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まだ朝  作者: 奥本はじめ
12/12

第12章 まだ朝

その朝、由香はすぐに目を覚ました。

遠くで電車の音がした。いつもと同じような音。

けれど、今日はその音のあとに、もう一度眠りに戻る感じがなかった。

布団を出る。床は少し冷たい。

窓へ行く。

カーテンを開ける。

白い朝があった。

特別にきれいな朝というわけではない。晴れ切ってもいないし、劇的な光でもない。

けれど、その白さは妙に静かだった。

押しつけてこない朝。ただそこにある朝。

由香はしばらく窓の前に立っていた。

やかんを火にかける。湯を沸かす。コーヒーを淹れる。机に戻る。

ノートを開く。

白いページ。

少し考える。

それから書く。

6:40 まだ朝

書いたあと、由香はその文字を見つめた。

まだ朝。

時間としての朝でもある。

でも、それだけではない気がした。

何がまだなのか、自分でもはっきりとは言えない。

終わっていないということかもしれない。

遅すぎると思っていたものが、まだ遅くないのかもしれない。

あるいは、ただ本当に、今日はまだ朝だっただけなのかもしれない。

由香はノートを閉じる。

いつもならバッグに入れる。

けれど、その朝は入れなかった。

ノートを手に持つ。

それだけで、朝の感じが少し違って見える。

玄関を出る。階段を下りる。住宅街へ出る。

自転車。ゴミ収集車。走る人。塀の上に残る朝の白さ。ガラス窓の反射。

街はいつものように起き始めている。

由香は途中で立ち止まる。

道端のガラス窓に、朝の光が映っている。

ノートを開きかけて、やめる。

今日は書かない。

ただ見る。

しばらくそうしてから、また歩き出す。

手の中にノートの重みがある。

それはいつもと同じはずなのに、少しだけ違うものを持っている気がした。


カフェのベルが鳴る。

片桐が顔を上げる。

「おはよう」

「おはようございます」

由香はいつもの窓際へ座る。

片桐はコーヒーの準備をする。

窓の外では、朝の街がもう少しだけ動き始めている。

由香はノートをテーブルに置いた。

表紙に光が落ちる。

片桐はそのノートを見たあと、由香を見る。

「今日は早いね」

「そうですね」

「いつも通りにも見えるけど」

由香は少しだけ笑った。

「……そうかもしれません」

コーヒーが置かれる。

由香は両手でカップを持つ。

ひと口飲む。

窓の外。通学の子ども。バス停の人影。信号待ちの自転車。白い空。

由香はノートの表紙に手を置いた。

少しだけ撫でるように指を動かす。

長いあいだ持っていたものに触れるみたいに。

片桐は何も言わない。

言わなくても気づいている顔だった。

由香はカップを置く。

立ち上がる。

「ごちそうさま」

「はいよ」

会計を済ませる。

扉へ向かう。

ベルが鳴る。

由香は振り返らない。

テーブルにはノートが残っている。

片桐はそれに気づいている。

でも呼び止めない。

窓の向こうを、由香の後ろ姿が通り過ぎていく。

片桐はしばらくノートを見ていたが、やがて何もせずカウンターへ戻った。

残されたものに、すぐ手を出さない方がいいときがある。

片桐はそういうことを知っている。


少しして、ベルがまた鳴った。

奈緒が入ってきた。

以前より少し落ち着いた服装をしている。

派手さはない。化粧も薄い。

けれど、それはやつれたという感じではなく、少しだけ自分の顔に戻ったようにも見えた。

「……おはようございます」

片桐が軽くうなずく。

「いらっしゃい」

奈緒は店内を見回す。

客は他にいない。

窓際の席。

そこにノートがある。

奈緒は少し足を止めた。

近づいて手を伸ばしかけるが片桐を見る。

でも片桐は何も言わない。

奈緒はゆっくり座った。

ノートを開く。

最初のページの近く。

朝の光。

白い空。

カフェの光。

歩道橋の影。

川の光。

ビルの西日。

ネオン。

雨の窓。

短い言葉が、何百ページも続いている。

どのページにも、誰かの日常というより、誰かが見た一瞬の光だけがある。

その量だけで、そこに流れてきた時間の長さがわかる。

奈緒はページをめくる。

7:02 父の葬式の朝

そこで指が止まる。

奈緒はその一行をじっと見る。

父、という言葉が、他の光の中に混じっている。

そこだけ、光だけでは足りなかった朝なのだとわかる。

まためくる。

6:51 初めての大阪

まためくる。

5:58 帰らなかった朝

まためくる。

18:11 言えない光

奈緒はその一行の上で、少し長く手を止めた。

言えない光。

何が言えなかったのかは書いていない。

でも、あの日の夕方のことだと、奈緒にはわかった。

自分が言ったこと。

三浦さんが言ったこと。

届かなかったもの。

見えなかったもの。

奈緒は小さく息を吸った。

窓の外を見る。

朝の街。

由香の姿は、もう見えない。

またページをめくる。

“誰かが読むかもしれない”」

奈緒はその一文を見て、しばらく動かなかった。

それは、誰かに向けられたもののようでもあり、誰にも向けられていないもののようでもあった。

片桐がコーヒーを置く。

「温かいうちに」

奈緒は小さくうなずく。

「……はい」

それ以上、片桐は何も言わない。

奈緒は最後の白いページを開いた。

テーブルに置かれていた短い鉛筆を取る。

少し考える。

何を書くのか、すぐには決まらない顔だった。

窓からの光が、ページの端に触れる。

カップから湯気が立つ。

壁の時計が音を刻む。

奈緒は、ゆっくりと書いた。

六時四十八分 カフェの光

その文字を見つめる。

少し手が震えている。

でも、書けた。

窓の外を見る。

白い空。

朝の街。

人の流れ。

奈緒はもう一行、書く。

七時二分 朝

書いてから、鉛筆を置く。

ノートを閉じない。

そのまま、窓の外を見続ける。

初めて朝を見ている、と思った。

本当は初めてではない。

子どものころにもあったはずだし、眠れなかった朝もあったはずだ。

けれど、自分の意志で、朝がどんなものかを見ようとして見るのは、初めてだった。

奈緒はノートではなく、外を見る。

そこにあるのは、特別な景色ではない。

バス停。

住宅街。

通り過ぎる人。

でも、その全部に朝の光がある。

それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなる気がした。


そのころ、由香は街を歩いていた。

住宅街。バス停の透明な屋根。ビルの窓。水たまり。

朝の光が、いろんな場所に少しずつ分かれて落ちている。

由香はふと立ち止まる。

空を見る。

白い空。

雲の向こうの、静かな光。

その光が、由香の顔に触れる。

由香は少し目を細めた。

「……きれい」

ほとんど独り言だった。

何かが解決したわけではない。過去が消えたわけでもない。奈緒に全部が伝わったわけでもない。仕事も、街も、これから先も、大きくは変わらないかもしれない。

それでも、今日の朝は今日しかない。

そのことだけは、もう一度ちゃんとわかった気がした。

由香はまた歩き出す。

人の流れの中へ入っていく。

後ろ姿が少しずつ遠くなる。

やがて街の中に紛れて、見えなくなる。

そこに残るのは、街だけ。

朝だけ。

光だけ。


カフェでは、開いたノートの上を光がゆっくり伸びていた。

6:48 カフェの光

7:02 朝

文字の上を通り、白い余白へ広がる。

奈緒はその光を見ている。

片桐は少し離れたところから見ている。

誰も何も言わない。

壁の時計。

カップから立つ湯気。

外を通り過ぎるタイヤの音。

白い空。

光は消える。

朝も終わる。

人はまた、それぞれの場所へ戻っていく。

それでも、まだ朝だった。




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