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胡蝶蘭を空へ  作者: 座敷 蕨
一章 忘れたくないもの
1/8

1 君の好きな花

 僕は咄嗟に顔を上げ、両手を伸ばした。


 中途半端に開けられた窓から時折、温もりのある春風が吹きこんできて、僕の髪をさらさらとなびかせる。その風とともに、花びらのようなものが舞いこんできたような気がしたのだ。


 三月。アパートから見える桜の木もようやく花を開かせた頃だ。昨年よりもずっと早く春の足音が聞こえたことや、今が出会いの季節であり別れの季節でもあるということを抜きにしても、花びらが散るにはまだ早すぎる時期のはずだ。


 だが再び窓の方に視線を移した瞬間、白い花びらが目の前をふわりと流れた。再び両手を差し出したけれど、それを拒否するかのように僕の頬をかすめ、風に乗って部屋の中を舞って行く。それはまるで、一緒にこの部屋にやってきたシジュウカラの穏やかな声と戯れているかのようだった。


 やがてそれは、枝に舞い降りる小鳥のごとく、テーブルに置かれた白いキャンバスの上に優しく落ちた。


 とても小さな白を、そっと手にとってみる。ほのかに淡いピンク色にも見えるけど、窓ガラスを通して注いでいる光を当てると、ほとんど白にしか見えない花びら。


 それは、ベランダの植木鉢に植えられた胡蝶蘭こちょうらんの花弁だった。


 胡蝶蘭と言うと、とても大きくて厚い花というイメージがあるかもしれないが、それはあくまで大輪系や中大輪系のことであり、僕の育てているミディ系と呼ばれる胡蝶蘭は花径四、五センチくらいの小ぶりの花をたくさんつける。


 この花は、形も品種によって様々で個性的なものもたくさんあるから、誕生日や母の日なんかに贈る花としては申し分ない。


 だが僕の部屋のベランダに置かれた胡蝶蘭には、何度も植え替えられた跡や剪定せんていされたような跡がいくつもあり、贈り物というには少々華やかさに欠ける。


 でもそれは、なんとか生き長らえているという感じなんて全くしなくて、まるで幹の太い大樹がどっしりと根を張っているかのように、これは少し大げさ、それでも力強く、宿った生命を精一杯見せつけているみたいで、ここ三年ずっと枯れずに毎年綺麗な花を咲かせてくれている。ちょっぴり高級だけど、たくましくて、誰もが魅了されてしまうくらい綺麗な、胡蝶蘭。


 出会った頃から、彼女が大好きな花だ。






 その日僕は久しぶりに彼女と話をした。


 ずっと前から描き続けていた絵(胡蝶蘭を題とした春の風景画)を完成させ、大きな充足感と達成感に浸りながら帰宅したとき、携帯電話に留守電が入っていたのだ。


 僕の携帯電話は緊急の時以外はほとんど使われずに、机の上に置きっぱなしになっている(そのためよく携帯電話の意味がないと言われる)。だから留守電があることを知って手に取ったときは何度かくしゃみをしてしまった。窓から差し込む光によって、小さな光の粒になってきらめくほこりのせいだった。


 それに、大抵僕宛の電話は職場の上司からスケジュールの確認、バイト先からのシフトに入るよう依頼(今ではもうバイトは辞めたけれど)、大学時代のサークル仲間から来る、飲みに行こうとかいう誘いの電話だ。


 だから、鼻を押さえたまま再生ボタンを押して


「わたしだよ、わたし。乙川おとかわだよ」


 優しくて、どこか温かみのある声が聞こえたときは、一度軽い動悸がした後、くしゃみがぴたりと止まった。僕のくしゃみは、驚きすぎると止まるのだ。


東雲しののめくん、元気?」


 その声は間違いなく彼女の声で、そのうえ僕の苗字をしっかりと呼んだ。もう思い切り息を吸い込んでも、くしゃみが出ることはなかった。


 僕はそのまま呆然と立ち尽くしながら、その声の続きを聞いた。伸ばし気味だった髪をまた短く切ったこと、寝違えて首が痛いこと、空を飛ぶ夢を見たこと。乙川おとかわさんは昔となんら変わらない、穏やかで少しお茶目な声で色々なことを話してくれた。


 黙って最後まで聞いていようとしたけれど、春の風景を背にした乙川おとかわさんの姿ばかりが浮かんで止まなかった。すっきりとしたショートカットに切り揃えられた艶のある黒髪。朧雲おぼろぐもから差す神秘的な春の日差しのように、淡い輝きに包まれた琥珀色の大きな瞳。長い睫毛(まつげ)、主張しすぎない程度に高い鼻筋、薄桃色の唇。そして、令嬢のように上品で、美しくて、どこか儚くて、それでいて無邪気で、幼児のようなあどけなさを感じさせる、その笑顔。


 一度彼女のことを思い出すと、居ても立っても居られなくなって、留守電のメッセージが終わる前に、表示された彼女の電話番号を打ち始めていた。そんな自分が何だか少し子どもっぽく感じられて、情けない気持ちになった。


「もしもし」


「もしもし」


「久しぶり、乙川おとかわさん……僕だよ」


東雲しののめくん?」


「そう」


「すごい! 久しぶりだね!」


「うん……」


 久しぶりに乙川おとかわさんと直接話をして、久しぶりだったのに、あまりにも他愛のない話ばかりだった。本当は、描き続けていた絵が完成したことや、副業だけれども絵を描くのを職に出来たこと、言いたいことがたくさんあった。弾んだ声で色々な話をして、彼女の笑い声も聞きたかった。


 けれど僕の口から出たのは、思春期の高校生が母親に迎えに来るよう電話をした時みたいに無愛想で、聞き取れるけどはっきりしない声。彼女が僕の話に笑ってくれたのかというと、もちろんそんなこともない。唯一昔のように躊躇いなく言えたことといえば、最後の「じゃあね」だけだった。


 でも、僕はわかっていた。


 僕がどうして、こんなにも無愛想な声しか出せなかったのか、その理由を。


 けれど、もうそんなことは関係ない。


 乙川おとかわさんに会いたい。


 それはもう願望を超えて、僕にとっての義務みたいになっていた。


 僕は机の上に置いてあったメモ帳を開き、予定を確認する。新体制となった会社での仕事の開始は二週間後。


 気づけば僕は、古びたキャリーバッグに一週間分の荷物を詰め込んでいた。


 ミディの胡蝶蘭も、スーパーの小さな袋に入れて──。




     * * *




東雲しののめ様、いつも本会社の携帯電話をご利用いただきまして、誠にありがとうございます!』


 新しい年度が始まろうという今日の新幹線は超満員だった。デッキに立っていても知らない人と肩が触れ合うほどで、横浜から和歌山(正確には新横浜から新大阪までが新幹線)までの約四時間半は、小さな頃から体の弱い僕にとって過酷だった。乗車後すぐに気分が悪くなり、何度もトイレに駆け込んでは酔い止めをいくつも飲んだ。


 四つ目の酔い止めを飲み込んだ後、久しぶりに持ち出した携帯の画面を開いてメールのアイコンを押すと、ずっと放置していたツケが回ってきたと言うべきだろうか、とんでもない量のメールが届いていた。


『暑い夏を乗り越える必須アイテム!』


『食欲の秋を感じさせるお惣菜、二割引』


『年末年始の感謝祭! お正月の準備はできましたか?』


 山のようなメールをうんざりしながらスクロールしていると、再び強烈な吐き気に襲われた。僕はすぐさま五つ目の酔い止めを取り出し、水無しで思い切り飲み込んだ。絶え間無い横揺れと羅列された小さな文字が、ますます僕のめまいを促進させてくるのだ。


 酔い止めは数多く飲んでも効果は上がらない。それでも僕は少しでも気持ち悪くなればすぐに酔い止めを取り出して飲むし、落ち込んだ気分になった時も飲む。友人は「飲みすぎじゃないの?」なんて心配するけど、何てことはない。酔い止めは僕にとって、魔法の薬みたいなものだ。自律神経の興奮を抑えるこれを飲むと、何か今まで抱えていた不安や恐怖も抑えられるような気がするのだ。出来ることならそいつらをこの手でとっ捕まえてやりたいけど、不可能だから酔い止めに頼る。以前に(そうは言ってもずっと前だけど)乙川おとかわさんが


「スポーツとかをやってみるといいんじゃない?」


 なんて言っていたけど、今の僕はどうしてもそんな気になれなかった。確かに、昔に比べて身体は鈍っているとは言え、運動をするというのは今の僕にとってもずいぶん効果的だろう。けれど、そんなことは問題では無い。僕にかかった呪いは、酔い止めですらどうにもできない精神的なものだったからだ。


『日給二万円の超お得バイト』


『今話題のニュースを何処よりも早く』


『本日の旬な情報はこちら!』


 再び携帯の画面に目を移しても、通知の量は変わっていなかった。その通知たちは、まるで目をキラキラ輝かせているかのように、僕の方をじっと見つめている。


 僕はため息という返事を返しながら、ぼんやりとスクロールを続けた。やがて、ようやくその大量の通知を読み終えた時、僕は一番上に表示された通知に目を奪われた。


『今はもう、病院にはいないからね』


 差出人『乙川おとかわ』と表示されたそのメールは僕の感情などお構いなしに、堂々と一番上に居座っていた。それは他のメールとは違っていて、舌先をちろりと覗かせながら意地悪な笑顔を浮かべていたような気がした。


 結局和歌山に着くまで、僕は八つあった酔い止めを全部飲んでしまった。

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