闇の中に射す光
文芸部部誌・題「自由題」より
何の力も持たずに、妖を祓う術者の久世一族の長子として生まれた僕。夏の終わりに生まれた僕に〈夏野〉と名付けた母は、その二年後に産んだ女の子にも術師の才能が無かった事から、一族の当主である祖母に追い出されてしまった。
僕が五歳になった頃、父が後妻に迎えた女が懐妊、術師の才を持った男の子が生まれた。かくして、一族における後継者問題は無事解決したのであった。
久世家の邸の、誰も近付かない離れ。
「夏野さま」
昼前に目を覚まし、起き上がらずに布団の中でぼんやりしていると侍女が声をかけてきた。
「入れ」
「失礼します」
部屋の中に入ってきたのは、僕の世話をしてくれる侍女。名は安那という。彼女は僕の実母である女の遠縁にあたる。
「昼食を持って参りました」
彼女の持ってきた盆の上には、魚肉が一切使われていない精進料理のような昼食と、薬。
「お薬は、食後すぐに飲まれるようにと、芳野さまが」
「そうか。解った」
頷くと、安那は盆を置いて部屋を辞した。僕は一度も彼女と目を合わさない。
僕が生まれて、十九年。この年月の間、僕がこの邸から外に出たのは片手で数えられるほどしかない。生まれ落ちた瞬間から、僕の身体は病魔に侵されていた。昔からこの一族には現れる。術師の一族としての繁栄の代償に、その仕事によって生じた妖の恨み辛みをその身に受ける者が。それが、僕だった。
『兄様』
瞼を閉じると思い浮かぶのは、僕を唯一慕ってくれていた優しい妹。
『綾野はどんな時でも兄様の事を想っています』
僕の手を握り、僕をまっすぐに見つめてそう言った妹は、十四で嫁いでいった。僕と同じく無力だった彼女は、家の道具として扱われたのだ。無力な僕には、どうすることもできなかった。
次に目が覚めた時には、辺りは既に暗くなっていた。もう夜だ。普段は閉めきっている障子が少し開いている。いつもだったら気にもしないけれど、何故か外が気になった。起き上がり、障子を少し開ける。と、陰鬱な部屋の中に満月の光が差し込んで、部屋を明るく照らした。それは太陽のような強いきらめきではなく、ぼんやりとした優しい明るさであったが、暗闇に慣れた僕にとっては強すぎて目が眩んでしまう。
「貴方は闇の世界でしか生きていけない人なのね」
僕の真っ暗闇な世界に一筋の光が入るような、そんな凜とした声が聞こえてきた。
「貴女は誰だ」
女の声だ。それだけ、解る。いや、それだけしか解らない。
「誰でしょう? 貴方の〈よく視える〉目で視てみたら良いじゃない。夏野」
徐々に明るさに慣れてきた僕は、障子の先にある外の世界に視線を遣る。中庭の、満月の映る池に人影が一つ。
「……妖か」
僕がそう呟くと、女は満足げな表情を浮かべて妖艶に微笑んだ。僕の名前を紡いだ時と同じ声で。
僕と彼女の出逢い。それは、夏の終わりの満月の夜。
「月夜姫」
慣れた気配がして、僕はその名を紡ぐ。
「そんな所で眠っていたら、また体調を崩すわよ」
珍しく怒った口調の彼女に、思わず嬉しくなって微笑んでしまう。そんな僕は自分で思っている以上に性格が捻くれているのかもしれない。
「別に構わないよ。君と一緒にいれるなら体調崩すくらい」
「悪趣味な冗談を言うな」
目を吊り上げて怒る彼女に、僕は苦笑を浮かべる。本心から言っているのだけれど、言い返しては彼女を余計に怒らせることになってしまうだろうと解るから。だけど、一言だけ。
「僕は嘘を吐かないよ」
正確には嘘を吐けない、というのが正しいのだけれど。
「顔色が悪い。早く部屋に帰れ」
彼女はそう言って肩をすくめた。僕はしょうがないな、と溜め息を吐いて立ち上がった。その時、声が震えていたことはきっと彼女に隠せていたはずだ。
自室に戻る頃には、全身が震えて悪寒が走った。酷い吐き気と眩暈に襲われる。倒れこむように布団に身体を沈める。枕元に置いている芳野の調合した丸薬を口に含む。これを飲めば少しは良くなるはずだ。飲み込んで、僕は強く目を瞑る。
「夏野さま」
と、廊下から聞こえた声にドキリとした。この声は安那だ。彼女が薬湯を持ってくる時間を失念していた。
「眠られているのですか?」
どうしようか。この体調の悪さを考えれば、薬湯を摂らないと危ないかもしれない。
「夏野さ」
「部屋の前に置いておいてくれ」
できるだけ平静を装った声で彼女の言葉を遮る。体調が悪いことを、彼女にだけは悟られたくない。
「はい、解りました」
彼女の返答に僕は胸をなでおろした。少し眠ろう。そうすれば、体調も落ち着くだろうから。
気が付けば、僕は闇の中にいた。
ああ、いつもの夢か。
物心ついた頃から、真っ暗闇の世界に一人きりでいる夢を見た。だからだろうか。幼い頃は眠る事が怖かった。けれど、今ではこの夢の世界にも慣れた。むしろ、心地よいとさえ感じる。その事が何を意味するのか、解ってはいる。受け止めなければならないのだと、覚悟は出来ている。
『夏野さま』
どこからか聞こえる僕の名前を呼ぶ声。それは、暗闇の中に一筋の光が射すようで、僕の脳裏に過るのは一人の少女の姿。彼女への想いを未だに諦められずにいる自分に呆れてしまう。
『ずっと、そばにいます』
少女は僕の手をとって微笑む。けれど、どうしてか影が射したように少女の顔がよく見えない。
『好きです』
その言葉が耳元で囁かれて、ぼんやりとしていた意識が冷や水を浴びたような衝撃で覚醒した。嘘だ。僕の想う少女はけしてこのような事を言うはずがない。僕は繋がれた手を振りほどき、少女を睨みつけた。けれど、どうしてだろう。表情が見えないはずなのに、少女が悲しいと思った。
目を開けると、そこは何の変哲もない自室の布団の中だった。
「やっと起きたのね」
するはずのない声がして、驚いて起き上がろうとすれば額の汗を手ぬぐいで拭われた。
「……月夜姫」
水色の地に小花を散らした柄の着物を着た姫がいた。彼女の腕は白くて華奢で、動作の一つ一つが洗練されていて美しい。まるで、どこかの貴族のお姫様みたいだ。そして、ふと考える。妖の世界にもお姫様がいるのだろうか、と。
「君は、綺麗だね」
「気持ちの籠っていない言葉は、世辞よりも厄介だ」
僕の言葉を真剣に嫌がる彼女の表情が好きだと思った。
「本当に思っている事だよ。それに、最初に言ったはず。僕は嘘を吐かない」
「吐かない、ではなくて、吐けない、だろう。お前の考えている事ぐらいお見通しだ」
ぬらりくらりと他人の言葉の揚げ足を取るのが術者の基本であるはずなのに、妖者に言い負けるとはやはり自分には才能がないのだろう。
「お前が、真実美しいと思える存在はこの世に一人しかいない」
彼女の言葉に、僕は何も言い返せない。
「けれど、お前は言わないつもりなのだろう」
「……つもり、じゃない。絶対に言わない」
頭に血がのぼる。これ以上何も話したくない。だから、僕は小さな子供のように不貞寝する。
「気分が悪い。一人になりたい」
心配してくれた彼女に八つ当たりするなんて最低な事だという自覚はある。けれど、駄目なのだ。彼女では。
「あまり気を張るな。お前の場合、時間はそうないのだろう」
「それくらい、解っている!」
どうしてか彼女の言葉に苛立った。気がふれたように癇癪を起こして、手近にあった丸薬やら湯呑やらを投げつける。けれど、それは彼女には当たる事無く通り過ぎて行く。はっと、自分のしてしまった事を自覚して身体が固まる。そんな僕を見て彼女は少し悲しげな微笑を浮かべる。
「残念だったな。私は、人ではないから」
一言、そう告げて彼女の姿はすーっと消えた。
〈お兄様へ――お久しぶりです。返信が遅くなってしまってごめんなさい。最近はとても暑くて、私も桜野もすっかり参りきっておりますが、お兄様はどうでしょうか?〉
暑い夏が一段落した頃だろうか。少し季節のずれた、ひと月ぶりに妹の綾野から届いた手紙に目を通す。綾野らしい丁寧な筆跡でその優しい文章に心が落ち着くような気がする。文面から彼女の幸福そうな様子がうかがえてほっとする。
〈――もうすぐお兄様のお誕生日ですね〉
その一文を見て何とも言えない気分になった。二十の誕生日まであと十日を切っていた。そして、それは僕の生の終わりの時も示している事を、僕は解っていた。
薄桃色の、兎の絵が描かれた表紙の冊子を見つけたのは僕が十三の誕生日を迎える少し前の事だった。その当時も僕は「籠の鳥」であったが、今よりはもう少し自由であった。妹と会う事や侍女を供にして本邸の書庫へ行く事も出来たし、一族を追われた実母とも年に一回逢う事を許されていた。
その件の冊子は僕が好んで読んでいた異国の物語集が並ぶ棚にひっそりと置いてあり、何故かこの冊子の存在は誰にも知られてはいけないと一瞬にして悟った。
〈――初めまして。おはよう。こんにちは。こんばんは。あなたが、何時、どこで読んでいるのか解らないので、全部書いてみました。私の名前は――です。あなたの名前は何ですか? よかったら教えて下さると嬉しいです。私にはこの物語集に出てくるような友と呼べる人がいないので。よかったら、私の友になって下さい〉
夜の自室で月明かりを頼りに僕は書庫で見つけた冊子を読み進める事にした。それは、手紙のような形態を取った日記だった。
〈――この間、久しぶりに叔父様とお会いしました。叔父様は色々な所へ行かれていて、何時も珍しいお話をして下さるので好きです。その時に、叔父様が文章を書いてみないかと勧めて下さいました。私は昔から物語を読むのが好きで今ではこの邸にある書庫で読んでいない物語は一つも無いほどです。それでつまらないと愚痴を言ってしまって。本当に自分が幼すぎて嫌になります。叔父様は笑って私の無礼な物言いを許してくれましたが、自己嫌悪の情ばかりが私を満たしているようで。私は自分が嫌いです〉
それに書いてあるのは取り留めのない日常。けれど、その節々にあるのは「厭う」感情だった。最初の頁を読んで、子どもの書き物かと思ったが、これを書いているのはある程度の年齢のいった少女だと思った。文章が子どもっぽく感じるがこれはわざとだ。その証拠と言えるかどうかは解らないが文字はとても美しく綺麗だった。
〈――私は幸せなお話が好きです。お姫様や王子様の出てくる異国の物語が特に大好きです〉
彼女は、僕と同じように異国の物語を好いていた。
〈――たぶん、私に残された時間は人よりも少ないのでしょう〉
最後の頁まで僅かとなった時に記してあったこの一文。どうしてなのか、今までこの日記を何かの物語のように客観的に見ていたはずであったのに。僕自身の誰にも触れられたくない心を抉られるような、そんな強い衝撃を感じた。彼女の独白は続く。けれど、その一々が僕を追い詰める。嫌ならば読まなければ良いのに、文字を追う目と頁を捲る指が止まらない。そして、最後の頁に辿り着いた。
〈――昨日の夜、不思議な人と出逢いました。黒髪の美しい男の人で、けれども人ではなくて。その方は夜風と名乗られました〉
*****
己が生を受けて二十年経った日、僕は寝込んでいた。ここ数年は常に体調が悪かったが、今回の酷さはそれまでの非ではなかった。
「芳野さまが調合された薬湯をお持ちしました」
侍女の安那が、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるが体調は悪くなる一方だった。医者も一度来たが、特に何の処置をするでもなく去っていった。当たり前だ。僕の病は妖の恨み辛みによって引き起こされた呪いのようなものなのだから。薬で和らげることができてもけして治る事は有り得ない。僕と同じような運命を負った幾人の先祖たちは例外もなく早死にしている。五十年前に現れた僕の同類も十七で死んだという。僕も、きっとそうなのだろう。
次に目覚めた時は夜だった。指に温かい感触を感じて少し動かしてみると、誰かが僕の手を握っている事が解った。重い瞼を開けてぼんやりする視界で探ると、すぐに解った。安那だった。彼女は僕の手を握ったまま眠っていた。
僕は彼女を起こさないように、身体を起こした。手は繋がれたまま。もう一方の手で彼女の黒髪を撫でた。ここまで近くで触れ合うのは久しかった。そっと頬に触れれば濡れていた。ああ、泣いたのか。たくさん、たくさん。昔からそうだ、彼女はいつも僕の傍に居てくれた。
「安那」
彼女の名を口にするのは何年振りだろうか。
僕は嘘を吐けない。だから、出来るだけ彼女を避けていたというのに。けれど、その努力は全て水の泡となってしまう。
「好きだ」
絶対に言うつもりのなかった一言。安那はすうすうと寝息を立てている。この想いを彼女に伝えるつもりはない。けれど、今だけ、この瞬間だけでいい。彼女への愛しさだけで身体中の全てを埋め尽くしたかった。
ふと気付けば、僕は闇の世界に一人ぼっちだった。
ああ、またいつもの夢か。
瞑っていた目を開ける。深い、深い闇。何も見えなくて、何も聞こえない。慣れ親しんだ闇の世界。僕は歩く。ただひたすら、歩き続ける。この世界では時間の感覚が狂う。歩いてきた時間が五分経ったのか三時間経ったのか。解らない。もう草臥れた。目を瞑る。と、身体が闇に融けていくような感覚がした。ああ、もう眠い。
消えたい。
暑い夏の昼下がり。辺りの蝉の音が五月蝿い。生まれた頃から何一つ変わったところのない邸の離れの前には、幼い僕と若い娘が佇んでいた。
『良い子でいるのよ。お父さまとおばあさまの言う事をちゃんと聞いてね』
頭を優しく撫でられる。僕は彼女の紡ぐ言葉の意味が解らなかった。
『……?』
僕は首を傾げる。彼女はいつも笑顔でいるのに今は悲しそうな顔をしている。そんな気がした。
『さよなら、夏野』
最後に彼女は微笑んだ。それは、とてもとても綺麗な表情で。彼女は僕から離れて歩き出す。
『まって、かあさま』
僕は、去っていく背に必死で呼びかけるけれど彼女は再び振り向く事は無かった。
場面が変わる。暑い夏の日から、穏やかな春の季節へ。
『なつのさま』
子ども特有の高い声が僕を呼ぶ。僕は中庭の木陰で書物を読んでいて。声のする方を振り返ると、桜色の着物を着た少女がぱたぱたと走ってきた。
『あんな』
僕が名前を呼ぶと彼女は嬉しそうに笑う。
『どうしたの?』
『嬉しくて』
そう言って、彼女は僕の手に触れた。とくん。心臓の音がする。この気持ちは何なのだろう。解らなかったけれど、彼女とずっと一緒にいたい、と。そうできれば幸せだという事は解った。
この想いが「何か」を自覚するまでに、それほど長い時間はかからなかった。
誰にでも思い出したくない過去は一つや二つある。
寒い冬の夜の事。普段は侍女と医者しか来ない離れに、珍しい人物が来た。
『また、食事を残したそうですね』
その人は、いつでも僕に冷たい眼差しを向ける。僕は彼女が苦手だった。
『……食欲がなかったので』
彼女の視線に耐えられず、俯いてぼそりと答える事で精一杯だ。
『飲みなさい』
彼女は僕の手のひらに小さな小袋を握らせた。僕は恐る恐るその小袋を開けてみる。そこには幾つかの丸薬が入っていた。
『芳野が貴方のために調合したものですよ』
芳野、という名前に心がざわつく。
『要りません』
小袋を彼女に押し付ける。
『あいつの調合したものなんて口にしたくない』
芳野。一度も会った事のない五歳下の異母弟。次期後継者として一族から期待を寄せられる有能な少年。それに比べれば、無能と蔑まれ何故か離れに閉じ込められた僕。正反対すぎる二人。
『貴方は本当に無能なのね』
嘲笑する、彼女。彼女の声が嫌いだ。
『死にたくなければ飲みなさい』
『え』
思わず顔をあげた。彼女は僕を見下すような冷たい目で僕を見ている。
『貴方に話す事があります』
暗転。目の前に広がる暗闇。脳裏に過る記憶の断片たち。その最後の欠片は。
『夏野さま』
太陽みたいな明るい笑顔で僕の元に来る少女。惹かれる。その声に。笑顔に。けれど、駄目だ。僕では、先の見えない僕では。僕は死ぬのだ。長く生きる事は出来ない。いつか、遠くない未来で僕は妖の恨み辛みに蝕まれて死ぬのだ。そういう定めなのだ。
『……去れ』
目を瞑る。今から言おうとしている事を想うと彼女を直接見る事が出来ない。強がりだ。解っている。誰よりも僕を想っていてくれた人を、僕は傷つけるのだ。強く息を吸って、ひと思いに言葉にした。生まれてから、きっと最初で最後の嘘。
『君が嫌いだ。二度と僕に話しかけるな』
夢を見る。物心ついた頃から、ずっと。ずっと。
「貴方は運命から逃れる事は出来ないわ」
聞きなじみのある声がして、浮遊していた僕の意識が覚醒した。目を開けると、そこに居たのはどことなく物悲しそうな表情をした姫だった。ふと見える天井にここが僕の部屋である事を察する。
「……月夜」
「ふふ。初めて私の名前を呼び捨てたわね」
彼女は僕の髪を梳かしながら撫でる。柔らかい感触が心地よい。目を瞑ってその感触を味わう。
「僕は、もう死ぬのかな」
呟く。心の中で自問自答することは多かったが、実際に声を出して言った事は初めてだった。
「ええ」
てっきり茶を濁すような事を言われるかと思っていたので断言されて驚いた。けれど、不思議と不快感は無かった。それどころか何とも言えない爽快感があった。
「最近、夢をよく見る。昔の記憶、あやふやだったり忘れていたような記憶を。まるで走馬灯のように」
重い瞼を開ける。そこには姫、それに花瓶に夏を彩ったような花たちが。きっと飾ってくれたのは。
「安那」
「お前の一番か」
姫の声に、前にも同じ事を聞かれた事を思い出す。あの時は八つ当たりして彼女に酷い事をしてしまった。けれど、今は彼女には本心を伝えても良いと思った。
「……僕が一番美しいと、愛しいと思う女だよ」
僕の言葉に姫は笑う。それは悲しげなものでも、嘲笑でもない。良かったね、と母親が子どもの頭を撫でるような、そんな親愛の情。暖かい。そう思って微睡んでいるとすっと頭の中に浮かぶ一つの疑問とその答え。
「月夜は僕と同じなのだろう」
過去の記憶の断片の一つ。昔、僕は書庫で古びた冊子を見つけて読み耽った。そこに記してあった持ち主の名前。
「月野。僕と友達になろう」
その名を告げた時、夜の闇に囚われていた部屋に幾千の光が射しこんだように、部屋が真昼のように明るくなった。姫、いや月野が安らかな顔をして微笑む。
「ありがとう。気付いてくれて」
彼女が僕の額に口付ける。柔らかな感触。彼女に触れたのは初めてだった。妖者の状態でいるはずなのに、彼女は暖かくて、触れたところから熱がすっと伝わってくる。
「私はお前と同じ、闇を背負う者。だけど、独りではない。私がいる、夜風がいる」
夜風、冊子の中にあった名前。きっとその人も、月野も僕と同じ存在だったのだろう。
「お前の願いを一つ叶えよう」
そう、耳元で囁いた月野に僕は心の中で答える。それを感じたのか月野は解ったと僕の額にそっと口付けて、消えた。
*****
雪の降る寒い日に。僕は自室の布団の中で微睡んでいた。すると、襖が開けられて入ってくる一人の娘。
「夏野さま」
「安那」
「昼食とお薬をお持ちしました」
僕の元に近づいて、そっと腰を下ろす。僕はゆっくりと座る体制になり、距離が近くなった彼女の頬を撫でる。柔らかくて、暖かい。
「寒い」
独り言のように呟くと、彼女が笑う。
「ええ。でも、もうすぐ雪解けです」
「ああ」
悲しげな表情を隠しきれずにいる彼女。僕が何も言わなくても無意識に悟っているのだと思う。僕が、この冬を越せない事に。春を迎えることが出来ない事に。
『お前の願いを一つ叶えよう』
時々思い出す、月夜姫の言葉。今では、あの時の事が本当に有った事なのか夢だったのか判断がつかない。姫が目の前に現れる事も無い。もしかしたら、全てが僕の朦朧とした頭が作り上げた虚構なのかもしれない。けれど。
〈私の名前は月野です〉
薄桃色の、兎の絵が描かれた表紙の冊子に書かれた文章。きっとこの月野という人物が月夜姫なのだ、と。そして、安那に頼んで調べてもらった一族の史書を読んで確信した。今から五十年前を生きた僕と同じ存在の、十七で死んだ月野という名の少女。
「夏野さま」
姫の事で散漫になっていた意識が安那の声で呼び戻される。
「ああ、悪い」
「いえ。あの、夏野さまに頼まれていた物を持ってきたのですが」
そう言って、彼女は若草色の冊子を僕に手渡す。
「ありがとう」
受け取って、机に置く。薄桃色の冊子の隣に。
「……安那に、もう一つ頼みがある」
「何でしょう?」
首を傾げる彼女。彼女の仕草の一つ一つが愛しくて堪らない。僕は彼女に恋をしている。ずっとずっと昔から。自分が死んだ時の事を思って彼女を突き放した事もある。でも、それはもうやめにした。
「僕が、……春が来たらそれを書庫に置いてくれないか」
僕が死んだら、と言おうとして言葉を変えた。けれど、聡い彼女は僕の言おうとしている事に気付いたらしい。とても傷付いた顔をしている。
「安那にしか頼めないんだ」
長い間、直視できなかった彼女の瞳をまっすぐに見据えて言葉を紡ぐ。
「…解りました」
泣きそうな顔をしている。可哀想だと思うけれど、でも、僕のために泣いているのだと思うと少し嬉しい。彼女の震える肩を抱きしめる。
「好きだ」
僕が告げると、彼女の身体が更に震える。
「…嘘」
「嘘じゃない」
ゆっくりと身体を離すと、瞳一杯に涙を溜めた彼女の顔が見えた。そっと頬に口付けて、涙を拭う。と、彼女の顔がみるみる赤らんでいく。
「な、夏野さま!」
幸せだな。ただ、それだけ。その感情だけが僕の身体を支配している。けして、妖の呪いだけに人生を捧げるつもりはない。
『お前の願いを一つ叶えよう』
月夜姫の真剣な声音へ、僕は答えた。
「ずっと、そばにいて」
そう言って、安那に寄り添う。最期まで。そう心の中で付け足して、彼女の額に口付けた。
今まで強がり安那を避ける事によって氷のように冷え固まっていた僕の心を溶かしたのは、月夜姫なのだろう。僕の願いを叶えるために。
最期の時、笑顔の彼女が見えた気がした。