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胡蝶蘭を空へ  作者: 座敷 蕨
二章 In tiers
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2 朝蘭の九月 ─少女の天秤─

 夏が終わり、もうずいぶんと空気が涼しく感じられる季節になった。同時に、中学三年生のわたしたちは、それぞれがそれぞれの道を志し、歩いて行かなくてはならない時期でもある。それはもちろんわたしにも同じことが言えたけど、わたしはまだ自分の中の岐路に立ったまま動くことができていない。


朝蘭さら、帰ろ」


 放課後。六限目の数学の授業を終え帰り支度をしていると、いつものように一足早く荷物をまとめ終えた隣の席の美春みはるが声をかけてきた。


「雨降りそうだし」


 先月の暑い八月に比べると、今日は日暮れが早い。雲は低く漂っており、薄霧のようなものまで見える。今にも泣き出してしまいそうなその空模様は、もうすっかり秋のそれだ。そんな窓の外を目を細めながら見つめる美春みはるは相変わらずの寒がりで、もう既に紺色のセーターと黒色のタイツを着用している。


「今日の天気予報はどうだったっけ?」


 そんな彼女に、わたしは訊ねてみた。


「降らないとは言ってたんだけどね。でもこの調子だと、すぐに崩れそう」


「傘持ってきてないなあ……」


「あたしも」


 わたしがスクールバッグのチャックを閉めて立ち上がると、美春みはるはセーターの袖ですっぽり覆われた両手を擦り合わせ、小さく息を吐いた。そんな彼女の姿を見て、わたしもまくっていたワイシャツの袖を下ろす。


「あーあ、今日カラオケ行きたいと思ってたのになあ」


「はあ?」


 わたしの言葉に、美春みはるは両手で口元を覆うのをやめて、セミロングに整えられた髪を耳にかけた。


「カラオケ?」


「うそうそ、冗談だよ」


「こんな田舎にカラオケねえ……」


 と彼女は言った。美春みはるはいつもこんな調子で、いつだってさっぱりしている。


 けれど彼女の言う通り、私たちが住むかつらぎ町、天野の里と呼ばれる場所は、その名の通り「里」だ。四季折々のどかな田園風景が広がる天野盆地は、『にほんの里100選』にも選ばれている。


 夏には源氏ボタルの乱舞が見られ、秋にはまばゆいばかりの稲の波が広がるという、豊かな自然に恵まれた地域だ。


 ちなみに、美春みはるがこの町につけた異称は「弥生時代の遺産」。


「ごめーん! お待たせ!」


 わたしと美春みはるの会話が途切れたちょうどいいタイミングで、横から柔らかい声が聞こえてきた。


「ごめんごめん、授業が長引いちゃって」


 声のした方を向くと、見るからに優しそうな八の字の眉をした顔があった。そんな顔の前で両手を合わせているものだから、本当に申し訳なさそうに見える。彼女は、隣のクラスの透子とうこだ。


「よし、透子とうこも来たことだし、帰るか」


 そう言って美春みはるがバッグを背負い直したとき、透子とうこが何かに気づいたかのように、ハッとした。


「あっ、ごめん! 教室にノート置いて来ちゃった。ちょっと待ってて!」


 と言って、彼女はわたしたちに小さく頭を下げた後、小走りで教室に戻っていった。飾り気のないお下げ髪が何度も左右に揺れていて、せわしない様子のはずなのに、なんだかとてもほっこりしている。


 サバサバしていて面倒臭がり屋だけど、本当はとても世話焼きのいい美春みはると、少し恥ずかしがり屋で内向的な部分もあるけど、普段は明るくて友達思いな透子とうこ。彼女たちはわたしにとって、かけがえのない親友だ。


透子とうこってやっぱり天然……」


「今に始まったことじゃないでしょ」


 独り言のつもりだったが、美春みはるはしっかりとわたしの言葉に反応した。彼女は相変わらず寒そうに体を揺らしながら、どこか遠くを見つめるような目をしていた。


 わたしは美春みはるのそんな目が好きだった。いつでも眩しそうに細めていて、長いまつから覗く瞳は、いつだって真剣に、どこか遠くを見つめていた。


「……寒いね」


 わたしは思わず、彼女に呟いた。ほとんど、無自覚で。


「だね」


 少しだけ間を置いて美春みはるが小さくそう言った、その時──。


乙川おとかわいるかー?」


 唐突に、静まっていた教室に飛んできた野太い声が呼んだのは、わたしの名前だった。担任の松林まつばやし先生だ。基本的に生徒とは談笑しないタイプの先生で、少しとっつきにくい部分はあるけど、その落ち着き故にとても頼り甲斐があって、みんなからの評判もいい先生だ。


「なんですか?」


 そう言うと松林まつばやし先生はほっとしたようにため息をつき、半開きになった教室のドアの向こうからわたしを手招きした。


「職員室来い。ちょっと話がある」


 先生はそれだけ言って、さっさと階段を降りて行ってしまった。わたしはしばらくその後ろ姿を見つめた後、美春みはるの方へと視線を移した。


 そんなわたしを見た彼女は、「待っててやるから行ってこい」と言うかのように小さく頷いて、透子とうこの教室の方へと行ってしまった。身支度を整えて、わたしも教室を後にする。


 何気なく振り返ると、なんだか教室が前よりもずいぶんとすかすかになっていたような気がした。






 驚いたことに、職員室には松林まつばやし先生しかいなかった。まだ荷物の置いてある机もあったけど、椅子に座って仕事をしているのは、彼だけだ。


 先生はまだ三十路だというけど、冷静で、いつでも気怠そうにしている顔の人にありがちなように、実際の年齢よりもはるかに老けているように見える。けれどそんなことを口にすると怒られそうなので、黙っておくことにする。


 無造作な髪型と、細いメタルフレームの眼鏡をかけた姿は、まるでドラマの有能医師役として出演する俳優のようだった。


「他の先生、今日はみんな早帰りなんだよ。俺はお前らの成績つけなきゃなんないけどな」


 と彼は言った。


「で、本題だ」


 はい、とわたしは言った。先生はパイプ椅子を出してわたしに座るよう促す。ありがとうございます、と言ってその椅子に座ると、先生は束になったプリントを取り出した。


「何で呼ばれたか、心当たりはあるか?」


 ええと、とわたしは言った。


「去年、家庭科室の炊飯器のスイッチ壊したことですか……?」


 しょうもないボケに、はあ、と先生は大きなため息をついた。


「今更そんなことで呼ぶわけないだろ……」


「じゃあ……」


「これだよ」


 そう言って先生は、束になったプリントから一枚だけを取り出して、わたしの方へと差し出した。覗き込んで見えたのは、少しだけ憎らしげに居座る、あまり見たくなかった文字だった。




『進路希望調査』




「提出締め切りはもう二週間前だ」


 と先生は言った。


「お前だけだぞ、出てないの」


 先生の言葉にわたしは何も返すことができず、ただ黙って下唇を噛み締めた。自分だけ、という孤独感と、自分の中で繰り返される葛藤、決断できない自分の優柔不断な性格。一つ一つがわたしの身体を蝕む病のようになって、この進路希望調査の紙にペンを走らせることを妨げていた。


「……迷ってるのか」


 と先生は言った。それは独り言のようで、本当に途方にくれてしまったときに口にするような、深い溜息のような言葉だった。


「……どうすればいいんでしょうか」


 と、わたしは馬鹿みたいに言った。


「まあ確かに、お前の頭だったら選択肢は腐るほどあるだろうよ。どうすりゃいいかも迷うだろうけどな……」


 と、先生は言った。それもまた、独り言のようだった。


「さすがにもうこの時期になると、その可能性を潰すことになるぞ」


 松林まつばやし先生はまるで台本に書いてあるかのような、真っ当だけれどもありきたりな言葉を口にした。だからって、先生の言葉が気に入らなかったわけじゃない。先生はわたしが何をすべきかをちゃんと知っていたし、わたしがどうして進路希望調査を提出できないか、その理由もきちんとわかってくれていた。


 けれど、いつになっても振れが止まらない天秤を抱えたわたしにとって、彼の言葉は全部独り言のようにしか聞こえなかったし、全てが上の空だった。




     * * *




 辺りはもう、野良猫の片影すらないくらい暗くなっていた。家の庭では、見えなくなった花たちが風に揺れる微かな音や、秋の虫の寂しげな声だけが響いている。けれど今のわたしにとっては、こんな風景ですら慰めのようなものに感じてしまう。わたしの心の中には、壮大すぎる沈黙が広がっていたから。


 地球規模、いや宇宙規模の広すぎる沈黙。おそらく今だけは、水の滴る音ですらわたしを笑顔にしてくれるだろう。


「おかえり」


 古びた玄関を開けると、わたしよりも先にお母さんの温かな声が飛んできた。ゆっくりとした足取りで玄関まで来てくれた彼女に、わたしは精一杯の笑顔を繕ってみせる。


「ただいま」


 そう言うと、お母さんはにこりと笑ってわたしのバッグを持ってくれた。久しぶりに見たその手にはまたシワが増えていて、ひびやあかぎれすら見受けられる。それが少し悲しくて、おまけに働いている女の人の匂い──石鹸のような匂いがしたものだから、わたしはこれ以上お母さんを見ることができずに、目をそらした。


「お母さん、わたし先にお風呂入るね」


 わかったわ、と言って、わたしのその言葉にもお母さんは優しく微笑んでくれた。


「じゃあ、着替え用意しておくわね」


「ごめん、ありがと」


 と返して、ワイシャツのボタンを外して洗面所へ向かおうしたとき、


「あ、朝蘭さら


 不意に、お母さんがわたしを呼び止めた。


「さっき、家庭教師の元間もとま先生から連絡あってね。明後日の授業は土曜日に変更になったって」


「あー、うん。わかった」


「……それとね」


 急に声のトーンが低くなったことに少しだけ驚いて振り返ると、そこには複雑そうな笑顔を浮かべたお母さんの姿があった。


「……日曜日、お父さん帰ってくるから」


 お父さんが、帰ってくる。


 なんだかすごく、独特な響きだった。たったひと言だったのに、松林まつばやし先生の言葉よりもずっと重いもののように感じた。わたしは俯いた姿勢のまま凍りつき、ほとんど無意識のうちワイシャツの袖を握っていた。


「出来たら仲直り、ね……」


 なんだろう、胸がざわついて仕方がない。お母さんの優しい声に滲む微かな悲しみと、寂しさ、後悔。


 お父さんは仕事熱心で、わたしが小さい頃から単身赴任が多かった。だから家にいることも少なくて、今でもそれほど多くの思い出があるわけでもない。けれどわたしはお父さんのことが大好きだったし、頑固で、簡単に自分の信念を捻じ曲げない人だったけど、そんな父を誇りに思っていた。


 けれど、わたしがそんなお父さんと最後に会話をしたのは、もうずいぶんと前のことだ。わたしがちょうど三年生になって一ヶ月が経った五月の頃、ある出来事が起きたのだ。


 あの日、わたしは初めてお父さんに幻滅した。


 わたしには、たった一人の弟がいる。名前は玲衣れいというけど、立派な男の子だ。明るい性格だったし、特別何かに劣っていたわけではない、けれど玲衣れいはたったひとつ、自由奔放な性格であった。彼は縛られることを何よりも嫌っていた。その対象が規則というものであっても、義務教育というものであっても。


 玲衣れいが中学校を辞めると言いだしたとき、当時のわたしは彼が何を言っているのか理解ができなかった。義務教育という名前が付いているくらいだから辞めることなんて許されないだろうし、何より辞める理由がわからなかった。いや、はっきり言えば、知ろうとしていなかったのかもしれない。


 わたしとお母さんはそれを必死に止めたけど、玲衣れいはそれを聞き入れようとしなかった。その理由の根幹に、お父さんがいた。お父さんは、玲衣れいのその意向を否定も肯定もしなかったのだ。


「お父さんは玲衣れいを見捨てた」


 わたしたちだけではなく、玲衣れい本人ですらそう思ったはずだ。わたしは泣きじゃくりながらお父さんに訴えた。どうして自分の息子を簡単に見捨てるのだ、と。けれど、お父さんはやっぱり口をつぐんだまま、何も言おうとしなかった──。






 その時から、わたしはずっと考えていることがある。


 わたしにとって、家族とは何なのか、と。思い出って、一体何なのだろう、と。


 あれから四ヶ月、お父さんは何度か単身赴任を繰り返し、玲衣れいは一度も家に帰ってきていない。けれどいつになっても、わたしは彼らとの思い出を捨てることができなかった。


 わたしにはひとつの夢──憧れの家庭教師である元間もとま先生と同じ、大阪の名門校である創知そうち学園に合格するという夢があったけど、頑固なお父さん、自由奔放な玲衣れい、そして今、その悩みをひとりで背負い続けるお母さんを置いて一人、和歌山の田舎町から大阪に行くことなんてできやしない。けれど、諦めなきゃいけないはずの夢にまで手を伸ばす、欲張りな自分がいる。こんな自分のことを、わたしは大嫌いだった。


 わたしは下唇を噛み締めながら、ポケットに入っているお守りをぎゅっと握りしめた。いつかの春に玲衣れいがくれた、淡い淡いピンク色の胡蝶蘭でできたお守りを──。

 

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