4 繋ぎ人
まもなく日が暮れる。鳥たちの戯れる声が頻繁に聴こえる季節になってからずいぶん日が伸びた。けれど、それでも午後の六時くらいを回れば辺りに夕闇が迫り始めるし、太陽もその姿を隠し始める。
電車の車窓から見えた西の空は神秘的な色──綺麗な黄金色に染まっていて、今まで見たことがないくらい美しかった。見ているだけで、何か大きな期待を抱いてしまう。視力の悪い目を無理やり凝らせば、もしかしたら幻想的なその光の中に誰も知らないような未来が見える──そんなことを本気で思った。いや、半分くらいは願望だったのかもしれない。
乙川さんの家をあとにした僕が次に向かったのは御坊市という、和歌山県の中部に位置する紀伊水道に面した人口三万人弱の小さな市だ。僕の恩人たる人物の元間先生は、そこに住んでいる。
元間彩音先生は僕の遠い親戚であり、一人っ子である僕にとって姉のような存在であった。どうしてそんな人を先生と呼ぶようになったのかというと、その理由は高校受験のときにある。当時の元間先生はまだ大学二年生、家庭教師のアルバイトを始めたばかりで、何度も「先生って呼んで」とせがんできたのだ。最初は躊躇いがあったけど、何度か勉強を教わるうちに、自然と先生と呼ぶのが当たり前となっていた。今ではもう何かを指導してもらっているわけではないけれど、なんとなくしっくりきているので、そのままそう呼んでいる。
電車内は妙な冷たさでいっぱいだったけど、夕日のおかげでそんなに寒くなくて、電車も機嫌がよさそうに見えた。時々気まぐれに大きく揺れては、二、三度小刻みに揺れて、駅が見えてくると減速をする。たまにレールの継ぎ目を通過するガタンゴトンという音が大げさに響いたけど、あまり気にはならなかった。
昔こっちに住んでいた頃に乗った電車の感覚なんてもう覚えてはいないけど、今ですらこんなにも心地よいのだから、あの頃はもっと優しい感覚を味わっていたのかもしれない。
「次は、御坊、御坊です」
電車が徐々に減速していく。お決まりのような口調のアナウンスが、なんだかとても懐かしく感じた。確か「御坊」というアナウンスを最後に聞いたのは高校二年生のとき、僕がまだ華のセブンティーンだった頃だ。
「御坊、御坊です」
降車したと同時に早足で階段を上がっていく周りの人々に促されるかのように、僕の心臓は少しだけ鼓動を早めた。小さな頃から可愛がってもらっているとはいえ、しばらく会っていないとなると、やはり緊張はするものだ。僕はいつかの乙川さんがそうしたように大きく深呼吸をした後、定期券を取り出して改札を抜けた。
駅を出るとすぐに、正面に何台かのタクシーが止まっているのが見えて、その横には洒落たオブジェのような時計が立っている。御坊駅に初めて訪れたのは僕がまだ小さかった頃だが、母さんがそれについてのうんちくを話してくれたことを覚えている。
僕は最も駅寄りに停車していたタクシーへと向かい、静かに乗り込んだ。
「フカサーフィンポイントの近くまでお願いします」
* * *
目的の場所に着いたのは、午後も七時を回って空がずいぶん暗くなってきた頃だった。
人の姿すら見えない無人の浜辺を、僕は大きなキャリーバッグを牽きながらぼんやりと歩いていた。
ふと海の方に目を向けると、大きな波がいくつも立っていた。先ほどのタクシードライバーが、昨日雨が降ったので潮の流れが速いだろうと言っていたが、まさにその通りだ。波は岩場にぶつかっては戻り、またぶつかるという動きを繰り返していて、何ともない素朴な風景だったけど、僕にはなんだかひどく懐かしいもののように感じられた。
僕は一度キャリーバッグのタイヤに付いた砂を落とした。長い間使っていなかったせいか、少しでも砂が入ると動かなくなってしまう。ついでとして靴紐を結び直して、再び立ち上がったその時──。
前方に、海の方を見て座っている人を見つけた。暗くてよく見えなかったけど、何やらサーフボードのようなものが横に置いてある。
それを見た瞬間、乙川さんの時とは少し違う動悸がして、僕は思わず自分の左胸をぎゅっと抑えた。
ゆっくりと近づき、暗い影で覆われたその姿が女性のものであるとわかった途端、僕の足は歩くのをやめてしまった。
その女性は立ち尽くす僕に気づき、サーフボードに手を添えた。
「もうそろそろ波も見えなくなるから、サーフィンなら明日の方がいいですよ」
一度聞いただけでフランクな性格だというのがわかってしまうような、爽やかな声。少し投げやりのような口調なのに、どこか優しさを感じてしまう温かな声。
間違いなかった。
「先生……」
そう言った瞬間、道路を通った一台の車のライトが女性の顔を照らした。化粧っ気のない大人びた顔。驚いたかのように大きく目を見開いていたけど、それは僕が知っている元間先生の姿に、ぴたりと当てはまった。
「あなた……」
と女性が言った。
「はい」
僕はゆっくりとしゃがみ込みながら頷き、彼女と視線を合わせた。
「東雲です」
先生はしばらくの間、何かを考えるようにじっと僕の目を見つめた。やがて、先生は砂の混じった潮水の付いた目尻を拭い、ニヤリと笑ってみせた。
「……生意気坊やの東雲くん?」
はい、と僕は首を縦に振った。
「お久しぶりです、元間先生」