたいと思うその気持ちは、この少年と通じるところがある。
けれど大きく違うところが、ひとつだけある。それは、彼は行動に移したということだ。頭ではどう思っていても、僕は結局首を傾げたまま変わろうとしていない。
どうにかしたいと思いながらも、必死に巣穴から逃げ出そうとすることをやめない蟻を僕だとするならば、少年は自分の道を歩き自分を満たすために、リスクを負ってまでアリジゴクに立ち向かう蟻だ。
そんな彼に、僕は訊ねてみる。
「その物事っていうのが、その花?」
「そういうこと」
僕はそれを聞いて、なんとなく少年に惹かれた理由がわかったような気がした。彼が持つ、大きくて強い信念、意思。どうやらそれらに、秘密があるのだと気付いた。
この少年は、自分の人生に自分で色を塗っている。また、自分の色というものを知っている。つまりそれは、もうこの歳で自分の生きるべき道が見えている。
本来中学生くらいの年頃なんて、何かがトリガーとならない限りは自分の人生に色を塗ることすらしない。自分の憧れの人物がこんな生き方をしていた、だから自分もこんな生き方をしたい。こんな風に、まずは誰かの色を真似て、そこから自由に自分の色というものを作り出し、塗っていく。だから、塗り終わった後見返すと、少しだけゴチャゴチャしていて、色もくすんで見える。
だから、僕はこの少年が持つ鮮やかな色に強く惹き寄せられたんだ。
「でも」
不意に、少年が静かに囁いた。
「あんたは結構すごいと思うよ」
彼は、気に食わないけど、と付け足してそう言った。
その言葉が、静かな広場によく響いた。それに呼応するかのように、冷気が風に乗って運ばれてくる。僕は制服の襟を少し上げて、首元を隠した。
「どうして?」
「あんたは自分の見出した少しの可能性を信じてやってるんだろ?」
ボクはさ、と彼は言った。
「あんたと違って、逃げたからさ。学校にも行かない、家からも出て行く。可能性を探しもしないまま逃げたクズだよ」
それでも、と少年は続ける。
「それがわかってても、大人を好きになろうと思えないからどうしようもないよね」
なんだかその言葉が恐ろしい予言のようにも聞こえて、僕の心臓が一度大きな鼓動を鳴らした。彼にはその生き方を変えて欲しくない。やさぐれることがいいことだとは言えないけど、その強い信念は忘れて欲しくなかった。それに──。
「言っていいかな?」
ん? と少年は表情を変えないまま首を傾げた。
「別に大人を好きにならなくたっていいし、僕はむしろ君の姿勢は変えて欲しくない」
でも、と僕は言葉を紡ぐ。
「君を本気で応援してくれる人は必ずいる。それに、君だって本気で応援したいと思っている人がいるはずだよ。それは忘れないで欲しい」
ああ、情けない。
自分の行動すら伴っていないくせに、人に何かを言えるような立場でもないくせに、僕は今こうして年下の中学生に説教がましいことを言っている。
けれど、だからこそなのかもしれない、とも思う。
この少年を心配する気持ち、本気で思いやってくれる人がいるということに気づいて欲しい気持ち、これらは全て嘘ではない。けれど本当は、自分に言い聞かせるための言葉だったのかもしれない。こんなに未熟で情けない自分に言い聞かせたくて、だからこそこんな偉そうな言葉を口にしたかもしれない。
少年はその言葉に、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「あんたにはいるの? そういう人」
もちろん、と僕は言って苦い笑みを浮かべた。
「僕を支えてくれる人は数え切れないほどいるし、応援したいと思う人もいる」
僕はそっと目を閉じて、以前にキャンバスに描いた後ろ姿を思い浮かべる。いつだって大きく見えて、ああ、どこか遠くを目指しているんだな、それをはっきり感じることのできるくらい強い、茜の後ろ姿を。
「どうかな」
と少年は言った。
「実感ないけど」
「そうじゃなきゃ、人間生きられないよ」
「へえ……」
でも悪いけど、と彼は呆れたように言った後、バッグからハサミを取り出して、手入れをしていた白い花の茎を切った。
「ボクは野良犬みたいに惨めで、家族からも見捨てられたとしか思えない捻くれた放浪者だから、誰かに支えられて生きているなんて思えないよ」
まあでも、と言って少年は石垣からぴょんと降りて、こちらを振り向いた。
「あんたのことは応援してみるよ」
そう言って彼は、三輪の白い花が綺麗にまとめられた栞のようなものを僕の方へと差し出した。僕は少し驚いて、視線をその花と少年の顔を何度も行き来させる。
「今年受験なんでしょ?」
なら、と彼は言った。
「勉強が嫌になったり、やめたくなった時は、これ見てボクの憎たらしい顔でも思い出してくれよ」
そう言って、少年はにやりと笑った。それはびっくりするくらい無垢な笑顔で、すごく人なつこい笑顔だった。
「プリザーブドフラワーって言ってさ。この胡蝶蘭の花、水分が抜いてあって保存液が入ってるから、長い間枯れないんだよ。だから、受験には縁起がいいと思うんだよね」
「……これが、君のやりたかったことなの?」
そうだよ、と彼は小さく笑った。
「皮肉だよね。家出をした人間がやりたかったことが、枯れない花の製造なんてさ」
じゃあ、と少年は言った。
「今日は助かったよ。お礼ってわけじゃないけど、そのお守り受け取ってくれ」
コロッケ美味しかった、少年はそう付け足し、僕に一度敬礼ポーズをして歩いて行った。相変わらずジャージの裾を引きずっていたけど、その後ろ姿はさっきよりもほんの少しだけ明るくなった気がした。
その時──少年が、何かを思い出しようにこちらを振り向いた。
「そういやあんた、名前は?」
唐突に名前を訊かれて、僕は少し驚いた。そんな僕を見た彼はすこし長めの前髪を手のひらで上げると、再び、名前、と言った。
「えっと……東雲」
「変わった名前だな、あんた」
「いや、それは苗字だから……」
少年が、はあ、と渋い顔をした。まくっていたジャージの袖を下ろす。
「下の名前だよ、下の名前」
「下は……一希」
一希、と彼は、僕の名前を繰り返した。
「いい名前じゃん」
「君は?」
そう訊き返すと、彼は一瞬押し黙り、少し照れ臭そうに鼻の下をこすった。
「玲衣」
玲衣、と僕はさっきの彼がそうしたように、少年の名前を繰り返す。
「いい名前だね」
玲衣は複雑といった感じのぎこちない笑顔を浮かべた。そして、初めて愛する人へ告白をした無垢な小学生のように、ほんの少しだけはにかんでいた──。
遠い山の上の方が、ずいぶんと濃い霧に覆われているのが見えた。もうすぐ雨が降りそうだ。寒さが一層増して、僕は再びブレザーの襟を上げた。
そうだ、と僕は思った。確かにそうだ。
玲衣はやさぐれ者で、大人が嫌いで、素直になれない捻くれた中学生かもしれない。
でもね、玲衣、僕は心の中で呟いた。
君は僕にとって、すごく大事な人になった。君が見せてくれた強い信念と心は、これからきっと幾度となく僕を励ましてくれる。
この先、君には僕の想像できないような困難が襲ってくると思う。でも、君なら乗り越えられる。ほんの僅かな時間だけしか話していないけど、僕にはわかる。だって君の遠くを見つめる目は、茜とよく似ていたから。だからきっと、君も彼女と同じように色鮮やかに自分の人生を染めることができると思う。
僕は絶対に忘れない。たくましい君の生き方や姿勢。あまりに年齢と不釣り合いで不似合いな考え方だけど、それでもすごく綺麗だった。僕も君みたいに強い眼差しが欲しいって、心の底から思った。
君は、僕に新たな可能性をくれたよ──。