1 一希の八月 ─目指すべき場所─
お世辞にも ロマンチックだったとは言えないし
名作となるような 一枚の絵画や
万人の心を動かす ひと綴りのポエムがかけるほど
幻想的だったわけでもない
僕たちの出逢いはもっと
自然で 清々しくて
何より どうしようもなく 運命的だった──
* * *
「おう柴山、泳ぐの競争しようぜ」
「おっ、田中この野郎、やってやろうじゃんか」
「ちょっと男子、海だからってあんまりはしゃがないでよね」
「ねえねえ、女子みんなでビーチバレーやらない?」
「やるやるー!」
海辺に響く生き生きとした声たちは、それぞれがそれぞれの色を持っていて、それらは神秘的に輝く海の青色や、陽炎の向こうにある空の群青色にも負けていないくらい綺麗だった。僕はそんな風景を、海から少し離れたパラソルの下で一人、白いキャンバスにおさめようと色鉛筆を走らせる。
夏という季節は、むしろその強すぎる太陽の光によって、ごくまれに冬以上に人々を淋しい気持ちにさせてしまうことがある。
中学生として最後となる、夏の大会を終えた僕たち樫野宮中学陸上部三年生は、引退後の思い出づくりとして、こうして和歌山市にある浪早ビーチを訪れている。それは本格的な部活の終わり、つまり本格的な夏の終わりを象徴としているのだ。加えて、これから受験を控える僕らにとって卒業式まではあっという間だし、少し大げさかもしれないけど、みんなとの別れも意識しなくちゃならない季節ということである。
けれど、彼らの楽しそうな声を聞いていると、そんなことがまるで嘘みたいに思えて、だから僕は、眼前に捉えていた風景をほんの少しだけ色彩鮮やかにキャンバスに描いた。それぞれが自分を主張しすぎている絵のようにも見えるけど、今の彼らにはちょうどいい、そんなことを思った。
「上手いね」
唐突に、その声の一つが僕の耳のすぐそばで聞こえた。
その方向に目をやると、興味深そうに僕のキャンバスを覗き込む少女がいた。水着の上から肩出しのシャツという目のやりどころに困る格好をした、ポニーテール姿の少女。
「一希くんの絵、初めて見たかも」
そう言って僕の横にちょこんと座ったのは、今年の女子陸上部の躍進の立役者であった部長の金澤茜であった。今回の思い出づくりの話を持ち出したのも、紛れもなく彼女である。
「ざまあねえな、田中! この俺、柴山様に喧嘩売るなんて百年早いんだよ!」
ずいぶんと息を切らしている姿に不相応な言葉を吐いているのは、男子陸上部の部長であった柴山だ。
「あーあ、柴山くん。部長なのに大人気ないや……」
体を伸ばしながら深呼吸をしていた茜は、周りの目も気にせずガッツポーズを繰り返す柴山を見て苦笑いを浮かべた。
「いいじゃん、楽しそうで」
僕がそう言うと、茜は伸ばしていた両手で膝を抱え、自分の頭を膝頭に預けた。
「……ごめんね」
「え?」
急に深刻そうな声で謝ってきた茜の方に目を向けると、彼女は頭を垂らしたままこちらをぼんやりと眺めていた──が、目が合うとすぐに伏せてしまった。
「だって一希くんが泳げないの知ってるのに、わざわざ思い出づくりの場所として海を選ぶだなんてさ」
泳げない。
別に僕が水嫌いなうさぎのようにカナヅチであるというわけではなく、その理由は僕の心臓にある。
小さな頃から心臓が弱かった僕は中学二年生の春に、自分の専門種目であった千五百メートル走の練習をしていた時に、心臓の発作を起こしたのだ。幸い、生命に支障をきたすような大ごとにはならなかったけど、その日から長距離走はドクターストップ。けれど心臓を強くする療法として、軽いジョギングを少しずつ行うという運動療法を勧められた。だから本来、僕は陸上部を退部してもおかしくはなかったが、仲間たちはその治療の機会のために、僕を陸上部に残してくれたのだ。そんな彼らが望んだ海での思い出づくりを、僕の身勝手で台無しにするわけにはいかない。
「僕は練習に参加させてもらってる身だからね。僕のせいでみんなに迷惑をかけるのは悪い」
「でも……」
こんな風に、茜は出会った頃からみんなのことを第一に考える、心優しい子だった。だからこそ、個性的なメンバーの多かった陸上部の部長として多くの人望を集め、好成績を残すことができたのだろう。
でもまあ、と僕は色鉛筆を動かす手を止めた。
「心臓さえよければ、僕もあいつらと一緒にああやってバカ騒ぎしたいけどね」
そう言うと、茜はようやく顔を上げてクスクスと笑った。
「一希くんって、そういうタイプだっけ?」
「結構、大騒ぎする方だと思うよ」
「嘘だあ」
「ほんとだって」
僕たちは二人顔を見合わせて笑った後、自然と揃ってみんなの方へと視線を向けた。ジリジリと照る太陽の下で、みんな楽しそうな笑い声を上げている。
暑くないのだろうか。
パラソルの下にいる僕ですらうんざりするくらい暑いというのに、彼らは涼しそうな顔をして、眩しい笑顔を浮かべている。もしかすると彼らにとってはもう、今年の夏は暑くないのかもしれない。それが気持ちのいい潮風のおかげかどうかは分からないけど、おそらくもう、暑さを感じていない。
「早いなあ……」
不意に茜が呟いた。
ん、と僕は彼女の方へと目を向ける。
「なんだか、部長に立候補したのがつい最近みたいに感じる」
そうだね、と僕は言った。
「三年生は特に時間が経つのが早く感じるって、みんな言ってるよ」
「……少し淋しいな」
ポジティブで明るい性格の彼女だが、その声はいつもと違っていて、少しだけどんよりとした鉛色に見えた。それがあまりに彼女に似合っていなかったから、僕はその色を少しでも明るく塗りたいと思い、笑ってみせる。
「でも、びっくりしたよ」
「え?」
と茜は不思議そうに首を傾げた。
「まさか茜が自分から部長に立候補するとは思わなかった」
確かにそれは彼女を慰めるための言葉ではあったけど、嘘ではなかった。僕の知っている彼女はいつも、みんなをまとめ上げるという柄ではなかったし、どちらかといえば影で努力をするタイプだった。だから、彼女が自ずから手を挙げ「部長やります」と言った時は、ずいぶんと驚いたことを覚えている。
「……そりゃあ、最後の年だったし」
茜は再び俯いて、僕と視線を合わせようとしなかった。言葉の続きを言うのが少し照れくさいのだろうか、彼女は縮こまるように膝を抱え直す。
「……最後の年は、絶対みんなでいい成績残したかったし。だから私が引っ張っていければいいなあなんて、思ったから」
やっぱり、彼女は優しい。みんなを上手くまとめていても、みんなで好成績を残すことに意義を感じられる人は、そうそういない。だからこそ、僕は彼女が部長で良かったと、心からそう思った。
「結局、県大会止まりだったけどね」
「高校行ってもやるんだろ? 陸上」
もちろん、と茜はパッと顔を上げて、両手の拳を握ってみせた。
「一希くんの分まで走ってくるよ!」
僕と同じ種目をやっていた彼女の言葉だからなのだろうか、その言葉がとても大きく聞こえて、頼もしくて、何よりとても嬉しかった。
「頼んだよ」
僕のその言葉を最後に、彼女はしばらく黙り込んでしまった。ただ、波音に消えそうなくらい小さな、鼻をすする音が何度か聞こえるだけだった。
ねえ、と彼女は言った。
「……一希くんは、大阪の高校だっけ?」
「まだ受かると決まったわけじゃないけどね。一応志望」
「和歌山から通うの?」
と彼女は訊いた。
「ううん。多分、引越しになるかな。父さんの仕事のこともあるし」
そうなんだ、と彼女は言った。
「大阪かあ……。そうだよね、一希くんくらいの頭になると、この辺の高校で満足はできないよね……」
「高望みだけどね」
僕の目指す創知学園は、大阪市の淀川区に位置する名門府立高校だ。大阪ではトップクラスの偏差値を誇っており、全国でも十本の指に入るその高校は、この関西では間違いなく最難関と言えるだろう。
もちろん、僕の今の学力では到底及ばない場所だ。だから、僕は今まで以上の努力を積み重ねなくてはいけない。けれど、僕にはどうしてもそこに行きたい理由がある。どれだけ辛い道のりになるかもわからない、でも僕がそこを目指すにはわけがある。
すごいや、と彼女は言った。
「やっぱりすごいよ。一希くん……」
彼女がそう言った瞬間、僕らの目の前に勢いよくビーチバレーボールが飛んできた。中途半端に空気が入っていてあまりよく弾まなくなっているけど、鮮やかな三色のボール。
「おーい茜ー! ボール取ってー!」
逆光でよく見えなかったけど、浜辺の方で女子の一人が大きく手を振っている。応えるように、茜は立ち上がって、そのボールを拾い上げた。だが彼女はそれを投げ返すことなく、両手で大事そうに持った後、しばらく俯いていた。
「……どっちにしろ、もう今みたいに簡単には会えなくなっちゃうんだよね」
今までに聞いたことのないような震え方をしていたその声に、僕は少しだけ驚いた。茜の方を見ると、いつもは彼女の器を表しているかのように大きく見えていたその背中が、少しだけ頼りなく見えたような気がした。
「え……?」
なんでもない、と彼女は背伸びしながらこちらを振り返った。
「とにかく、全力で頑張ってきてね。応援してる!」
そう言って、茜はいつもの明るい笑顔でウインクをして見せた。その表情に少しだけ安心して、僕も笑顔を返す。
「もちろん、頑張ってくるよ」
茜は大きく頷いて、ビーチバレーボールを持ったまま浜辺の方へと走って行った。やっぱり彼女には、走っている姿がよく似合う。
僕は再び色鉛筆を握り、とびきり鮮やかな色合いで、彼女の走る後ろ姿を描いた。