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オトコトハ

作者: 四季マコト

 男とは一生涯、女のおっぱいから離れられない生き物である。


 唐突に、そんな格言を思いついた。

 だって、そうでしょう? 女のおっぱいを飲んで成長したと思ったら、今度は女のおっぱいにすがりつくようになるだけなんだから。

 披露宴で招待客の女の胸に目が行くなんて、その証拠としか思えない。

 本人としてはチラッと一瞬だけ盗み見たつもりなんだろうけど、しっかり私は気付いていたし、あんたの隣の可愛いお嫁さんも当然気付いている。今は周囲の手前、素知らぬフリして皆に愛想を振りまいているけど、今夜はそれはそれは楽しい初夜になるでしょうね? ご愁傷様。自業自得と諦めなさい。

 もっとも、自分のスタイルを自覚していて罠を張った私が言うセリフじゃないか。

 でも、これくらいの意地悪はしても許されると思うんだよね。

 一番の親友をオトコに奪われたんだし。

 幸せの絶頂といった様子の今の二人からは、一時期、破局寸前だったなんてまるで嘘のようだ。

 たった今も、向こうのテーブルでは彼氏のノロケ話で盛り上がっている。その通帳ネタ、何度目だ。披露宴の間だけで、既に六回は聞いた気がするぞ。

 そしてその度に、な~んか嫌な気分になる。

 胸の奥がモヤモヤとして、うっとおしいことこの上ない。

 とはいえ、私と彼女の間に特別な関係があったわけじゃない。あくまで同性の親友という枠組みの間柄だ。だから当然、そういう恋愛感情も抱いてはいない。

 ただ、なんてゆうかこう……寂しいんだ私は。独りで置いてけぼりにされたような、そんな寂寥感。置いていかないで、離れていかないで、そうすがりつきたくなる。

 もちろん、そんなのは私の身勝手な感傷だ。

 それは分かっている、分かっているんだ。

 分かってはいる、んだけどね……。

 溜め息を吐きながら、彼女がいる方向から視線を逸らす。見ているのが辛くなかったとかではなく、単に向こうの男共の視線がウザイからだ。

 そして今度は近くの連中の視線が突き刺さる、と。

 うちは男社会の会社なだけに、女性よりも男性の比率が極めて高い。必然、式に参加する人間も男性が多くなるので、彼らの視線に晒される機会も多くなる。

 ……まったく、もう。本当に、おっぱいが好きだねアンタらは。

 そりゃ確かに? 花嫁より目立たないように抑え目なのにはしていても、胸元開けて谷間強調したパーティー・ドレスを着ている私も悪いよ?

 でも、だからって話しかけてくるヤツ話しかけてくるヤツ、全員チラチラ盗み見るのはなんなの? 会話をしていても、常にそっちに意識奪われてるのが丸分かりで気分悪いったらありゃしない。

 自分は興味ありませんよーってツラしといて、これだから呆れてしまう。

 見たいなら見たいで堂々としてりゃいいのに。

 ……あー、やっぱり前言撤回。実際にそういう人間を一人知っているけど、あれはもう呆れるしかないわ。

 しっかし自分で仕掛けておいてなんだけど、本当、男って生き物に愛想が尽きてくる。

 そう。私は女が好きなのではなく、男が嫌いなのだ。

 そして何より私は、自分の遠慮を知らない胸が大嫌いだ。

 私の歴史は、常に胸と共にあった。

 小学の時に初めてブラをしていった時に男子から散々からかわれたのを切っ掛けに、中学では水泳の授業が男女合同だったためにすごいガン見されまくったし、高校の頃なんて更衣室で盗撮された写真が校内で密かに売られていたりもした(最後のは他の女生徒含め、さすがに許せなかったので、それなりに事件にもなった)。

 恋愛にしても、そうだ。常に胸が付きまとった。

 これでもね? 男に対して好きという感情を持ったことがないわけではない。

 いいなぁって思った相手がいなかったわけじゃない。

 でも、全員もれなく胸が目当てだっただけ。あたしという人間は、そのオマケだったのだ。

 中学の時――憧れの先輩に告白してOKされた直後に胸を揉まれた。当然、ぶん殴ってやった。

 高校の時――初めて彼の部屋に呼ばれた時、いきなり胸に挟んでとか要求された。当然、ひねってやった。

 大学の時――順調に付き合って数ヶ月後、彼の隠し持っていたAVが全部巨乳物だった。当然、ゴミの日に全て出してやった。

 そして今――就職した現在、悩んでいるのは上司のセクハラだ。直接的じゃない分、強気に訴えることも出来ない。それくらい笑って流せないと社会人としてやっていけないが、それでも蹴り飛ばしてやりたい程に悔しいのは変わらない。

 まだまだ、ある。何も苦労話は、異性関係だけに留まらない。

 例えば、胸のせいで自分に合う服や下着を探すのにすら苦労する。

 ワンピースは妊婦みたいになっちゃうし、胸にあわせて選べば今度は丈が足りなかったり、スーツを着てもビシッとしまらない。下着なんて、自分の趣味に合う物なんて滅多にない。それは需要の関係上、仕方ないことかもしれないけど。結局、衣服に関してはオーダーメイドでお願いするか、海外物を輸入、もしくは安い通販に頼ったりすることになる。

 例えば、胸のせいでいつも視線がうっとおしい。

 普通に歩いていても、すれ違い様に男達が見てくる。身長差のある相手とかだと、上から覗き込むようにして盗み見ていくのだ。これが、私の自意識過剰だというのなら大喜びだ。でも現実はそう甘くなく、今現在でさえ両腕でガードしているのに、未練がましい視線が幾つも突き刺さっている。これがまだしも独身ならともかく、相手が既婚者であった場合は、もれなく奥様方の睨み殺すような視線が飛んでくる始末。もしもし奥様、逆恨みでしょうそれは?

 例えば、胸のせいでバカっぽくみられる。

 すぐにヤらしてくれそうな女だ、なんて風に。実際、仕事の場でそういう下衆な台詞を言われたことが何度もあるし、酒の席では酔っ払ったフリをして胸を触ろうとしてくる男が出るのはいつものことだ。巷で噂の胸を小さくみせる下着も試してはみたけど、私くらいの大きさになってしまうと合わないらしい。

 エトセトラエトセトラ……例を挙げると、枚挙に暇がない。

 結局の所、私はこんなものが胸にぶら下がってるせいで、人生最悪ってコトだ。誰かにあげられるものなら、熨斗を付けてあげてしまいたい。そんな事を言っても、嫌味かと返されるだけなので、絶対にそんな台詞は口にしないけど。こんなものあっても、苦労ばかりで何の役にも立たないってのに。

 私はきっと一生、おっぱいしか評価されない。おっぱいの付属品なんだろう、私という人間は。

 付き合う相手は皆、大きな胸が大好きで堪らない人種。私のことをちゃんと見てくれる人なんて現れない。

 そういう意味では、エミが心底羨ましい。

 バカ男は本当にどうしようもないバカだけど、それでも一つだけ認めてやれることはある。

 それは――エミの全てを愛しているってこと。

 外見や内面、好きな部分も嫌いな部分も、全部含めてエミだから愛しているのだ。

 私には到底、叶えてもらえそうにない願いだ。

 ……あー、だめだ、だめだ! せっかくの親友の門出を祝う日なのに、こんな益体も無いことをぐじぐじ考えていて、どうするっていうの。

 気分を切り替えるついでに、化粧を直すことにしよう。もうすっかり日も暮れたし、今のメイクじゃ派手すぎて夜には合わないしね。

 まあ、顔を記憶してくれている男なんて、何人いるか知れないけどさ。

 隣で視線シャットアウトに協力してくれていたサキに小声で告げ、一緒に席を立つ。

 花で飾られた華やかな部屋を去り、簡素な廊下を通って化粧室のドアを開く。


「――ああもう本当ムカつく! なんなのアイツら! カナの胸ばーっか見て!」


 入るなり、私より先にサキがキレた。

 あーこらこら、壁を蹴るな壁を。タイトなの履いてるんだから、そんなことしてシワになっても知らないぞ。

 私は彼女の奇行を横目に呆れながら、ポシェットから化粧道具を取り出して洗面台に並べた。


「どうして見られている当の私じゃなくて、アンタがキレるのよ?」

「あたしの胸は、ぜんっぜん、これっぽっちも視線が止まらないのに!」

「嫉妬かよ」

「でも、課長はいつも見てくれるからイイ人だ」

「アンタの基準がたまに分からなくなる……」

「で、どうする? 羽織るもの、貸そうか?」

「あ、うん」


 コイツのこういうとこ、大好き。思っていることを隠しもしないし、その癖ちゃんと分かって気遣ってくれるし。陰湿に僻んで嫌がらせしてくる女性が多いので尚更だ。

 そりゃ男じゃなくて女に走りたくなるわ。あ、いやまだ走ってないけど。いやいや、まだも何も、走る予定は取り合えず現時点ではないけど。

 でもさー本当、このままではいつか遠くない未来、そうなりそうな自分がいて少し怖い。

 写真写りを考えたちょっとキツめのメイクから、夜用の大人しめのメイクに修正しながら、彼女が差し出した黒のショールを受け取る。


「ありがと」

「お礼はその胸の半分でもくれればいいよ」

「無理すぎる……」

「だよねー。それが出来れば苦労はない」

「お互いにね」

「カナじゃなかったら、隣になんて絶対いたくないね、あたしは!」

「? どうして?」

「比較されると、さらに小さく見えるから」

「でも、隣にいてくれるんでしょう?」

「カナだからね」

「ありがと」


 ほらね? 本当、ソッチに走っても許される気がしてくる。

 喋りながらもササッとメイクを整え、最後に口紅の馴染み具合をチェックする。

 どこも問題が無いかを二、三回確認した後、任務を終えた化粧道具をポシェットに仕舞う。


「よしっ、完成。じゃあ、戦場に戻ろっか」

「あ、先に戻ってて。もうちょい詰めてくから」

「なにを?」

「パット」

「…………」


 急に胸が大きくなったら怖くないか?


「分かった。健闘を祈っとく」

「おうよ」


 思っただけで、言わないでおいた。ささやかではあるけど、ショールのお礼ってことで。

 ショールを肩に掛け、さりげなく胸元を隠すようにして廊下に出る。これで少しは視線も和らげばいいんだろうけど……どうだろうなぁ?

 なーんて考え事をしながら歩いていたのが悪かったのか。

 気付いた時には、目の前に件のセクハラ上司こと課長の姿があった。慌てて足を止め、避けるために横へズレる。

 彼は三十代半ばの独身で、一応同僚の間でも射程圏内ではあるのだけど、その性癖のせいで女子からは露骨に嫌われている。

 無理もないことだ。公私問わず、いつも胸ばかり注視してくるのだから。チラチラ見るなよとは思うけど、だからってジーッと凝視するのもどうなの。

 けれど不思議なことに、男子からはそれなりに人気があるようだ。公私共に部下から慕われる上司っていうのは、私の会社でもそういない。

 今回の披露宴に彼が招待されたのも、新郎と頻繁に飲みに行くような親しい間柄だかららしい。しかも、エミの通う料理教室の先生は課長の妹さんで、今回は彼女も出席しているとか何とか。本当、世の中おかしな繋がりがあるものだ。

 課長は浮いた噂一つ立たないので、男色家なのではと一部の女子連中からは実しやかに囁かれつつも、じゃあどうして胸を見るんだと反論を受け、ある意味、我が社の七不思議のようなものになっている。


「体当たりをしてくるのかと、心臓が止まりそうだった」


 うっわ! 開口一番、ムカつくっっ!!

 気付いていたのなら声を掛けるなり、避けるなりしてくれればいいでしょ?


「すみません」


 とはいえ上司なので殊勝に謝罪。言い訳せずに、頭を下げておく。

 酒の席は無礼講とか関係無し。真に受けたら痛い目を見るのはあたしの方だ。

 ぶっちゃけた話、そんなのは男が女にセクハラするための方便なんじゃないの?

 ここで噛み付いたら仕事に差し支えが出るし、さっさと済ませて部屋に戻ろう。


「あの……、何か?」


 顔を上げると、珍しく課長が私の顔を見ていた。

 けど、私が問うとすぐに視線を胸に戻した。

 いや戻すなよ変態め。そんなに胸が好きか。


「……化粧を変えたのか。その方が似合っている、さっきまでのは少し派手過ぎだ」

「ひゃい!?」


 変な声が出た!

 出ちゃいましたとも!

 いやだって、仕方ないでしょう!? 予想外な相手から予想外な言葉が出たんだから!

 ……はあ? えっと、なにそれ、どういうこと?


「よ、よく私の化粧なんて分かりましたね。いつも胸ばかり見ているくせに」


 あ、しまった。動揺のあまり、ついポロッととんでもない本音が出てしまった。

 案の定、上司はすごく不機嫌そうな顔を……


「ち、違う! 胸なんか見ていない!」


 していなかった。羞恥にか、顔を赤らめて俯いている。

 私の顔から逸らされた視線は、胸を通り過ぎて最早、足元に落ちている。

 その彼の顔が歪み、何かを堪えるかのように声が絞り出される。


「くっ……! その、だな」

「はい?」

「私は……その、ダメなんだ」

「ダメ? 何がです?」

「……女性がだ」

「は?」


 ぽかーんと口が開いてしまった。


「怖……苦手なんだ。目を見て話をするなんて到底出来ない。だからつい、目を見ないようにしてしまうだけで、そこに他意はないんだ。本当だ。信じてくれ」


 またまたそんな冗談ばっか。セクハラを指摘されたからって、その言い訳はないでしょ?

 良い年した大人の男性が、女性が苦手とか笑えない。社会人がそれは、いくらなんでもないでしょ。そんなので、どうやって仕事をするっていうのよ。

 実際に、私とだって目を見て話す機会なんて今までに何度か……


「んん?」


 何度か……ない?

 そういえば、課長はいつも私の胸ばっか見てて。

 で、そんな態度にムカついてる私は当然相手の顔なんてバカらしくて見ようともせず。

 面と向かって話しはしていても、いつも視線はすれ違っていたような?

 それに、サキだって言っていた。課長は、いつも胸を見るって。

 こう言っては何だけど、サキの謙虚なお胸に興味を持つような相手が、それとは正反対な私を見るだろうか?

 それについ今しがた、課長は何て言った?


『体当たりをしてくるのかと、心臓が止まりそうだった』


 あれはもしかして、嫌味でもなんでもなく、彼の正直な感想だったのでは?


「……なるほど」


 そう言われてみると、いくつか納得できる節がなくもない。

 よし。ここは一つ、確証を得るために、ちょっとした実験を試みよう。

 大丈夫大丈夫。さっきの発言をきちんと受け止めてくれたのなら、このくらいの無礼は許してくれるだろう。

 というわけで、私は思いついたことを即座に試してみた。

 課長と視線を合わせてみることにする。

 具体的には、課長の顔を両手で挟んでガッチリ固定し、無理やり私の正面を向かせた。


「こうするのが怖」

「うあぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああっ!!」

「――ッ!?」


 台詞を全部言い終わる間もなく、物凄い勢いで手を振り払われた。のみならず、壁際まで後退してしゃがみ込まれた。

 ……ここまであからさまな反応を見せられると、さすがに信じざるを得ない。

 だってほら、肩とか本気でブルブル震えているし。顔色だって、ものすっごい青褪めているし。余程、怖い目に遭ったと見える。

 可哀想に。酷いことをする人間がいたものだ。

 実験の結果、分かったことが二つある。


「ごめんなさい。課長のこと、今まで誤解していました」


 一つは、信じ難いことだけど、課長は本当に女性恐怖症らしいということ。

 私は自らの非を認め、ぺこりと頭を下げた。


「そ、そうか。分かってくれたか。なら、良かった。……いや、しかしだ! もう少し、考えてから行動しろっ!!」


 叱責するその声でさえ、上ずっていて動揺から立ち直れていない。

 年上の男が、それも上司が、私みたいな小娘相手に怯えて本気で泣きそうになっている。

 …………。


「くふっ」


 おっと……やっばい、なんか今変なスイッチ入りそうになった。

 口元が勝手に笑みを浮かべそうになったので、右手を当てて隠す。


「……はぁ。今後は、他の女性にも勘違いされないよう気を付けるとしよう」


 いやー、それはもうかなり重度に手遅れじゃない? うちらの間だと、既にセクハラ上司で定着しているし。

 なんとか持ち直したのか、両足に手を付きながら立ち上がる課長。

 相変わらずこっちの顔は見ないけど、視線は私の胸ではなく足元に向いている。


「……んー」


 ちょっと、それが、惜しいなって、思ってしまった。

 式場に戻ろうとする課長の後を追い掛け、隣に並ぶ。

 途端に、ビクッとその肩が揺れた。

 そこまで露骨に警戒しないでもいいのに。もう無理矢理に近づいたりはしないってば……たぶん。


「理由、聞いてもいいですか?」

「な、何のだ?」

「女性恐怖症になった理由です」

「そんな大げさな病気には、なっていない」

「…………」


 失礼なことを言うな、とばかりに私を睨みつけ――そうになって慌ててそっぽを向く課長。

 いやいやいやいや! どうみても、なってるでしょ!


「目を見たり、触れるのがダメなだけだ。話をすることなら出来る。だから、私は普通だ」

「いや……まぁ、本人がそれで納得出来るんならいいですけど」


 不承不承ながら頷き、課長の横顔をちらと盗み見る。

 ……ああ、やっぱりそうだ。と、私はもう一つ知った事実を確信した。


「私は五人姉弟なんだ」

「え?」

「理由だ」


 あ、話してくれるんだ。

 ダメ元で聞いただけに意外だ。

 なんか今日は驚かされてばかりな気がする。

 それも、これまで事務的な会話しかなかった課長とだ。


「男は私一人で、残りは姉が三人に妹が一人だ」

「お姉さんが多いというのは分かりましたけど、それで?」


 問い掛けると、課長の顔から生気が消えた。それこそ、死んだマグロの目みたいに。

 はははと自嘲するかのような笑いが、その震える唇からこぼれだす。


「……毎日、命令を繰り返される日々だった。いいか、現代にも奴隷は実在するんだ。その存在を知られていないだけでな」

「い、いやさすがにそれは。ほら、ええと、ちょっと大げさなだけとか?」

「深夜二時過ぎに駅前まで向かえに来い、とか。忘れ物をしたから家に戻って取って来い、とか。彼氏のお弁当を作りたいからお前が作っておけ、とか。これがちょっと大げ


さなだけか!? 当時、俺は中学生だぞ! しかも、これが物心付く頃から就職して家を出るまで、ずっと続いたんだ! ずっとだ! ずっとだぞ!?」

「…………」

「そして今でも、時々理不尽な命令が下されることもあるんだ……」


 それはえーと……うん、絶対命令ですねハイ。

 課長って、感情が昂ぶると一人称が俺になるみたい? そっちが素なのかな。いつも私なんて畏まったのしか聞いていないからか、殊更に新鮮な気がする。

 それにしても、今の話を聞いた限りでは、相当に辛い学生時代を送ったようだ。そりゃ、女に対して苦手意識を持つのも仕方がないかもしれない。

 でもさ、いくらなんでも女性恐怖症にまでなる?


「それが全部事実だったとして、せいぜい嫌いって所で止まると思うんですけど」


 言うと、課長の足がピタリと止まった。

 悟りを開いた僧侶のように静かな面持ちで、天井を見上げる。

 その視線は、まるで遠い彼方を見つめていかのように穏やかだ。


「……ヤツらは、家にいる時と外にいる時で全くの別人なんだ。あれが同じ人間だとは、到底思えない。最初に見た時は、なんてタチの悪い悪夢を見ているのかとさえ思った


ものだ」


 なるほど、と思わず頷いてしまった。

 お姉さん達を見たことなんてないけど、その光景が容易に目に浮かんでしまった。

 誰だって、中と外とで自分を使い分けている。これは男も女も同じだろう。

 女の場合は、ちょっとその差が男よりも大きかったりするだけ。

 外見は目に見えるだけマシな部類。服装や化粧で女が別人になるなんて、それこそちょっと年を経れば誰にでも分かることだし。

 問題なのは、目に見えない部分にこそある。

 軋轢を避けて物事を円滑に進めるために、裏と表、本音と建前を巧みに使いわける様は、そりゃ本性を知る人物からすれば、なんの悪夢だと慄くほどかもしれない。

 課長の場合、その落差っていうのが人格形成に害を及ぼすほど甚大なものだったのだ。


「女は怖い生き物だ。可能なら関わりたくない」


 あ。今、自分が怖いって白状した。


「世界の半分は女性ですから、それは無理でしょう」

「そんなことは分かっている。だから、可能ならと言った」

「よくそれで出世が出来ましたね?」

「仕事だけでなく、色々と努力したからな。……眉間を見るようにして誤魔化したり、間に部下に立ってもらったりな」

「あれ? 男連中は知ってるんですか?」

「いや、昔からの同期しか知らない。イイ年した大人の男が、女が苦手なんて情けなくて伝えられるわけがない」

「不憫な……。あ、そうだ。もう一つだけ確認しても良いですか?」

「……これで最後だぞ。実は、こうやって会話してるだけでも結構疲れるんだ」


 失礼な。

 仮にも、男性社員から(身体の一部が)人気のある私と話をしているのだから、狂喜乱舞とまではいかずとも、少しは喜んでくれてもいいだろうに。

 内心憤慨しつつも、私は最後の確認をすることにした。

 事と次第によっては、私の今後を左右しかねない質問を。


「課長って、男の人が好きだったりします? もちろん、ラブ的な意味で」

「はあ!? そんなわけがないだろう! バカか、君は!?」


 返答は力強く、どうしてそんな質問が出てくるんだといわんばかりの表情だった。


「どうして、そんな質問が出てくるんだ!」


 というか、そのままズバリと言われてしまった。

 質問の内容が想定外過ぎたのか、苦手なはずの私の顔をまともに見ているし。


「いえ、別に。違うのなら、良いんです」


 なら、安心だ。

 これで男しか愛せないなんて言われたら、どうしようかとちょっと真剣に考えていたから。

 唖然としたままの、課長の胸元にさり気なく手を寄せる。意識させると、また避けられるだろうから自然にそっと。

 騒いだせいで緩んだ彼のネクタイを直しながら、提案する。


「向こうに戻ったら、少しの間で良いので一緒にいてもらえませんか?」

「は? なんで俺が……私が、そんなことを」


 なんでと来たよ、この男。

 女性に対して怯えるあまり、そういう駆け引きすら忘れてしまっているんじゃないの? 減点一だ。


「ええと……、非常に言い辛いことなんですが、周囲の視線が気になるので」

「視線? ……ああ、そういうことか」


 ショールに目を遣り、得心いったように頷く。

 ふむ、こういう部分の察しは良いのか。さっきのと相殺して帳消しね。


「上司である私を壁代わりにしよう、と?」

「……やっぱり不躾でしたよね、すみません」


 ネクタイを締め終わった手を戻し、しおらしくうなだれる。

 もちろん、演技。ここからの話の持っていきよう如何に、全てが掛かっているのだ。


「分かった。良いだろう」

「へっ?」


 間の抜けた声が聞こえた。

 誰だよこの成人女性にあるまじき声、と思ったら私の声だった。

 いやだって、こうもあっさり頷いてくれるとは思わなかったし。あと何手か必要かと思っていたのに。


「その代わりにだ。せ……セクハラなどと勘違いさせた行為については水に流せ」


 ……なーんだ。そういうことね。

 なんか話がうますぎるなーとは思ったけどさ。

 やや残念に思いつつも、交渉成立の意を伝える。


「分かりました、それで手を打ちましょう。でも……」

「でも? でも、何だ?」

「でも、もう既に女子達の間では公然の事実と化してますよ? たぶん男子達の間でも」

「馬鹿なッ!?」


 馬鹿なのは、この場合むしろ貴方の方ですってば。

 いや、そりゃそうでしょうよ普通に考えて。意外でもなんでもないってば。噂になっていると考えなかったことの方が不思議だ。

 しっかりしているようでいて、意外と抜けている部分もあるのかもしれない。


「そうか……道理で部下から『欲望に忠実ってオレ、嫌いじゃないですよ。むしろ同士です!』とか意味不明な賛同を得ていたわけだ。あれは、そういう理由か」


 ……ん。なんかそのおバカな発言にはどことなくデジャヴュを感じるな。具体的には、新郎のバカ男とか、人の親友奪ったアホ男とか、人の胸ガン見してたマヌケな男とか。全部、同一人物だけど。


「出来れば、その噂もなんとかならないか?」

「良いですけど……、噂を消すには真実をバラすことになりますよ?」

「ぐっ……! そ、それは……せめて、目を見て話すのが苦手とかでなんとかならないか?」

「それでも、十分威厳はなくなるでしょうけど……。ま、変態よりはマシですか。適当に上手く誤魔化しときますよ」

「助かる」


 これで話は済んだとばかりに、さっさと歩き出す課長。

 うん、今は素っ気無くても良い。私のことを怖がっていても良い。

 でも――これから先は、容赦しない。

 だって、初めて私のことをきちんと見てくれた人なんだから。

 そんな男、そうそう簡単に逃がすわけにはいかないでしょう?

 課長の大きな背中を小走りで追い、その勢いのまま、彼の左腕にひょいっと右腕を絡める。


「な――ッ!?」


 ギョッとした表情で振り向く課長。

 その顔を正面から見て、言う。



「課長って、結構可愛い顔をしていたんですね」

いったい何度この作品内でおっぱいと書いたことやら。念のためR-15にしておきました。

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