第4章 奈緒
奈緒が事務所に来たのは三月の終わりだった。春になりきる前の夕方だった。昼の暖かさがまだ建物の中に残っているのに、外へ出ると急に風が冷たい。季節が決まりきらない時期だった。由香は雑居ビルの階段を上がり、踊り場の窓から空を見上げた。
夕方の光は、昼ほど明るくないのに、夜ほど深くもない。
どこか中途半端な色だった。
由香が事務所のドアを開けて入ると少しいつもと違っていた。
テレビの音。安いソファ。事務机。そして店長の岸本以外に知らない若い女がソファの端に小さく座っている。女はバッグを膝の上に置き、両手をその上で重ねていた。
緊張している人の手だった。
「三浦さん。新人さんね」と岸本が事務的に紹介してくれた。
女は立ち上がり「奈緒です」と少し顔を強張らせながら頭を下げてきた。
由香は軽くうなずき「よろしくお願いします」岸本同様事務的に挨拶をした。
「……よろしく」奈緒はもう一度小さく頭を下げた。
由香はロッカーの前へ行くと鏡をると、その端に奈緒が映ってた。
若い。それだけではない。まだこの場所の空気を体が覚えていない顔だった。
新人はたいてい同じ顔をする。少しだけ浮いている。ここにいていいのかどうか、自分でも決めきれていない顔。
由香は口紅を直す。
岸本がメモを渡す。
「一本目、福島区」
「はい」
由香はそれを財布に入れる。
奈緒はまだソファに座っている。テレビの音を聞いているようで、聞いていない顔だった。
事務所を出るとき、奈緒が言う。
「三浦さん」
由香は振り返る。
奈緒は少し迷ってから言う。
「よろしくお願いします」
さっきも言った言葉だった。
それでももう一度言った。
由香は小さくうなずいた。
「よろしく」
それだけで会話は終わった。
夜の街は、どこも同じように明るい。
ネオン。信号。コンビニ。明るいのに、暗い。
由香は送迎車の窓からそれを見ている。奈緒は今どこかの部屋にいるのだろうか、と少し思う。新人は最初の数日、表情が変わる。怖さが顔に出る日もあれば、妙に明るくなる日もある。どちらも長くは続かない。少しして、顔は落ち着く。それが慣れなのか、諦めなのかは、外からはわからない。
数日後。
由香が事務所を出ると、奈緒がビルの前に立っていた。空を見上げている。
狭い空。ビルの隙間。
由香が横を通ると、奈緒が気づく。
「あ」
「どうしたの」
「空、狭いですね」
由香も見上げる。
「うん」
奈緒が言う。
「でも高い」
由香は答えなかった。狭くて高い空。この街の空はたいていそうだった。




