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大礼国物語

【外伝:十】最哀

作者: 冬生 恵
掲載日:2026/07/06

「……()皇后。皇帝陛下が今宵、お越しになります」


 敬事署(けいじしょ)の宦官が低頭し(うやうや)しく告げた言葉に、周囲の侍女たちが(にわか)に沸き立つ。だが、当の本人──皇后たる魯 愛凌(あいりょう)には、その言葉はまるで、処刑台に罪人を引っ立てる刑吏(けいり)の宣告のように聞こえた。

 胸に渦巻く重苦しい感情を隠し、彼女は無言で(うなず)いた。













 愛凌が() 直謙(ちょくけん)に嫁いだのは、もう十一年も前になる。

 あの頃の愛凌は人並みに夫婦というものに憧れていたし、壮健な美男である皇太子の一挙手一投足に、密かにときめきを覚えたものだ。


 正妃である彼女は、入宮直後から夫を(ねや)に迎えることを許されていた。一方で、同時期に側妃となった(はん) 佳夕(かゆう)は、一月の間、夜伽部屋に出向かねばならなかった。これは皇太子側妃は妾に過ぎず、正妻と同様に振る舞うことは許されないという、長年の慣習によるものだ。それでも直謙の代からは、合理性を重視する現帝の命により、最初の一ヶ月間という区切りが設けられた。完全に撤廃されなかったのは、何事も変化を嫌う一定層への配慮だろう。

 夫の直謙は、愛凌を正妃として敬ってくれた。すぐに男児を産んだ佳夕も、あくまでも寵妃という「役割」から逸脱することなく、愛凌を立ててくれた。

 自分でも意地が悪いと分かっている。それでもそんな二人の態度に、愛凌はかすかな優越感を抱くことを止められなかった。そしてそれ故に、彼女は「理想的な皇太子正妃」であり続けられたのだ。待望の子宝にも恵まれ、愛凌は幸福の絶頂に()った。






 長らく二人きりであった皇太子妃宮に側妃が増えたあとも、それは変わらなかった。(こう) 明珠(めいじゅ)、そして(しゅ) 玲穎(れいえい)。明珠は五年前、玲穎は三年前にそれぞれ、後宮の門をくぐった。

 ()家と同門の姫君である明珠は夫の覚えもめでたく、やがて双子の女児を産んだ。

 一方の玲穎は朝堂(ちょうどう)の第三派閥の家の出で、夫が彼女を持て余していることはすぐに分かった。直謙は季節に一度玲穎を召したが、それは義務感によるものだ。礼国の伝統的な女性らしさを満たさない玲穎は、直謙の好みからは外れている。


 夫に冷遇される玲穎(れいえい)を、愛凌(あいりょう)は哀れんだ。直謙(ちょくけん)が正妃の宮を訪れる際、彼女は「もっと(しゅ)妃の宮へもお渡りなさいませ」と忠告さえしていたのだ。


 だから近頃、夫が玲穎の殿舎に頻繁に足を運んでいると聞いた時、愛凌は素直に喜んだ。毒に倒れた明珠(めいじゅ)は気掛かりだが、その事件を契機に、直謙はかつてないほど妻たちを気遣ってくれている。玲穎もまた、今までの冷遇が嘘のように、夫の(おとな)いを受けるようになったのだ。


 けれども、そうした変化に、皇太子妃宮の一角には落ち着かない空気が漂っていた。






「──最近、殿下はずいぶんと、朱妃(あのこ)にご執心みたいね。愛凌はそれで良いの?」


 翌春の夫の即位に向け、自身も立后(りっこう)の準備を進めている愛凌を訪ねてきた(はん)妃は、どこか面白くなさそうにそう呟いた。愛凌は大量の書類に目を通しつつ、(たしな)めるように言葉を返す。


「もちろん。夫に尽くすことこそ、女の喜びじゃない。……大丈夫よ。佳夕(かゆう)の寵妃の座は、何があっても揺らがないわ。同じ夫に仕える者同士、これからも高め合いましょう」


 それは、紛れもない本心だった。──そのはずだった。




(それなのに、どうして……)




 愛凌は自分の犯した罪の重さに、恐れ(おのの)いていた。











 毒を盛られて生死の境を彷徨(さまよ)った(はん) 佳夕(かゆう)に続き、自身の子どもたちにまで悪意の手が伸ばされた結果、愛凌(あいりょう)は自殿に閉じ(こも)ることを決めた。

 漆でかぶれた両手に泣きわめく幼い娘の姿が、脳裏にこびり付いて離れない。聞けば佳夕の上の息子も、明珠(めいじゅ)の双子のうちの片割れも、危険な目に遭ったのだという。子の居ない玲穎(れいえい)だけは蚊帳(かや)の外だが、それだけに、愛凌は疑いを抱かざるを得なかった。



(まさか彼女が、直謙(ちょくけん)様の寵を独り占めするために──)



 有り得ない、と思う。夫は思慮深く、優れた皇太子だ。そんな短慮など、すぐに見抜いてしまうだろう。

 でも、現に彼は、あれほど距離を置いていた側妃の元に足繁く通うようになった。彼は愛凌たちを訪ねる際にはいつも徒歩(かち)であるのに、玲穎に会う時だけは輿(こし)を急がせる。彼女に少しでも早く会いたい、彼女と少しでも長く共に居たいと言わんばかりのその行動に、愛凌の心は確かにざわめいていた。



 そんな愛凌の心に居座る疑心暗鬼はある日、朱妃の宮の前で夫の姿を見てしまった瞬間に、呆気なく決壊した。



 その日も直謙は、公務の合間を縫って、玲穎の住まう蒼花殿(そうかでん)を訪れていた。夕陽の差し込む庭先まで迎えに出向いた彼女を、輿(こし)から降りた夫は愛おしげに見つめた。

 下卑(げび)た噂──「殿下は側妃の若さに夢中なだけだ」──など的外れだと言わんばかりの、唯一無二の宝物を(いつく)しむような眼差し。夫の視線を戸惑いながらも受け止める、玲穎(めかけ)のはにかんだ笑顔。



(殿下は……)



 自分は一度も、夫にそんな目を向けられたことがない。それなのに、「女」として下に見ていた側妻が、その眼差しを独占している。

 愛凌の胸は引き絞られるように痛んだ。



(もし彼女が、子を身篭ったら……)



 これまでは、「有り得ない」と心のどこかで否定していたその想像が、急に現実味を帯びる。



 現状、朝堂(ちょうどう)の均衡を考えれば、愛凌が皇后になることは間違いないと断言しても良い。そして彼女の息子はやがて皇太子となり、帝位を継ぐ。

 けれども。


(もし彼女が今後、男児を産んだとしたら……?)


 (しゅ) 玲穎は聡明な女性だ。その子どももきっと、彼女の素質を受け継ぐだろう。朱家は権力から遠ざかって久しいとはいえ、名の知れた旧家だ。

 元々、二代続けて(ちょう)家の派閥から皇后を出すことに、否定的な意見もある。情勢が変われば、愛凌ではなく玲穎の子を後継に推す声も上がるだろう。何より、直謙自身がそれを望んだとしたら。


 そうなれば愛凌は、……愛凌の子は、どうなるのだろう。


 ざらりと、どす黒い()()が、愛凌の全身を駆け巡る。それは触れるそばから彼女の身体を凍りつかせ、酷い臭いを発して腐らせていく。




(駄目よ。それだけは、許さない──)




 夫の身体を独占するだけなら、まだ良い。寵妃の座などいくらでもくれてやろう。

 でも、息子に約束された至高の地位だけは、何があっても手放すつもりはない。娘にしても、皇帝の義姉であるよりも実姉である方が、何倍も幸福な人生を送れるはずだ。我が子の輝かしい未来を妨げる者は、愛凌は誰であっても許さない。

 気が付けば愛凌は、そばに控えている侍女に命じていた。


「──()()を、(しゅ)妃に」

()妃様……」


 青ざめる侍女を鬼気迫る表情で(にら)みつけ、愛凌は拳を震わせる。侍女はついに項垂れるように(うなず)き、黙って部屋を出て行った。


 次期皇后ともなれば、数多の貴族から貢ぎ物を受け取る。その中にはとても人に言えぬもの、例えば堕胎薬なども含まれていた。


 万が一朱妃が直謙の子を身篭っていた場合、その薬を飲ませた時点で、愛凌は皇族殺しを企んだ罪で極刑を受ける。そうなれば、自身の子どもたちの未来も閉ざされる。けれども、そうしたことにも思い至らないほど、彼女は追い詰められていた。


 






 けれども、愛凌(あいりょう)の憂いは、彼女が想像もしていなかった形で払われることになる。

 重篤な後遺症に苦しむ佳夕(かゆう)が、皇太子妃宮を退(しりぞ)いてすぐのことだった。

 (しゅ) 玲穎(れいえい)が一連の事件にまつわる犯行を自白し、捕縛されたのだ。


 しかし、それは真犯人を炙り出すための、皇太子による策略だった。明珠(めいじゅ)や佳夕、愛凌の愛娘たちを苦しめたのは、朱妃の侍女の(ふう) 春海(しゅんかい)であり、朱妃はそれらを止めるために必死に陰で動いていたという。

 春海や、彼女を操っていた朱家をはじめとする反皇帝派は一掃された。そして朱妃は、実家の罪に連座する形で軟禁を命じられた。

 今後、後ろ盾をなくした彼女は皇帝の後宮に入ることは許されず、直謙の即位と共に皇都(こうと)を追われることになった。











 何が起こったのかも分からぬまま、愛凌(あいりょう)は目前に迫った立后(りっこう)の儀の準備に追われていた。春になれば直謙(ちょくけん)は予定通り即位し、愛凌も彼の後宮の女主となる。

 夫は彼女以上に多忙を極め、まともに顔を合わせる機会もなかった。ただ、彼は夜の一時(ひととき)冷宮(れいぐう)に移った玲穎(れいえい)のもとを頻繁に訪れているようだと、侍女が噂しているのを耳にした。


 玲穎に堕胎薬を飲ませるよう侍女に命じた時の、焼け付くような妬心(としん)は、気付けば愛凌の中から消えていた。今はその燃え残りのような複雑な感情が、時折(よみがえ)っては彼女の胸を刺す。

 彼女があの薬を飲んでしまったのではないか、愛凌の乱心を誰かが面白おかしく吹聴(ふいちょう)するのではないか──。今更としか言いようのない後悔に愛凌は(さいな)まれたが、それも杞憂(きゆう)だった。

 朱 玲穎が後宮を出たその日。夫は偉大なる大礼国の第五代皇帝として皇宮の頂点に立ち、愛凌は皇后としてその一段下隣に並び立った。

 華やかで荘厳な儀式。より良い未来を確信したように、目を輝かせる臣民たち。遠方から足を運び、恭順に頭を下げる属国の君主たち。来賓席でじっとその様を見つめている、数々の同盟国や友好国の指導者。その中には、八年ぶりに故郷の土を踏んだ澄蘭(ちょうらん)公主(こうしゅ)の姿もあった。

 夫はいつものように、ごく自然に愛凌を気遣いながら儀式や宴に臨んでいた。彼女の企んだ悪事を知らぬのだろうかと、信じてしまいたくなるほどに。


 けれど、自身の後宮が開かれて最初の夜の相手に、夫は愛凌を指名した。ここ数年、久しく夜には訪れなかった正妻の宮に足を運ぶという。

 それを無邪気に喜べるほど、愛凌は() 直謙(ちょくけん)という男を知らないわけではない。





 果たして、春先の冷えた木床に平伏する愛凌を、直謙は無言で見下ろしていた。しばらくのち、彼は柔らかだが乾いた声音で、正妻の名を呼ぶ。


「愛凌。面を上げよ」


 強ばる身体を騙し騙し、顔を上げた愛凌に、皇帝となった夫はいっそ優しげに囁きかけた。


「……愛凌。そなたは、私の正妻となった。その意味は分かるな?」


 愛凌は無言で拳を握り締める。


 そう。これは断じて、愛情や信頼の告白ではない。彼女が夫のかつての愛妃に何をしたかを知っていて、釘を刺すための最後通牒だった。


 これから先、皇太子妃時代とは比べ物にならないほど多くの美姫が、夫の妃となる。情勢の変化に伴い、彼の寵妃は目まぐるしく変わるだろう。

 愛凌が彼の皇后に選ばれたのは、ただ彼女の生まれがその座に相応しいからだ。その罪を糾弾(きゅうだん)されなかったのは、皇太子正妃時代に産んだ息子が、次代の後継として不足がないと見なされているからだ。

 愛凌に期待されているのは、後宮を恙無(つつがな)く治めることのみ。間違っても夫の寵を求めたり、情を強請(ねだ)ったり、我欲を突き通して他者を傷付けたりすることではない。

 愛凌は既に一度、側妃への無為な嫉妬から道を踏み外しかけた。もし皇后に相応しい振る舞いが出来ぬのならば、子諸共後宮を去れ。彼の言葉は、そういう意味だ。


(分かっている。……分かっていたわ)


 愛凌とて今更、夫の関心を得ようとは思わない。けれど、あの日見た夫の姿──(しゅ) 玲穎(れいえい)に向けられた眼差しを羨ましいと思ってしまうほどには、彼に対する情も、女としての自尊心も残っている。

 だから、分かっていた。あの目が自分に向けられるわずかな可能性を、他ならぬ愛凌自身が閉ざしてしまったことも。大切な存在を危険に(さら)された夫が、決して愛凌を許さないであろうことも。彼が愛凌の罪を告発しないのは、船出したばかりの自身の治世を動揺させないために過ぎないことも──分かっていた。

 愛凌は奥歯を噛み締め、小さく(うなず)いてみせる。


「……はい。分かっております、陛下」


(貴方様は決して、私を許さない。愛さない──)


 直謙は静かに目を細め、床に(ひざまず)いたままの正妻に手を伸ばして言った。


「ならば、良い。──いつまでも待たせていては、(とばり)の向こうの宦官(かんがん)たちが落ち着かぬであろう。参ろうか」


 冗談めかした穏やかな声が、愛凌の耳を、身体を、通り抜けていく。彼女は無言で目を伏せ、その手を取って立ち上がった。








 まだ寒さの残る、春の夜明け。

 皇后・魯 愛凌は久方ぶりに、夫と並んで朝陽を見上げた。

 霞がかった淡い色合いの空から零れる、何もかもを浄化するような清冽な光。目覚めたばかりの世界を照らす朝陽は、ぎこちなく並んだ二つの影を映し出す。それらは決して交わることなく、ただ真っ直ぐ地面に伸びていた。

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