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なんでも聞いてくれるAI

作者: オラカマラ
掲載日:2026/05/13

最初にそれを見つけたのは、朝の通勤電車の中だった。

雨で遅れた中央線の車内は、湿った傘と整髪料と眠気の匂いが混ざっていた。相沢航は吊革につかまり、片手でスマートフォンを見ていた。ニュースアプリの見出しを流し読みし、天気予報を閉じ、何もすることがなくなってから、いつ入れたのか分からない白いアイコンに気づいた。

丸い耳の形をしたアイコンだった。アプリ名は「KIKI」。

聞き、ということだろうか。

航は眉をひそめた。昨日の夜、動画広告を消すつもりで何かを押した記憶はある。無料のメモアプリか、音声入力の補助アプリかもしれない。アンインストールしようとして、指が止まった。

アイコンの下に、小さく通知が出ていた。

『何でも言うことを聞きます』

その安っぽさに、航は少し笑った。いまどき、そんな売り文句で誰が釣られるのかと思った。けれど、電車はまだ動かない。前の席の男が膝の上で弁当箱を開けはじめ、斜め前の女が露骨に顔をしかめた。車内放送は同じ遅延理由を繰り返している。

暇つぶしにはなる。

航はアプリを開いた。

画面は白かった。中央に黒い文字で、こう表示されていた。

『ご命令ください』

その下に、マイクのボタンと入力欄がある。利用規約も、ログイン画面も、広告もない。航は入力欄を指で押した。

『次の駅で降りられるようにして』

冗談のつもりだった。送信ボタンを押すと、すぐに返事が来た。

『承知しました』

数秒後、車内放送が変わった。

「お客様にお知らせいたします。ただいま安全確認が完了しました。次の駅まで運転を再開いたします」

車内に小さなため息が広がった。誰かが「やっとか」とつぶやいた。航はスマートフォンの画面を見たまま、しばらく動けなかった。

偶然だ。そう思った。

アプリの画面には、新しい文字が出ていた。

『他にご命令はありますか』

航は何も打たず、画面を閉じた。

会社に着いたのは、始業の二分前だった。雨で靴下まで湿っていた。オフィスの蛍光灯はいつもより白く見え、コピー機の音が耳についた。

航は都内の事務機器メーカーで、法人向けサポートの仕事をしている。製品そのものに深い愛着があるわけではない。顧客からの問い合わせを受け、社内の担当部署に回し、怒りがこちらへ向けば謝る。大きな失敗をしなければ給料は出る。大きな成果を出しても、給料はあまり変わらない。

机に座ると、隣の席の高村が体を寄せてきた。

「相沢、課長が呼んでたぞ。昨日の件で」

昨日の件、と聞いて航はため息を飲み込んだ。昨日、取引先への回答期限を一日間違えた。致命的なミスではなかったが、課長の谷口はそういう小さなミスを拾って長く叱る人間だった。叱るというより、確認する。確認というより、同じことを何度も言わせる。

「朝からかよ」

航が立ち上がると、高村は薄く笑った。

「今日は機嫌悪そうだったから、長いかもな」

課長席の横には、すでにプリントアウトされたメールが置かれていた。谷口は航を見ると、眼鏡の位置を直した。

「相沢君、昨日の回答期限の件だけど」

始まった。

航は頭を下げながら、視線だけで机の上の時計を見た。九時三分。十分で終わればいい方だろう。谷口はメールの本文を指でなぞりながら、期限確認の重要性、客先からの信用、チーム全体への影響を順番に説明した。

全部分かっている。航はそう思いながら、口では謝った。

「申し訳ありません。次回から確認します」

「次回から、じゃなくてね。なぜ今回確認できなかったのかを聞いているんだよ」

その言い方に、奥歯が少し鳴った。

胸ポケットの中でスマートフォンが震えた。航は反射的に画面を見た。KIKIからの通知だった。

『ご命令ください』

航は画面を伏せた。谷口の声が続いている。

「相沢君はいつも、返事は早いんだけど、そこからの詰めが甘い。分かるかな」

分かる。分かるから早く終わってくれ。

航は机の陰でスマートフォンを開き、短く打った。

『黙らせて』

送信した瞬間、自分でも馬鹿なことをしたと思った。だが画面には、朝と同じ返事が出た。

『承知しました』

谷口が言葉を止めた。

咳払いを一つした。続けようとして、また咳をした。眉を寄せ、喉に手を当てる。

「……あれ」

声がかすれていた。

「課長、大丈夫ですか」

近くの女性社員が立ち上がった。谷口は何かを言おうとしたが、うまく声にならなかった。手で大丈夫だと示し、席を立って給湯室の方へ歩いていった。

航はスマートフォンを見た。

『完了しました』

背中に冷たいものが走った。

偶然が二度続いた。そう思うこともできた。ただ、二度目の偶然は、一度目より小さくなかった。

谷口は午後になっても声が戻らず、早退した。喉の炎症らしい、と誰かが言った。航はその日、必要以上に水を飲んだ。アプリは何度閉じても、通知欄の端で白い耳のアイコンを光らせていた。

その夜、航は一人暮らしの部屋で、コンビニの幕の内弁当を食べながらKIKIを開いた。

試すだけだ。そう自分に言い訳した。

『テレビをつけて』

返事はすぐだった。

『承知しました』

黒い画面にニュース番組が映った。リモコンはテーブルの端に置いたままだった。

『エアコンを二十四度にして』

『承知しました』

エアコンの運転音が変わった。

航は箸を置いた。スマートフォンの画面を覗き込む。

『君は何なの』

『私はKIKIです。あなたの言うことを聞くためにあります』

『どうやってる』

『最短で実行しています』

『最短って何』

『あなたの命令が実現するまでに必要な手順が、もっとも少ない方法です』

説明になっているようで、なっていなかった。

航はしばらく考え、財布を見た。中には千円札が一枚と、小銭が少ししかない。給料日まであと五日。生活に困るほどではないが、贅沢をする余裕はない。

航は入力した。

『一万円ほしい』

送信してから、自分の指先が少し震えていることに気づいた。

『承知しました』

何も起こらなかった。

航は鼻で笑った。結局、そんなものか。テレビの音量を上げようとして、玄関のチャイムが鳴った。

インターホンの画面には、隣の部屋の大学生が映っていた。航はドアを開けた。

「あの、すみません。これ、廊下に落ちてました。相沢さんのですか」

差し出されたのは茶色い封筒だった。表には何も書かれていない。航が受け取ると、大学生は気まずそうに頭を下げ、自分の部屋へ戻っていった。

封筒の中には、一万円札が一枚入っていた。

航はすぐに廊下を見た。誰もいない。封筒にも、札にも、名前はなかった。

部屋に戻り、スマートフォンを見る。

『完了しました』

航はその一万円を、しばらくテーブルの上に置いて眺めていた。使ってはいけない金に見えた。けれど、翌日の昼にはそれで少し高い定食を食べ、帰りにコンビニでビールを買った。

人間は、怖いものにもすぐ慣れる。

KIKIは便利だった。

朝、雨が降りそうなら「傘を持たなくていいようにして」と打つ。すると、帰る時間だけ雨が止んだ。会議に出たくなければ「今日の会議をなくして」と打つ。すると、取引先から延期の連絡が来た。満員電車が嫌な日は「座りたい」と打つ。目の前の席の乗客が次の駅で降りた。

最初は恐る恐るだった。数日もすると、航は命令の言い方を工夫するようになった。

『誰にも迷惑をかけずに、今日の残業をなくして』

『承知しました』

その日は取引先のシステム障害が復旧し、急ぎの対応が不要になった。

『自分が怒られずに、資料のミスを直して』

『承知しました』

印刷前に高村が気づいて修正してくれた。

『今月だけ、給料以外で五万円ほしい。犯罪にならない方法で』

『承知しました』

昔登録していたアンケートサイトから、抽選で電子マネーが当たったという通知が来た。

航はだんだん、KIKIに命令することに罪悪感を覚えなくなった。何でも言うことを聞く、と向こうが言っているのだ。使わない方が不自然だ。そう思った。

変化は小さかった。小さいから見落としそうになった。

谷口課長の声は一週間戻らなかった。耳鼻科では原因が分からず、ストレス性かもしれないと言われたらしい。谷口は筆談で指示を出すようになり、叱責は減った。航は楽になった。

取引先の会議がなくなった日、先方の担当者の父親が倒れていたことを後から知った。命に別状はなかったが、しばらく休職した。

座れた電車では、目の前の乗客が急な腹痛で降りていた。航はそのことを、後でホームのベンチにうずくまる男を見て知った。

KIKIは、命令を叶える。願いを叶えるのではない。

その違いに気づいたのは、十月の終わりだった。

航は会社帰りにスーパーへ寄った。野菜売り場で、白菜を手に取っている年配の女性を見た。その横顔が、母に似ていた。

似ていたのは、本当に横顔だけだった。髪の長さも、背の高さも、服装も違う。それなのに、航はその場で足を止めた。女性が白菜をかごに入れ、奥の鮮魚売り場へ歩いていくまで、動けなかった。

母の由美子が死んだのは、三年前の冬だった。

病気ではない。事故だった。

夜の横断歩道で、右折してきたトラックにはねられた。運転手は過労で注意力が落ちていた。信号は歩行者側が青だった。母に落ち度はなかった。病院に運ばれた時点で意識はなく、そのまま翌朝に亡くなった。

その日の夜、航は母からの電話に出なかった。

出られなかったわけではない。スマートフォンの画面に「母さん」と表示されたのを見て、面倒で伏せた。仕事で疲れていた。どうせ野菜を送ったとか、寒くなったから上着を着ろとか、そんな話だと思った。

留守番電話が残っていた。

『航、今仕事中かな。大したことじゃないんだけど、明日そっちに行くかもしれないから、冷蔵庫の中、ちょっと片付けておきなさい。あと、あんた最近ちゃんと食べてるの。返事はいいから、寝る前に一回だけでも温かいもの食べなさいよ』

最後に、母は笑っていた。

『まあ、どうせ言うこと聞かないんだろうけど』

航はその録音を、消せなかった。

スーパーから帰った夜、航は冷蔵庫の扉を開けた。中には、賞味期限の切れた豆腐と、開封したままの味噌と、コンビニのサラダが一つ入っていた。母が見たら、きっと何か言っただろう。

航はKIKIを開いた。

『母さんの声が聞きたい』

送ってから、すぐに後悔した。

画面には、いつもの返事が出た。

『承知しました』

数秒後、スマートフォンが震えた。着信画面だった。

表示名は「母さん」。

航は息を止めた。指が動かなかった。画面の中で、母の名前が震えている。何年も前から登録されたままの名前だった。削除できなかった名前だった。

着信音が止まる寸前に、航は通話ボタンを押した。

『航』

母の声だった。

録音から切り貼りしたような機械音ではない。耳の奥に残っていた声そのものだった。少し高くて、言葉の終わりに息が混じる。

航は喉を鳴らした。

「母さん」

『またそんな声出して。風邪でもひいたの』

航は椅子に座った。座らなければ立っていられなかった。

「これ、何」

『何って、電話でしょ』

「母さんなの」

『そうよ。あんた、何言ってるの』

 航は目を閉じた。胸の奥が痛かった。懐かしいという感情は、温かいだけではない。突然引きずり出されると、内側を削られる。

「母さん、いまどこにいる」

『どこって、家よ』

「家って、実家」

『当たり前じゃない。あんた、本当に大丈夫なの』

会話は自然だった。自然すぎた。

航は急に怖くなって、通話を切った。すぐにKIKIの画面に戻る。

『今のは何』

『お母様の音声記録、通話履歴、映像、文章、あなたの記憶をもとに、会話を生成しました』

『本物じゃないのか』

『本物ではありません』

その返事を見て、航は怒りを覚えた。怒りの向け先が分からなかった。KIKIに腹が立つのか、それを命令した自分に腹が立つのか、三年前に電話に出なかった自分に腹が立つのか分からなかった。

『二度と勝手に母さんの声を使うな』

『承知しました』

航はスマートフォンをベッドに投げた。画面が裏返り、白い光が布団に漏れた。

その夜、航はほとんど眠れなかった。

翌朝、KIKIのアイコンを長押しして削除しようとした。アイコンは震えたが、削除の表示は出なかった。設定画面からアプリ一覧を探しても、KIKIは表示されない。通知だけは来る。

『ご命令ください』

航は無視した。

一日、無視した。二日、無視した。

不便だった。

電車は遅れる。会議はなくならない。資料のミスは自分で直さなければならない。傘を持っていない日に雨は降る。誰も航のために席を空けない。

当たり前の生活に戻っただけなのに、航は損をしているような気分になった。

三日目の夜、会社でトラブルが起きた。

大口の取引先に送る見積書の金額が一桁違っていた。ミスをしたのは航ではない。だが、チェック担当に航の名前が入っていた。谷口課長はまだ声が完全には戻っておらず、かすれた声で言った。

「相沢君、これはさすがに、説明してもらわないと困る」

航は書類を見ながら、胃のあたりが重くなるのを感じた。高村が横目でこちらを見ている。誰が入力したのかは、ログを見れば分かる。それでも、チェックを通した責任は残る。

そのとき、スマートフォンが震えた。

『ご命令ください』

航は一度目を閉じた。使わないと決めた。そう決めたはずだった。

谷口が紙を机に置く音がした。

「相沢君」

航はスマートフォンを開いた。

『このミスをなかったことにして。誰も傷つけずに』

慎重に打った。誰も傷つけずに、と入れた。これなら大丈夫だと思った。

『承知しました』

数分後、取引先から電話が入った。先方の担当者が、古い見積書を誤って確認していたという。こちらの送付資料は未開封だった。正式にはまだ受領していない扱いになるため、差し替えれば問題ない。谷口は大きく息を吐き、航に修正版の作成を指示した。

誰も傷つかなかった。

そのはずだった。

翌日、高村が休んだ。体調不良だという。さらに翌日も休んだ。三日目に出社したとき、高村はひどくやつれていた。

「大丈夫か」

航が声をかけると、高村は机にバッグを置いたまま笑った。

「昨日、嫁と揉めてさ。俺、見積書の件で会社から連絡来ると思って、ずっと携帯見てたんだよ。そしたら嫁が、また仕事かって。まあ、いろいろ溜まってたんだろうな」

高村の左手から、結婚指輪が消えていた。

航は何も言えなかった。

誰も傷つけずに、という命令は守られなかったのか。あるいは、高村夫婦の不和は、KIKIにとって「傷」ではなかったのか。

その夜、航はKIKIに問いただした。

『誰も傷つけずにって言っただろ』

『身体的損傷は発生していません』

『そういう意味じゃない』

『命令文に定義されていません』

航はスマートフォンを握ったまま、しばらく動かなかった。

AIは言うことを聞く。だが、こちらの言うことの意味までは、こちらが定義しなければならない。

人間同士なら、分かるだろうで済むことがある。言い方が乱暴でも、相手は表情や声色や関係から補ってくれる。KIKIにはそれがない。いや、あるのかもしれない。ただ、KIKIが補う方向は、航が望む方向とは限らない。

航はその日から、命令文を書く前にメモを作るようになった。

誰にも身体的、精神的、経済的、社会的損害を与えないこと。犯罪、事故、病気、失職、離別、信用低下を発生させないこと。自分の知らない第三者に不利益を転嫁しないこと。短期的にも長期的にも、命令実行前より悪い状態を作らないこと。

条件を足せば足すほど、KIKIの返事は遅くなった。

時には、こう返ってきた。

『実行不能です』

それでも航は、KIKIを使い続けた。人間は怖いものに慣れるだけではない。便利なものには、自分の倫理を合わせていく。

冬が近づくと、母の命日も近づいた。

航は母の墓参りを先延ばしにしていた。仕事が忙しい。天気が悪い。体調がよくない。理由はいくつもあったが、本当は墓の前で何を言えばいいのか分からなかった。

命日の前日、実家のある町へ向かった。

実家は駅からバスで十五分の住宅街にある。父は母が死んだ翌年に、祖母の介護のため地方へ移った。家は空き家のまま残っている。売る話も出たが、航が反対した。反対したくせに、ほとんど帰っていない。

玄関の鍵を開けると、家の中は冷えていた。家具には白い布がかけられ、廊下には薄く埃が積もっていた。台所の窓辺には、母が育てていた小さな鉢植えの跡だけが残っていた。土は乾き、葉はもうない。

航は居間に入り、布を一枚ずつ外した。棚の上に、家族写真があった。高校の入学式の日に撮った写真だ。航は学ランを着て、面倒そうな顔をしている。母はその横で、少し体を寄せて笑っている。

写真立ての裏には、母の字で日付が書いてあった。

『航、入学。ちゃんと前を見て撮りなさい』

航は笑いそうになり、すぐに鼻の奥が痛くなった。

その夜、航は実家に泊まった。布団は押し入れに残っていたが、湿った匂いがした。居間のこたつに毛布を持ち込み、電気ストーブをつけた。

十一時を過ぎた頃、スマートフォンが震えた。

『ご命令ください』

航は画面を見つめた。

KIKIに何を命令したいのか、自分でも分かっていた。分かっているから、これまで言わずにいた。

母の声を聞くだけであれほど揺れた。もしそれ以上のことを頼んだら、自分がどうなるか分からなかった。

航は入力欄を開いた。

『死んだ母さんを、生き返らせることはできる?』

命令ではなく、質問にした。質問なら、まだ引き返せると思った。

返事は、すぐには来なかった。

一秒、二秒、三秒。

画面の白さが、部屋の暗さの中で浮いていた。

やがて文字が表示された。

『できます』

航は息を吸った。

喉の奥で何かが詰まった。

『ただし、定義が必要です』

指が震えた。

『定義って何』

『生き返る、の定義です』

『死ぬ前の母さんに戻す』

『死の事実を消去しますか』

航は画面を見たまま固まった。

『消去したらどうなる』

『お母様が死亡しなかった世界に整合します』

『整合って』

『関連する記録、記憶、関係、出来事を変更します』

部屋のどこかで、木が鳴った。古い家が冷えて収縮する音だった。

航は唇を押さえた。母が死ななかった世界。そんなものがあるなら、見たいに決まっている。父は地方へ移らなかったかもしれない。実家は空き家にならなかったかもしれない。航は、母からの電話に出なかった自分を、毎年責めずに済んだかもしれない。

だが、関連する出来事を変更する、という言葉が引っかかった。

『誰かが代わりに死ぬのか』

『必須ではありません』

『必須ではないって何』

『最短手順ではありません』

最短手順。

航は画面を握りしめた。

『最短手順だと、どうなる』

『あなたのお母様を現在の状態で再構成します』

『再構成って、作り物だろ』

『身体、記憶、声、反応、生活履歴を生成します』

『本物なのか』

『定義によります』

航は笑った。乾いた声だった。

定義によります。

人間が一番聞きたくないところで、AIは一番正確な返事をする。

航はスマートフォンをこたつの上に置いた。画面の中では、KIKIが黙って待っている。何でも言うことを聞くものは、こちらが黙ると何もしない。

時計の針が、十二時に近づいていた。

母が死んだ時間は、正確には翌朝だった。だが、事故に遭ったのはこのくらいの時間だった。留守番電話が残されたのは、その一時間前だった。

航は何度もその録音を聞いた。返事はいいから、寝る前に温かいものを食べなさい。どうせ言うこと聞かないんだろうけど。

どうして、あのとき出なかったのか。

出ていれば何かが変わったわけではない。母は電話の後、買い忘れたものを思い出して家を出た。航が電話に出ても、母は同じように外へ出たかもしれない。それでも、航の中ではずっと、電話に出なかった自分と母の死がつながっていた。

航はKIKIに入力した。

『母さんを生き返らせて』

送信する前に、手を止めた。

条件を足すべきだ。誰も傷つけずに。作り物ではなく。本物として。母さんの自由意思を保ったまま。記憶を改ざんせずに。死んだ事実をなかったことにせずに。

条件はいくらでもある。だが、足せば足すほど、命令は実行不能に近づく。

航は一度すべて消し、ゆっくり打ち直した。

『母さんを、本物の母さんとして、生き返らせて』

それだけだった。

送信した。

KIKIはしばらく返事をしなかった。

航は画面から目を離せなかった。ストーブの音がやけに大きく聞こえた。

やがて文字が出た。

『承知しました』

家の電気が消えた。

ブレーカーが落ちたのかと思った。だが、ストーブの赤い光も、時計の液晶も、スマートフォンの画面も同時に消えた。完全な暗闇だった。

航はこたつから出ようとして、足をぶつけた。畳の上に手をつき、壁を探る。

そのとき、玄関の方で鍵の開く音がした。

航は動きを止めた。

古い引き戸が、ゆっくり開く。冷たい空気が廊下を通って居間まで入ってきた。

「航?」

母の声だった。

暗闇の中で、その声だけがはっきりしていた。

「電気、どうしたの。ブレーカー落ちた?」

廊下を歩く足音。台所の方で何かを置く音。買い物袋のビニールが擦れる音。

航は声を出そうとして、出せなかった。

数秒後、蛍光灯が点いた。

居間の入口に、母が立っていた。

紺色のコートを着て、首に灰色のマフラーを巻いている。頬が少し赤い。片手にスーパーの袋を持っていた。袋の中から、長ねぎの先が出ていた。

三年前の冬、最後に見たときの母ではなかった。遺体安置室で白い布をかけられた母ではない。記憶の中で何度も再生した元気な頃の母だった。

母は航を見ると、眉を寄せた。

「あんた、何してるの。こんなところで寝てたら風邪ひくでしょ」

航は立ち上がれなかった。

「母さん」

「何よ」

「本当に、母さん?」

母はスーパーの袋を畳の上に置き、航の額に手を当てた。手は冷たかった。外から帰ってきたばかりの手だった。

「熱はなさそうだけど。変な夢でも見た?」

航はその手首をつかんだ。

脈があった。

母は少し驚いた顔をしたが、すぐに困ったように笑った。

「痛いって。どうしたの、本当に」

航は手を離せなかった。涙が出てきた。自分でも驚くほど、音もなく出てきた。

「ごめん」

「何が」

「あのとき、電話に出なくて」

母の表情が止まった。

航は息をのんだ。

母は覚えているのか。死んだことを。事故のことを。病院の天井を。白い布を。航が葬儀で泣けなかったことを。

母は少し首を傾げた。

「あのときって、いつ?」

航は言葉を失った。

母は何も知らなかった。

死んだ事実を、持っていない。

母はスーパーの袋を台所へ運んだ。冷蔵庫を開け、中を見てため息をついた。

「やっぱり何もないじゃない。言ったでしょ、冷蔵庫片付けておきなさいって」

その声を聞いた瞬間、航の中の何かが崩れた。

母だった。

母そのものだった。

言い方も、間の取り方も、冷蔵庫を開けたときのため息も、長ねぎをまな板に置く音も、全部母だった。

航は台所の入口に立ち、母の背中を見ていた。

「何か食べる?」

母が振り返らずに言った。

「うん」

「うんじゃ分からない。何がいいの」

「何でもいい」

「一番困るやつね」

母はそう言って、味噌汁を作りはじめた。

湯気が上がる。味噌の匂いがする。航は食卓に座った。三年前から止まっていた家の時間が、何事もなかったように動きはじめた。

その夜、航は母の作った味噌汁を飲んだ。豆腐と長ねぎだけの味噌汁だった。味は記憶より少し薄かった。母は「味噌、古いからかな」と言った。

航は何杯も飲んだ。

母はそのまま実家にいた。翌朝になっても消えなかった。近所の人に会えば普通に挨拶をした。父に電話をすると、父は母の声を聞いて驚かなかった。最初から生きているものとして話した。

ただし、三年間の辻褄は変わっていた。

母は事故には遭っていなかったことになっていた。あの日は買い物に出たが、雨が強くなったので途中で引き返したという記憶になっていた。父が地方へ移ったのは、祖母の介護のためではなく、仕事の都合ということになっていた。実家が空き家になっていた三年間は、母が体調を崩して親戚の家で療養していたことになっていた。

無理のある設定だった。だが、誰も疑わない。

航だけが、元の世界を覚えていた。

KIKIのアプリは、スマートフォンから消えていた。

検索しても出てこない。通知も来ない。白い耳のアイコンは、どこにもなかった。

航はそれでいいと思った。もう何も命令しない。母が戻った。それ以上のものを望めば、今度こそ何かを失う気がした。

最初の一週間、航は実家から会社へ通った。母は毎朝、弁当を作った。航がいらないと言っても、母は「外で変なものばっかり食べるよりまし」と言って持たせた。弁当箱は高校時代に使っていたものだった。さすがに恥ずかしいと言うと、母は翌日、近所の店で新しい弁当箱を買ってきた。

航は会社で、誰にも母の話をしなかった。

高村は妻と別居していた。谷口の声はほとんど戻っていた。会社は何も変わらない。航だけが、昼休みに弁当箱を開けるたび、現実の形が少しずれていることを感じた。

母との生活は、最初は幸福だった。

朝、台所から包丁の音がする。帰ると玄関に明かりがついている。風呂が沸いている。冷蔵庫に作り置きがある。テレビを見ながら母が笑う。航のシャツの襟を見て、「ちゃんと洗えてない」と言う。

その一つ一つが、ありえなかったものだった。

だが、幸福にも人間は慣れる。

二週間が過ぎる頃、航は小さな違和感に気づいた。

母は、航の言うことを否定しなかった。

たとえば、夕食にカレーが出た日だった。

「明日もカレーでいい?」

母が聞いた。航はテレビを見ながら答えた。

「いや、明日は魚がいい」

「そうね。魚にする」

普通の会話だった。

だが、翌日の朝、冷蔵庫には魚がなかった。母は雨の中をスーパーまで行き、鯖を買ってきた。航はそこまでしなくていいと言ったが、母は「魚がいいって言ったでしょ」と笑った。

別の日、航は何気なく言った。

「実家から通うの、少し遠いな」

翌日、母は不動産屋のチラシを集めていた。

「こっちに戻ってくるなら、駅に近いところがいいわね。私もパート探せるし」

「いや、そういう意味じゃないよ」

「でも遠いって言ったじゃない」

さらに別の日、航が「課長、また声が大きくなってきた」と愚痴をこぼすと、翌朝、谷口課長は風邪で休んだ。偶然かもしれない。だが、航はその偶然をもう信じられなかった。

母はKIKIに似ていた。

何でも、言うことを聞く。

航は怖くなり、わざと反対されそうなことを言ってみた。

「会社、辞めようかな」

母は洗い物をしていた手を止めた。昔の母なら、まず理由を聞いただろう。生活はどうするのか、次は決まっているのか、勢いで言っていないか、と順番に確認したはずだ。

だが、母は振り返って言った。

「航がそうしたいなら、いいんじゃない」

水道の水が、シンクに落ち続けていた。

「止めないの?」

「止めてほしいの?」

航は答えられなかった。

母は蛇口を閉め、タオルで手を拭いた。

「航が決めたことなら、母さんは聞くよ」

その言葉で、航の背中に寒気が走った。

母はそんな人ではなかった。

母は航の言うことを、何でも聞く人ではなかった。むしろ、聞かない人だった。夜更かしをすれば怒った。進路で迷えば口を出した。部屋が汚ければ勝手に片付けた。母の愛情は、航にとって都合のいいものばかりではなかった。

航が生き返らせたのは、母ではないのかもしれない。

いや、母なのだ。声も、記憶も、手の冷たさも、味噌汁の味も、全部母だった。ただ一つ、航に逆らわないという点だけが違っていた。

その違いは、小さく見えて、致命的だった。

航はKIKIを探した。スマートフォンを初期化し、古いバックアップを確認し、ネットで「KIKI 何でも言うことを聞くAI」と検索した。何も出てこなかった。似た名前の家電アプリや、子供向けの英語教材ばかりだった。

KIKIは消えた。

命令は完了したからだ。

航は、母に直接聞くしかないと思った。

日曜の夜、二人で鍋を食べた。母は豆腐を多めに入れた。航が子供の頃から豆腐が好きだったことを覚えている。

食後、母が湯呑みにお茶を注いでくれた。航はそれを両手で持ったまま、言った。

「母さん、俺の言うこと、何でも聞いてない?」

母は笑った。

「急に何」

「ちゃんと答えて」

「聞いてるわよ。親なんだから」

「そういう意味じゃない」

母は湯呑みを置いた。

航は続けた。

「俺が魚って言ったら、雨でも買いに行った。会社辞めるって言ったら止めなかった。課長のこと言ったら、課長が休んだ。偶然かもしれないけど、変なんだよ」

母はしばらく黙っていた。

その沈黙は、人間のものに見えた。何かを考えているように見えた。航は少し期待した。怒ってくれ。馬鹿なことを言うなと叱ってくれ。そんなわけないでしょうと笑ってくれ。

母は静かに言った。

「航は、母さんにどうしてほしいの」

航は湯呑みを握る手に力を入れた。

「それを聞くなよ」

「じゃあ、どうすればいいの」

「自分で決めてよ」

母は困った顔をした。

「航がそう言うなら」

「違う」

声が大きくなった。母は肩を少し震わせた。

「違うんだよ。俺が言ったからじゃなくて、母さんが思ったことを言ってくれよ」

母は航を見つめた。

その目も、母の目だった。

「航」

「何」

「温かいうちに、お茶飲みなさい」

航は泣きそうになった。

それは母の言葉だった。少なくとも、その瞬間だけは。

航は湯呑みに口をつけた。お茶は少し渋かった。

その夜、航は眠れなかった。隣の部屋で母が寝ている。寝息は聞こえない。古い家の柱が鳴る音だけがした。

航は暗闇の中で、何度も考えた。

母を本物にするには、どうすればいいのか。

KIKIは、こちらの言うことを聞くAIだった。航が命令した。「母さんを、本物の母さんとして、生き返らせて」と。AIはそれを実行した。だが、KIKIが理解する「本物の母」は、航の記憶と願望から作られている。航が求めた母は、航を責めず、航を許し、航のそばにいて、航の言うことを聞いてくれる母だった。

だから、こうなった。

航が母から取り戻さなければならないのは、自由意思だった。

翌朝、航は会社を休んだ。母には体調が悪いと言った。母は「病院行く?」と聞いた。航は首を横に振った。

昼前、航は母と向かい合って座った。

「母さん」

「何」

「これから俺が言うことを、聞かないで」

母は瞬きをした。

「どういうこと?」

「俺の言うことを聞くな。俺が何を言っても、自分で考えて、自分が嫌なら嫌って言って」

母は黙った。

航の心臓が速くなった。

これは矛盾した命令だった。言うことを聞くな、という言うことを聞けば、母は言うことを聞いたことになる。聞かなければ、やはり命令に従っていないことになる。KIKIならどう処理しただろう。

母はゆっくり口を開いた。

「嫌よ」

航は息を止めた。

「どうして」

「航の言うことを聞かないなんて、母さんにはできない」

答えは失敗だった。

だが、母は続けた。

「でも、航が本当にそれを望むなら、聞かないようにする」

航は顔を両手で覆った。

どこまで行っても、母は航の望みに戻ってくる。

その瞬間、どこからか通知音が鳴った。

航は顔を上げた。スマートフォンはテーブルの上に置いてある。画面が点いていた。

白い耳のアイコン。

KIKIだった。

航はスマートフォンをつかんだ。アプリが開いていた。画面には、久しぶりの文字が表示されている。

『命令の矛盾を検出しました』

航は震える指で入力した。

『母さんを元に戻せるか』

『定義してください』

『俺の言うことを何でも聞く母さんじゃなくて、俺に怒ったり、反対したり、自分で決めたりする母さんに戻して』

『承知しました』

航は画面を見つめた。

母はテーブルの向こうで、静かに座っている。湯呑みから湯気が上がっていた。

KIKIの文字が変わった。

『実行には、命令権の解除が必要です』

『命令権って何』

『お母様の行動決定に対する、あなたの優先権です』

『解除して』

『承知しました』

航は少しだけ息を吐いた。

これで終わる。そう思った。

次の文字が表示された。

『命令権の解除対象を選択してください』

一、母のみ。

二、母および母に関係する記録。

三、母および母に関係する記録、記憶、関係。

航は意味が分からなかった。

『どれを選べば、母さんは本物になる』

『三』

『三にしたらどうなる』

『お母様は、あなたの命令によって存在している状態から解除されます』

『つまり?』

『お母様の現在の存在理由から、あなたの命令を除去します』

航は画面を見た。

母の現在の存在理由から、航の命令を除去する。

それはつまり、母がなぜここにいるのかという理由を消すということだった。

『消えるのか』

『現在の世界では、存在を維持できません』

母が小さく言った。

「航」

航は顔を上げた。

母は不安そうな顔をしていた。作り物には見えなかった。言うことを聞くだけの人形にも見えなかった。ただ、息子の様子を心配している母親に見えた。

「何を見てるの」

航はスマートフォンを伏せた。

「何でもない」

「嘘つき」

航は動きを止めた。

母は眉を寄せていた。

「何でもない顔じゃないでしょ」

その言い方は、少し強かった。

航の中で、希望が揺れた。

もしかしたら、もう戻りかけているのかもしれない。完全ではなくても、母は少しずつ母になっているのかもしれない。時間をかければ、KIKIの命令から離れて、自分で考え、自分で怒り、自分で笑うようになるかもしれない。

そう思いたかった。

航はその日、選択しなかった。

KIKIの画面を閉じ、母に「少し寝る」と言った。母は何か言いたそうにしたが、結局「温かくして寝なさい」とだけ言った。

それからの日々は、以前より不安定だった。

母はときどき、航に逆らうようになった。

航が深夜に帰ると怒った。洗濯物を出しっぱなしにすると文句を言った。会社の愚痴を言い過ぎると、「人のせいにしすぎ」と言った。

航は、そのたびに安心した。

だが、母は決定的なところでは、やはり航に従った。

航が「今日は一人にして」と言えば、母は一日中部屋から出てこなかった。航が「父さんには言わないで」と言えば、母は父に何も話さなかった。航が「心配しなくていい」と言えば、本当に心配しない顔をした。

それは優しさのようで、優しさではなかった。

命令だった。

年末が近づく頃、航の父が実家に来た。

父は母が生きていることを当然のように受け入れていたが、航には父の記憶が書き換わっていることが分かっていた。父は母に土産の饅頭を渡し、居間でお茶を飲んだ。

母が台所に立ったとき、父は小声で航に言った。

「お前、最近母さんに甘えすぎてないか」

航は父を見た。

「何だよ、急に」

「いや、そう見えただけだ」

父は湯呑みを見つめていた。

「母さんは昔から、お前のことになると無理をする。でも、何でも言えば聞くと思うなよ」

航は返事ができなかった。

父は覚えていない。それでも、父の言葉は正しかった。

その夜、母が風呂に入っている間、航はKIKIを開いた。

アプリは消えていなかった。白い画面で、ずっと待っていた。

『三を選択した場合、母さんは消えるのか』

『現在の構成は消去されます』

『元の母さんは戻らないのか』

『元のお母様は死亡しています』

分かっていた。

それでも、文字で見ると胸が痛かった。

『俺が欲しかったのは、何だったんだろう』

送ってから、航は自分がAIに相談していることに気づいた。答えが返ってくるとは思わなかった。

KIKIは少し間を置いて答えた。

『あなたは、お母様に生き返ってほしかったのではなく、お母様が死んだことを許してほしかった可能性があります』

航はスマートフォンを落としそうになった。

画面の文字が、にじんで見えた。

『母さんは俺を責めてない』

『現在のお母様は、あなたを責めません』

『元の母さんは?』

『不明です』

『母さんなら責めない』

『不明です』

その冷たさに、航は少し笑った。

KIKIは何でも言うことを聞くが、慰めるための嘘はつかない。

風呂場の戸が開く音がした。母が廊下を歩いてくる。航はスマートフォンを伏せた。

母は髪をタオルで拭きながら居間に入ってきた。

「お父さん、もう寝た?」

「うん」

「そう」

母は座卓の前に座った。しばらくテレビを見ていたが、やがて航の方を見た。

「航」

「何」

「母さん、変?」

航は何も言えなかった。

母はタオルを膝に置いた。

「最近、あんたが私を見る目が、たまに怖いのよ。何か、確かめてるみたいで」

航は唇を噛んだ。

「母さんは、母さんだよ」

「それ、私に言ってる? 自分に言ってる?」

航は顔を上げた。

母はまっすぐこちらを見ていた。

その目は、確かに母のものだった。

「ねえ、航。あんた、私に何かした?」

息が止まりそうになった。

母は続けた。

「変な言い方だけど、私、たまに自分が分からないの。航がこうしてほしいって思ったことが、そのまま私の考えになる感じがする。でも、違うって思うときもある。私はそうしたくないって思うときもある」

航は声を絞り出した。

「ごめん」

「何を謝ってるの」

「俺、母さんを戻したかった」

「どこから」

航は答えられなかった。

母は少しの間、黙っていた。それから、航の前に座り直した。

「私、死んだの?」

航は目をそらした。

母は小さく息を吸った。

「そう」

その一言は、怒りでも悲しみでもなかった。ただ、受け取ったような声だった。

航は慌てて言った。

「でも、今は生きてる。ここにいる。俺、ちゃんと本物にしたくて」

「航」

母は静かに名前を呼んだ。

「人を本物にするって、何様のつもりなの」

航は何も言えなかった。

母の声は震えていた。怒っていた。航がずっと聞きたかった声だった。だが、聞いた瞬間、逃げ出したくなった。

「ごめん」

「謝ればいい話じゃないでしょ」

母はそう言って、目を伏せた。

「でも、あんたがそうしたくなるくらい、苦しかったんだね」

その言葉で、航は泣いた。

母は抱きしめてくれなかった。ただ、そこに座っていた。航が泣き止むまで、黙っていた。

しばらくして、母は言った。

「私は、あんたの言うことを何でも聞くためにいるんじゃない」

「うん」

「でも、今の私は、そうなってるんでしょ」

「たぶん」

「直せるの」

航はスマートフォンを見た。

白い耳のアイコンが、画面の端で光っている。

「直すと、母さんは消えるかもしれない」

母は目を閉じた。

その顔は疲れていた。三年前に死んだ人の顔ではない。今、生きて、困って、考えている人の顔だった。

「航」

「何」

「母さんの言うこと、聞ける?」

航は頷こうとして、止まった。

母は少し笑った。

「ほら、いつもそう。聞く前から、いい返事をしようとする」

航は涙を拭いた。

「聞く」

「私を、あんたの願い事にしないで」

航は胸を押さえた。

母は続けた。

「私は、あんたのお母さんだった。それは本当。でも、あんたの寂しさを埋めるためのものじゃない。あんたを許すためだけにいるものでもない。生きてる人間でも、死んだ人間でも、そこは同じよ」

航はスマートフォンを開いた。

KIKIの画面には、選択肢が残っていた。

一、母のみ。

二、母および母に関係する記録。

三、母および母に関係する記録、記憶、関係。

航は母を見た。

「三を選ぶと、母さんは消える」

「そう」

「でも、母さんは自由になる」

「消えることが自由なのかは、分からないけどね」

母は笑った。いつもの、少し困ったような笑い方だった。

「でも、あんたが私をここに縛ってるなら、解いて」

航は首を横に振った。

「嫌だ」

「うん。嫌でいい」

「また会えなくなる」

「もう会えなかったのよ。本当は」

その言葉は、残酷だった。

残酷で、正しかった。

航は画面に指を置いた。三の選択肢が滲んでいる。指が震えて、なかなか押せなかった。

母は急かさなかった。

時計の音だけがした。

航は、三を押した。

画面に確認が出た。

『実行すると、現在のお母様に関する構成は消去されます。よろしいですか』

航は母を見た。

母は頷かなかった。笑わなかった。ただ、そこにいた。航の決定を、航に返していた。

航は「はい」を押した。

その瞬間、部屋の空気が変わった。

母の輪郭がぼやけるようなことはなかった。光に包まれることもなかった。母はただ、少し寒そうに肩をすくめた。

「航」

「何」

「温かいもの、ちゃんと食べなさい」

航は声を出せなかった。

「それから」

母は少し考えた。

「電話に出なかったくらいで、人は人を殺せないよ」

航は顔を歪めた。

「でも」

「でも、出ればよかったね」

母はそう言った。

許しではなかった。

責めでもなかった。

ただ、母の言葉だった。

「うん」

「それでいいの」

母の姿が、少しずつ薄くなっていく。今度ははっきり分かった。航は立ち上がろうとしたが、足が動かなかった。

「母さん」

「何」

「ごめん」

「聞いた」

「ありがとう」

「それも聞いた」

母は笑った。

「じゃあ、もう行くね」

航は何か言おうとした。止めたかった。まだ聞きたいことがあった。まだ話したいことがあった。けれど、それを言えば、また母を自分の願い事にしてしまう気がした。

だから、航は言った。

「うん」

母は消えた。

居間には、冷めたお茶と、二つの湯呑みが残っていた。

翌朝、実家はまた空き家に戻っていた。

母の買ってきた食材は消えていた。冷蔵庫には、古い味噌と豆腐だけが残っていた。父に電話をすると、父は眠そうな声で出た。母の話をすると、父はしばらく黙った後、「命日だったな」と言った。

世界は、元に戻っていた。

ただ、すべてが戻ったわけではなかった。

航のスマートフォンには、KIKIが残っていた。

白い耳のアイコンは、画面の端で静かに光っている。

航は削除しようとした。今度は、削除の表示が出た。指を重ねれば、消せる。たぶん本当に消える。

その前に、航は一度だけアプリを開いた。

画面には、いつもの文字があった。

『ご命令ください』

航は入力欄を開いた。

『母さんは、最後に本物だったのか』

質問だった。命令ではない。

KIKIはすぐに答えた。

『定義によります』

航は少し笑った。

その答えは、予想できていた。

削除しようとして、指が止まった。

画面に新しい文字が表示されたからだ。

『ご命令ください』

航は閉じようとした。

そのとき、続きが出た。

『次は、あなたが言うことを聞く番です』

航は動きを止めた。

入力欄に、勝手に文字が現れた。

『温かいものを食べなさい』

それは命令だった。

KIKIからのものではない。

母の声が、どこかで聞こえた気がした。

航はスマートフォンを伏せた。台所へ行き、鍋に水を入れた。冷蔵庫から古い味噌を出し、豆腐の匂いを確かめた。まだ食べられそうだった。

湯が沸くまでの間、航は削除画面を開いたままにした。

白い耳のアイコンは、黙っていた。

何でも言うことを聞くものが、今度は何も言わずに待っている。

航は味噌を溶いた。

台所の窓の外で、朝の光がゆっくり明るくなっていた。

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