5 名前
僕らはしばらく、塩屋町にある運動公園のウォーキングコースを歩いていた。ただただ懐かしかった。乙川さんと二人で何度も歩いたことのあるこの道。もちろん今のように、サーフボードを持った元間先生とも歩いたことがある。僕もあの頃よりは大きくなったのだろうか、姿を覗かせる遊具たちが、昔よりも少し小さく見える。
辺りはもうすっかり暗くなっていた。それなのに、なぜだろう。ここに来る前よりも少しだけ歩く先がよく見える。
新幹線に乗っていた時に感じていたあの心許ない気持ちはもうなくて、僕の足はずいぶんと軽くなっていた。そんな感覚を得たのはとても久しぶりで、僕は思わず、ため息ではない、ほっと休むときに吐くような一息をついてみる。
そんな僕を見たのか、隣を歩いていた元間先生が呟いた。
「よくあたしがここにいるってわかったね」
ふと横を見ると、暗闇の中でかすかに光る芝を背景にした元間先生が、ほんの少しだけ目を細めていた。黒と青のサーフィンスーツ。仕事のない日の先生はいつだってサーフィンスーツを着ていて、それなのに違和感を感じたことなんてなかった。そのことを言うと、「あたしの私服はこれだからね」なんて笑いながら答えるのが、先生のお決まりだった。
「覚えてますよ」
と僕は笑ってみせた。地面に転がる石を蹴ってみたり、大げさに鼻をすすってみたりして、かつての想い出を一つ一つ噛み締めるようにして、次の言葉を紡いだ。
「夜のフカサーフィンポイントが一番好きだって、言ってたこと」
僕のその言葉に先生は、よく覚えてるわね、と言って笑った。
確かにこんな些細なこと、いちいち覚えている方が変わっているのかもしれない。それでも僕にとってはすごく大切なもので、だからこそ忘れたくないし、忘れて欲しくもない。先生の好きなサーフィンポイントがどこなのか、好きな時間帯はいつなのか。端から見れば大したことではないのかもしれないけど、今日僕が先生に会うことができたのは、その記憶が一つの道標になってくれたからだ。
運動公園を抜けると、灰色のブロック塀に囲まれた路地に出た。当時は鉄筋コンクリートづくりの建物がいくつもあったけど、そこにはもう、シャッターの閉まった小さな店が一つだけぽつんとたたずむ姿しかなかった。
いつかの記憶と重ね合わせるようにして辺りを見回す僕の後ろを支えてくれるかのように、先生はゆっくりと後ろからついてきてくれた。時々靴の紐を結び直したり、サーフボードを担ぎ直したりしていたけど、僕の歩幅に合わせて歩いてくれるその姿は、昔となんら変わっていなかった。僕はそれが無性に嬉しくて、まるで子どもの頃に戻ったかのように歩く足を早めて、そのシャッターへと近づいた。
シャッターには、『かみひら文具』と書いてある。昭和の店の証というべきか、『ひ』と『具』の文字がほとんど消えかかっている。中はもちろん覗くことは出来なかったけど、店の外に置いてある自動販売機の位置は昔と変わらない位置に置いてあったし、傷んだ瓦屋根だってそのままだ。ただ、店の裏口を取り囲んでいた垣根だけがなくなっていて、雨を降らす鉛色の空のようなコンクリートに変わっていた。
唐突に、ごほん、と乾いた咳が聞こえた。振り返ると、元間先生が大きなサーフボードを抱えたまま、どこか遠い星を見るかのように空を見上げていた。まだ少し潮の匂いがする風に揺れるカールのかかった茶色の髪は、僕が彼女を先生と呼び始めた十年前から、ほとんど変わっていなかった。懐かしそうに目を細めているけど、彼女も僕と同じようなことを思っているのだろうか。
僕はそっとシャッターに手を添え、目を閉じた。
「東雲くん」
声が聞こえる。僕の苗字を呼ぶ、少女の小さな小さな声だった。
「一希くん」
次に聞こえてきた声は、少しだけ大きくなっていた。それに、さっきよりもずっと快活で、エネルギッシュな声だった。元間先生の声とは違う、例えるなら陽だまりのような、誰もが笑顔になってしまいそうな明るい声が呼ぶ、その名前。
ああ、僕の名前だ。
もう一度聞きたくて、耳を澄ましてみる。けれどその声が再び聞こえることはなくて、代わりに風が電線を揺らす音だけが響いてきた。僕は息を潜めて、耳に残ったその声を何度も繰り返し再生した。
「一希くん」
こんな風に彼女が僕の名前を最後に呼んだのは、もう随分と前のことだ。だから僕もいつしか、彼女のことを名前で呼ばなくなってしまったんだ。
彼女の声を再生するたびに心臓の鼓動がどんどんと早まってきて、呼吸が苦しくなってきた。すぐにでも振り向いて元間先生に助けを求めたかったけど、まるで先生が「振り返るな」と言うかのように、目を開けることすら出来なかった。
「一希くん」
そのとき、晴れ渡った海の光景がまぶたの後ろに広がった。
「一希くん」
そのとき、一人の女の子のような少年が、僕の手を引いた。
「一希くん」
そのとき、少年の長い髪を揺らす潮風が、一輪の花のような香りを連れてきた。
「一希くん」
そのとき、少年がにこりと笑った。
「一希くん」
十六歳だった頃の僕は我慢できずに、その声に振り向いたのだ。一瞬だけ潮風が強く吹いて、僕の髪を思い切り乱したけど、そこには眩しいくらいの笑顔を浮かべる、一人の少女が僕を見ていた。
「……朝蘭」
当時の僕はこんな風に、自分の名前が呼ばれるたびに彼女の名前を呼び返していた。
けれど、二十五歳の僕は口を開かず、後ろを振り向くことさえしなかった。口をつぐみ、ただそこでじっと立ち止まっていた。少しだけ潮風が冷たかったけど動かなかったし、呼吸を荒くすることもなかった。
少女は僕の名前を呼んで、どんな表情をしているのだろう。振り向かない僕を見て、どんなことを思っているのだろう。自分の声に反応しない僕を見て、どんな気持ちを抱いているのだろう。リフレインされた想い出と疑問が、波を荒らすくらいに強い潮風に吹き飛ばされそうになっている。
そのうち、強い風は強大な波を作り出すだけではなく、僕たちの想い出や僕を包んでいた優しい花の香りをかき消して、僕までも吹き飛ばそうとしていた。飛ばされまいと耐えているうちに、やがてそれらは、少女の声までも妨げようとした。
「東雲、くん……?」
潮風は僕の耳元で大きな大きな笑い声をあげ、何度も何度も僕の頬をかすめた。そんな中で聞こえてきた声はとても曖昧で、それが僕を呼んでいるものなのかどうかもわからなかった。けれど風はそんなこともお構いなしに行き来を繰り返し、さらには大きすぎる波までも引き連れて、僕に襲いかかってきた。それはもうハリケーンのような大風と津波のような大波だった。僕はもう自力で立っていることさえ出来なくなって、息の仕方すら忘れてしまいそうだった。
彼女と出会った春、病室で見た白色、かけがえのない出逢い、胡蝶蘭の花言葉、様々な想い出が吹き飛ばされ、流され、目の前でどんどんと消えていった。精一杯それらを引っ張って取り戻そうとしたけど、抗うことなんてできなくて、魔法の薬である酔い止めを駆使したって、どうにもならなかった。
残酷な潮風は大津波と、僕の心に決して消えることのない呪いを連れてきて、容赦なく吹いて行く。僕は想い出を取り戻すどころか、倒れないように必死に何かにしがみつくことしか出来なかった。すぐにでもこの場から逃げ出したかったけれど、呪いに動くことを妨げられて、どうしようもない。
「一希」
また声が聞こえる。でもそれは、さっきの快活な少女の声とは違っていた。少しため息の混じったような声だけど、温もりで満ち溢れている声。僕に襲いかかってきた潮風をかわし、大波を乗りこなしてやってきたその声は、僕の背中を強く支えてくれて、やがてそれは僕をゆっくりと導いてくれた。
ああ、そうだ、この文房具屋だ。
僕がまだ高校生だった頃、彼女がちょうど僕との想い出を失ってしまった頃だ。店の前でたたずむたった一台の自動販売機の前に子どもたちが集まるような暑い日のことだ。時折吹く風に、エンジュの葉が嬉しそうに揺れて、彼らが作る影の下で、子どもたちが揃ってサイダーを飲んでいる。
僕はどうしても彼女との想い出を割り切ることが出来なくて、胡蝶蘭の絵を描こうとしている。彼女が大好きだった、胡蝶蘭の花の絵を。そのために色鉛筆を買い揃えようとここに来た時、誰かが僕の肩を叩いた。
振り返ってみると、そこにはサーフボードを抱えた女の人がいて、にこりと微笑んでいた。
「一希」
その人は僕に何かを訊ねたわけではない、ただ僕の名前を優しく呼んでくれただけだった。それなのになぜか、僕はその人に話してしまったんだ。どうしてこの歳になって、色鉛筆を求めてここまでやって来たのか。彼女が僕との想い出を忘れてしまったことが、どうしようもなく辛くて、悲しくて、割り切ることが出来ないということを。子どもたちが不思議そうにこっちを見ているのに、ありったけの涙を流しながら。
それでもその人は、僕の涙を拭うなんてことをしてくれたわけじゃない。ただ僕の頭をぐしゃぐしゃに撫でて、笑っていた。
「人間ってね、思い出せなくなることはあっても、忘れることは絶対に無いの」
世話焼きがいい、という柄じゃないけど、なぜかその人の言葉はとても温かくて、僕らを優しく包んでくれるようだった。
「本当に大事な想い出ならば、あんたが思い出させてやんなさい」
僕より五年しか長く生きていないのに、その人は僕よりずっと大きくて、広くて、遠い存在で、何より、優しかった。
「乙川朝蘭は、あんたとの想い出を忘れちゃいないから」
そう僕に伝えてくれたのは、紛れもなく、元間先生だった──。
* * *
僕はその日の夜、いつかの夢を見た。
朝蘭がその優しい声で、病室で僕に色々なことを話してくれたときの夢だ。
僕たちの出逢いがあまりに運命的であったこと、二人を繋ぐものが一つではないこと。あの日の彼女は眩しいくらいの笑顔付きで話してくれたんだ。
彼女の愛おしい笑顔、温かな声、仄かに甘い匂い。そして何より、僕たちが作り上げた想い出。そのすべてが、僕にとっては盛大な祝福のようだった。
きっとあの時の僕は、彼女との想い出のためなら、どんな痛みだって我慢した。心臓が止まろうと、呼吸が止まろうと、ただひたすらに手を伸ばしていただろう。
想い出って、そういうものだと思う。どこかの古臭い歌詞のように聞こえるかもしれないけど、それはどこまでも伸びる紐のようになって僕らの心を強く結びつけてくれる。例え僕らがそれを手放そうとも、どんなに遠く離れようとも、その紐が解けることはない。その紐をたどって、もう一度彼女と出逢う事が出来れば、僕は強い向かい風の中だろうと走っていくことができる。
例え彼女が、紐の先にあるのが何なのかを思い出せなくなったとしても、僕が歩いていけば、きっといつかあの日の彼女と出逢うことができる。
自分だけが歩く分、少々時間はかかるかもしれない。厳しい道のりも多いかもしれない。
それでもきっと一度出逢うことが出来れば、彼女は全て思い出してくれる。
だって僕らの人生は、いつだって層をなしていたから──。