第11章 誰かが読むかもしれない
奈緒がいなくなっても、朝は同じように来た。
電車の音。白い光。コーヒー。ノート。住宅街。歩道橋。カフェ。河川敷。夜の道。
世界は、誰か一人がいなくなったくらいでは止まらない。それは慰めでもあり、残酷でもある。
由香はいつものように朝、カーテンを開ける。
白い朝。机へ戻る。ノートを開く。
6:11 バス停の白
また別の日。
6:37 まだ冷たい朝
昼のカフェ。
11:16 テーブルの線
夕方の駅前。
17:58 駅の階段
夜の帰り道。
24:36 タクシーの窓
文字は積み重なっていくがそこに奈緒の名前はない。名前どころか、人のことを思わせる言葉もほとんどない。それでも、奈緒がいなくなったあとの光は、前より少しだけ薄いところがあると由香は思った。
薄いというのは、弱いという意味ではない。
何かが一枚抜けた感じ。
光の見え方が変わるほどではないが、見ている自分の側が少しだけ違っている。
奈緒は、由香の日常に深く入り込んでいたわけではない。連絡先を頻繁にやり取りしたわけでもない。休日に会ったわけでもない。それでも、夜の道や河川敷や自販機の前に奈緒の気配が残っていることがあった。
古い自動販売機の角を曲がると、まだそこにしゃがみこんでいる姿を一瞬思う。
河川敷のベンチに座ると、隣で缶コーヒーを握っている手を思い出す。
カフェの窓際でノートを開くと、「ほんとに書くんだ」と言った声が一度だけ耳に戻る。
由香はそれをノートには書かない。書けば、たぶん少しだけ違うものになる。
けれど、書かないことが、そのまま消えることでもないのだと、最近少しだけ思い始めていた。
雨の日のカフェで、片桐がコーヒーを置いた。
窓には細かい雨粒。客は他にいない。由香はいつもの窓際にいる。
片桐が言う。
「今日は書かないんだね」
由香はノートに手を置いたまま答える。
「……あとで」
片桐は「そう」とだけ言う。
少し間があってから、由香は自分でも思っていなかったことを口にした。
「人に言われたんです」
片桐がカウンターの向こうで手を止める。
由香は窓を見たまま続ける。
「あなたみたいになりたくないって」
片桐はすぐには何も言わない。
やがて小さく息をつき、「そうか」とだけ言う。
「はい」
「それで?」
由香は少し考える。
その問いに、きれいな答えはない。
「別に」
そう言うと、片桐は少しだけ笑った。
「別に、って言葉は便利だね」
由香も、少しだけ口元を動かす。
「……そうですね」
「でも、刺さる言葉は便利じゃない」
由香はその言葉を聞いて、カップに口をつけた。少し冷めている。
窓の外の雨は弱くなってきていた。
「若い人は、逃げたいものをはっきり言う」
片桐が続ける。
「年をとると、言わなくなる」
由香は窓を見たまま聞く。
「どっちがいいんですか」
片桐は肩をすくめるようにして、カップを拭き始めた。
「さあ」
それ以上は言わない。由香も何も続けなかった。
奈緒の言葉は、傷として残っているというより、小さな棘のようだった。
抜けないほど深くはない。でも、ふとしたときにそこにあるとわかる。
それが痛みなのか、ただの異物感なのか、自分でもよくわからない。
若い人は、逃げたいものをはっきり言う。
たしかにそうかもしれない。
由香も若いころは、今よりはっきり何かを拒んでいたのだろうか。
帰らなかった朝の自分は、いまよりずっと鋭かったのかもしれない。
けれど、もう正確には思い出せない。
思い出せるのは、あの朝のホームの白さや、風の冷たさや、乗らなかった電車の音ばかりだ。
夜、眠れないまま、由香は古いノートをめくった。
今使っている一冊ではなく、前の、さらに前のノート。紙の端が少し波打っている。
昔の部屋の湿気を吸ったままなのかもしれない。
ページをめくる。
6:51 初めての大阪
まためくる。
5:58 帰らなかった朝
まためくる。
7:02 父の葬式の朝
そして、その少しあとで、別の一文に指が止まる。
“誰かが読むかもしれない”
それは、いつもの一行とは違っていた。
時刻も場所もない。光の名前でもない。まるで、誰かに向けた言葉みたいだった。
由香はその一文を長く見つめた。
いつ書いたのかはっきりしない。
夜だったのか、朝だったのか。泣いていたのか、何も感じていなかったのか。
まるで思い出せない。
でも、そのときの自分が、誰にも見せるつもりのなかったはずのノートに、こんなことを書いていた。
誰かが読むかもしれない。
その「誰か」は誰だったのだろう。
父ではない。母でもない。地元に置いてきた誰かでもない気がする。
今となっては、その誰かが実在するのかどうかさえわからない。
それでも、書いたということは、どこかで由香は思っていたのだ。
自分の見てきた朝や光や書かなかったことまで、いつか誰かの目に触れるかもしれないと。
奈緒の顔が浮かぶ。
「ほんとに書くんだ」と言った顔。
「人も書けばいいのに」と言った顔。
「あなたみたいになりたくない」と言った顔。
その全部が、少しずつ違う光の中にあった。
由香はノートを閉じた。
灯りを消す。
暗い部屋の中で、「誰かが読むかもしれない」という一文だけが、しばらく胸の中に残った。
その夜、由香は自分でも気づかないうちに、何かを少し決めていたのかもしれない。




