2 ハナニラは揺れる。
彼女の家は天野の里という、和歌山県・伊都郡のかつらぎ町に位置する場所にある。大都会大阪の隣の県にあるとは言っても、見渡す限り緑色に覆われていて、なんとなく心が安らぐ、自然豊かな場所だ。僕の実家がある和歌山市と比べて、高速道路やビルなどが特別発達しているわけではないから、都会特有の喧騒や気だるさなんてものは無く、おまけに人口も少ないから、近所に住む人の顔はほとんど覚えてしまうだろうし、畑仕事をするおばあさんの孫が何人いるかなんてことも記憶できてしまう。
徐々に姿を現し始めた彼女の家は、昔見たときよりもずいぶん淋しげに見えた。
古民家と称するのがふさわしい木造の家で、扉のささくれや瓦の傷みが目立つ一方、驚くほど綺麗に手入れが施された芝や、飾られたたくさんの花々が妙に美しく色彩を発していて、何というか、少しアンバランスだ。けれど、家の縁側に差し込んだ光がぴかぴかと床に反射していて、それはそれで、周りの風景にしっかりと馴染んでいる。僕はあまり例えが得意ではないけど、あえて言うなら、合奏団の一人が間違えた音を立ててしまったのに、偶然それがぴたりとはまってしまった、そんな感じだ。
まだ少し寒そうにしている木々が作る影から抜けると、ようやく彼女の家は全貌を見せた。正面に立って再びその姿を見ると、変わってしまったとはいえ、やっぱり少し懐かしく感じた。そのまま玄関に行くのもなんとなく躊躇いがあったので、僕は庭に植えてある花一つ一つを見て回った。
久しぶりに訪れた二十五歳の僕に、美しく咲く花も、可愛らしく座る花も、不思議そうな目をして揺れている。
最後の一つであったピンク色のマツバギクを見終え、小さく「久しぶり」とつぶやいた後、僕は玄関の前に立った。ふと視線を下に降ろすと、僕の影が西日で細長く伸びている。何となくそれに触れると、自分の影が昔から全く変わっていないような気がして、少し不安になった。あの頃から何一つ成長していないんじゃないか、そんな言葉が何度も頭をよぎって、僕はその場で立ち尽くしていた。
結局そのまま何もせずに数分経って、黄金色の空を見て途方に暮れかけた時、ようやく玄関の先から声が聞こえた。ややあって、古い木製の扉がゆっくりと開いた。けれどそれは、ほんのちょっと隙間を覗かせたくらいで、開けたのが誰なのかも分からなかった。
「えっと……僕……」
それ以上の言葉が出てこなくて、僕は何となく黙ってしまった。ドアを開けた誰かは大きめの瞳を覗かせて、パチパチと何度も開いたり閉じたりしている。
「あの、ここ……乙川さんの……家ですよね……?」
「東雲くん!」
僕が思わず飛び上がってしまうほど大きな声だった。
「久しぶり!」
ドアを開けた誰かは少しほっとしたかのように、そのドアを勢いよく開けた。もしも尻尾が生えていたら、ちぎれんばかりにぶんぶんと振っている、そう思ってしまうほど眩しい笑顔は、間違いなく乙川さんのものだった。
「乙川さん……」
僕がそう呼ぶと、彼女はその短く切ったショートカットの髪をかきあげながら玄関の外へと出てきた。また、少し痩せただろうか。以前から細身ではあったが、前に会った時よりも何だか少し頼りなく見える。それでも、やっぱりとても綺麗な顔立ちをしていた。夕方の逆光を鮮やかに反射する瞳、すうっと通った高めの鼻、白百合のような首筋。どこをとっても魅力で溢れている、それは昔から変わっていなかった。
「元気だった?」
「うん、おかげさまでね」
訊ねてきた乙川さんに、僕は少し格好つけてみる。そんな僕を見た彼女は「似合わないよ」と言うかのように、クスリと笑ってみせた。その無邪気な笑顔があまりに昔と変わらなかったので僕もつられるように笑ってしまった。
「……変わらないね」
そんな僕の悲しい言葉にも、乙川さんは笑って応えた。大げさに体を動かすものだから、彼女の影が何度も僕の影と重なった。
「東雲くんこそ……」
彼女は時折、何度か目をこすったり、両手で顔を覆ったりしていた。気づくか気づかないかほどの小さなそよ風がほのかな自然の香りを連れてきて、何かを誇張するかのようにハナニラの花を揺らした。
「……体大丈夫なの?」
一度は躊躇ったけど、僕はどうしても訊かずにはいられなかった。もう病院にはいない、その言葉の意味を確かめておきたかったのだ。
彼女は驚いたかのように大きく目を開いた後、ひらりとその黒髪を翻して
「せっかくだし、上がって!」
と言った。
乙川さんの表情は見えなくて、その時も大げさな笑顔を浮かべていたのかどうかは分からなかった。