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胡蝶蘭を空へ  作者: 座敷 蕨
一章 忘れたくないもの
3/8

3 花言葉は……

 乙川おとかわさんの家を訪れたときはいつも、とても温かな、慈愛のようなものを感じる。それは初めて出会った頃から、二十五歳になった今も変わらず、僕の心臓もその温もりに、少し緊張を感じているみたいだ、いつもより鼓動が早い。


 それでも、思い切り背伸びをしたくなるような緊張感はとても気持ちのいいもので、なんだか優しい気持ちにもなった。一度深呼吸をした後、その家の中をぐるりと見回す。


 彼女の家は昔とそれほど大きな違いはなかったけど、心なしか少しだけやつれてしまったようにも見えた。それでも相変わらず、アンティークな家屋や庭は、そこにいるだけでゆったりとした時間の流れを感じさせてしまうほど、心地よい雰囲気を作り出している。「和」に重きを置いている、と称するのが相応しいこの家の造りは、僕も大好きだった。最近の家は、和室を洋室にリフォームする人が多いらしいけど、僕はその話を聞くたびに「何も敷かずに寝転がれる畳は良いのに」なんて主張をしたくなる。


「くつろいでて」


 乙川おとかわさんは円座卓と座布団を指差しながらそう言って、台所へと向かった。彼女は何かを言った後によく髪を耳にかける仕草をするけど、今日はそれが一段と美しく見えた。


「お茶とコーヒー、どっちがいい?」


 最近短くしたと言っていたけど、彼女の髪はまた随分綺麗になったみたいだ。首が細くて小顔な彼女は、すっきりとしたショートカットがよく似合う。それに、飾り気のない黒色の髪だから、彼女の爽やかさやボーイッシュな雰囲気がよく引き立てられている。


「お茶がいいかな」


 辺りを見回しながらなんとなくそう口にすると、乙川おとかわさんは小さく敬礼ポーズをした。その何気ない仕草一つ一つが僕には愛らしく感じられて、それがなんだかとても嬉しくて、懐かしくて、同時に淋しかった。


 唐突に訪れて人の顔をまじまじと見つめる僕を見て、可愛らしい湯呑みを二つ持ってきた乙川おとかわさんは、それを優しく座卓の上へと置き、


「どうかした?」


 と言った。


 彼女の持ってきたお茶はびっくりするくらい色が濃く、少しだけどお茶の葉まで浮いている。誰が見ても葉とお湯の割合を間違えたのだとわかるくらいだ。僕が初めてこの家を訪れたときも、彼女はコーヒーを入れる際に、ミルクと豆乳を取り違えたことがあった。どこかそそっかしい彼女に、僕は以前こう言ったことがある。


乙川おとかわさん、何かをする前に一度深呼吸をしてみたら?」


 そう言ってから、乙川おとかわさんのそそっかしい行動はだいぶ減った。もちろん全てが改善されたわけではなかったけど、深呼吸で心を落ち着かせることは随分効果があった。例えば、二人で出かけるときの家の戸締り。彼女は大概どこかの窓の鍵を閉め忘れる。だから玄関先で待っている僕が「深呼吸してみて」なんて言ってみると、彼女は小首を傾げて小さく深呼吸をする。するといつも、きちんと戸締りをしていなかった場所を思い出す。そそっかしい性格という根本的な問題は治っていないかもしれないけど、毎回こんな風にしているうちに、窓を全部閉めていない日の方が少なくなっていった。


 そんな彼女だけど、唯一花の世話だけは、誰よりも丁寧だった。


 乙川おとかわさんの家の花を初めて見たのは高校三年生のときだ。


 彼女の家の庭は当時も今も変わらず、様々な種類の花が咲いているにもかかわらず、どれ一つとして世話の手が抜かれているものはなかった。どの花をとっても、日差しが当たらなかったり、水が与えられていなかったりしていることなんて一度もなくて、特に胡蝶蘭の花は、僕が今まで見た花のどれよりも大きな感銘を受けたほどだった。


 僕はそのとき、中大輪系の大きくて白い、美しいという言葉がよく似合う胡蝶蘭を気に入ったのだけど、乙川おとかわさんは、ミディ系のピンク色の胡蝶蘭を好んでいた。その大きさゆえに、大輪系や中大輪系ほどの華やかさはないし、そよ風に吹かれても、頼りなくふわふわと左右に揺れてしまい、力強さも感じられない。僕が顔を近づけても、不安げに目を伏せてしまうみたいで、ああ、この子、すごく恥ずかしがり屋なんだ、そう思ったりするくらいだった。


 どうしても白色の大きな胡蝶蘭に目を移してしまう僕を見た乙川おとかわさんが、


「このピンクの子、すごく弱々しく見えちゃうかもしれないけど、本当はとっても強い子なんだよ。ここ数年、毎年花をつけてくれるの」


 そう言った。僕はその言葉に少し驚いて、再びピンク色の小さな胡蝶蘭に視線を移した。


 それでもやっぱり白色の方が迫力もあったし、花としての魅力を全て持ち合わせているように見えた。けれど、彼女の言葉を聞いてからは、ピンク色の胡蝶蘭から目が離せなくなっていた。何故かは分からないけど、目を離してはいけない。まるで何かがそう言っているかのようだった。


「……確かに、綺麗だね」


 乙川おとかわさんは僕のその言葉に、満足げな笑顔を浮かべた。そして同時に、小さくガッツポーズをした。これも、彼女の癖の一つだ。本人は意識していないだろうけど、抱いた感情がびっくりするくらい大げさに顔に出るのだ。いつもより安くノートが買えたときの嬉しそうな笑顔だったり、テストの点が思わしくなかったときの悔しそうなしかめ面だったり、どんなに小さなことだって、彼女は自分の感情を隠すことなく表情に出す。今、乙川おとかわさんが出したのは満足げな笑顔、すなわち、白い中大輪系の胡蝶蘭を好んでいた僕を、ピンク色のミディ系胡蝶蘭派閥にしてやった、という充足感を抱いたのだろう。


 こんな風に、彼女が感情豊かなのは今に始まったことではなかったけど、そのときは僕もからかってやろうという気持ちが湧いたので、


「でも、やっぱり僕はこっちが好きだけどね」


 そう言って、白い方を指差した。


 すると乙川おとかわさんはむっとしたような表情を浮かべ


「えー、この子強いのに」


 と言って、ピンク色の胡蝶蘭をつんつんとつついた。不意に触れられた胡蝶蘭が臆病そうにその身を揺らしたので、僕は訊ねてみた。


「どうしてそんなにその子が好きなの?」


 乙川おとかわさんはよくぞ訊いてくれた、と言わんばかりの笑顔を浮かべて、腰に手を当てながら立ち上がった。


「だってこの子、わたしに似てるじゃん」


 彼女がそう言った瞬間、少し強めの風が僕らを横切った。周りに咲いた花々たちも、その冷たさに震えるかのようにその身体を揺らした。でも、ふとピンク色の小さな胡蝶蘭を見ると、何故か、本当にわずかしか揺れていなかった。それはまるでそよ風にそっと撫でられているようだったので、僕は今、風が本当に吹いたのかということを疑ってしまったほどだった。


「たくましくて、初々しくて、おしとかやで、何よりすっごい綺麗!」


 彼女が得意げにピンク色の胡蝶蘭を指差したので、胡蝶蘭は照れ臭そうに葉を垂らして、そして小さな花びらを、さっきよりも少しだけ嬉しそうにふわふわと揺らした。


「……なるほどね」


「あっ、今絶対呆れたでしょ」


「ううん、確かに似てると思うよ」


 からかいの意味をこめてそう言ったのに、彼女は再び満足げな笑顔を見せた。そのときの僕は、乙川おとかわさんって意外と単純だな、なんて思ったけど、本当は彼女の笑顔の意味を理解できていなかったのだということを知るのは、もう少し先のことだった。


「ねえ」


 乙川おとかわさんは笑顔のまましゃがんで、他の花とは別の小さな植木鉢に植えられた花を持ち上げた。それは甘くて淡い、太陽の光を当てると透き通ってしまいそうなくらい薄い、白色にも見えるピンク色の胡蝶蘭だった。


「胡蝶蘭の花言葉、知ってる?」


 彼女は無邪気に微笑みながら、小さく首を傾げて訊ねてきた。答えられない僕をしばらく見ていたけど、やがて嬉しそうに口を開いた。


「幸福が飛んでくる、とか、純粋な愛、っていうの。でもこれはね、胡蝶蘭全般に言える花言葉。本当は色によっても花言葉が違うの」


 手に持った植木鉢を見つめて、乙川おとかわさんはとても眩しそうな顔をした。


「白の胡蝶蘭は清純、ピンクの胡蝶蘭はあなたを愛しています、っていう花言葉がついてるの」


 それを聞くと、蝶のように美しく華やかに咲く春の花にぴったりの花言葉のような気がして、思わずいいね、と言ってしまった。


「じゃあ、この胡蝶蘭の花言葉はなんでしょう?」


 乙川おとかわさんは、小さな植木鉢を大事そうに抱えながら訊ねてきて、彼女の胸元で咲く淡い胡蝶蘭は、まるで自らが光を発しているかのように輝いている。白色かピンク色かハッキリしないけど、それでも神秘的な淡い輝きに包まれたその花びらは、彼女の瞳とよく似ていた。


「さっきの二つと違うの?」


 と訊ねてみると、


「うん、特別な花言葉だからね。何だと思う?」


 と、逆に訊ねられてしまった。いたずらっぽい笑顔付きで。


 真面目に思考してみたものの、彼女の好きな花言葉になりそうな単語はいくつか浮かんだが、どれもこれもしっくりこなかった。ややあって、僕は白旗を上げて解答を求めた。


「わかんない。教えて」


 僕がそう言うと、彼女は舌先をちろりと覗かせて


「考えといて。いつかちゃんと答え合わせしてあげるから」


 と、ほんの少し目を細めて言った。


「なんだそれ……」


 感情を隠すのが下手なそそっかしい少女と、その背中を見つめる僕。僕ら二人を待っていてくれる頼もしい友もできて、お互いがお互いの不安を打ち消しあうことができる。淡い太陽の光は嬉しそうに頬を緩めながら春を教えてくれて、僕らの心を優しく包んでくれた。クリスマスイブに灯された暖炉のように、赤子を抱く母のように、僕らを温めて、そして見守ってくれた。


 あの頃の僕らの両手は空いていることなんてなくて、何かを求めて伸ばすこともないくらい満たされていた。


 でも乙川おとかわさんはもう、あの日の温もりを覚えてはいない。


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