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まだ朝  作者: 奥本はじめ
10/12

第10章 言えない光

奈緒が辞める日は、特別な空ではなかった。

晴れているとも、曇っているとも言えない夕方だった。

光はある。けれど、何かをくっきり照らすほどではない。ビルの壁の端だけが、細く明るい。

街は夜へ向かって、少しずつ色を減らしていた。

由香はいつものように事務所の階段を上がった。

踊り場の窓から見える空は薄かった。その薄さが、今日は少しだけ頼りなく見えた。

ドアを開けるとテレビの音。狭い事務所の匂い。ソファ。岸本。そして奈緒がいた。

奈緒は立ったまま荷物をまとめていた。いつもより大きなバッグを持っている。

化粧はしている。でも今日は、それが仕事のための顔には見えなかった。

帰るための顔だった。

由香は少しだけ足を止める。

岸本が顔を上げる。

「奈緒ちゃん、今日まで」

その言い方はいつものように事務的だった。けれど、この場所では事務的であることが一番ましな優しさだった。

由香は奈緒を見る。

「そう」

奈緒は少しだけ頭を下げた。

「辞めます」

「うん」

「実家、戻ります」

由香は小さくうなずく。

「うん」

沈黙。

テレビの中で誰かが笑っている。それがひどく遠い。

「……すみません」

奈緒が言う。

由香は首を振る。

「別に」

岸本が書類を整えながら言う。

「若いんだから、戻れるうちに戻ったほうがいいよ」

奈緒は「はい」と答える。

その声には、ほっとした感じと、負けたような感じが一緒にあった。

由香はロッカーの前へ行く。鏡の中に、自分と奈緒が並んで映る。

仕事用の顔をした自分。帰るための顔をした奈緒。鏡の中では、どちらも同じくらい静かに見えた。けれど、その静けさの中身はまるで違うのだろうと由香は思った。

奈緒がバッグの持ち手を握り直す。

「外で待ってます」

誰に向かって言ったのか、はっきりしない声だった。

岸本は「はいはい」とだけ返した。

奈緒はドアを開けて出ていく。

由香は少し遅れて、そのあとを追った。


雑居ビルの前。夕方の光。

通りを走る車の音。遠くで電車の気配。

奈緒はビルの壁のそばに立っていた。少しだけ上を向いている。

空は狭く、薄い。でもまだ夜ではない。

由香が外へ出ると、奈緒はすぐに振り向いた。

何かを待っていた顔だった。

「私」

奈緒が言う。

それだけで言葉が止まる。

由香は何も言わず待つ。急かすと、たいてい違う言葉が出る。言いたいことは、少し待たないと形にならない。

奈緒は一度、唇を結ぶ。それからようやく言った。

「私、向いてないです。このままだと何も感じなくなりそうで……」

由香は黙って聞いている。奈緒の声は震えていない。

でも、震える直前の細さがあった。

「この仕事」

奈緒が続ける。

「たぶん最初から向いてなかったし、無理してたんだと思います」

由香は何も言わない。奈緒は自分の言葉の置き場所を探すように、少し下を向く。

「でも、三浦さん見てると」

そこで一度止まる。

由香は、その続きがもうどこかでわかっていた。

「あなたみたいになりたくない」

長い沈黙が落ちた。

車が一台、近くを通り過ぎる。そのたびに光が二人の顔をなぞっていく。

奈緒は由香を見られない。でも由香は奈緒を見ていた。

驚きはしなかった。傷つかなかったわけではない。でも、その言葉が奈緒の中でどれだけ切実だったかは、すぐにわかった。

自分みたいになりたくない。それは、由香を傷つけるための言葉ではない。

奈緒が自分を守るために、どうしても必要だった言葉だ。

由香はほんの少しだけ笑った。笑うというより、口元がわずかにほどけた。

「ならなくていいよ」

奈緒の目が揺れる。

「……すみません」

「謝らなくていい」

「でも」

奈緒はやっと由香を見る。目の縁が少し赤い。

「三浦さんみたいに、何も感じなくなるの、嫌だから」

由香はその言葉を、今度は真正面から受け取った。

何も感じなくなった。そう見えるのだろうと思う。

静かな顔。少ない言葉。毎日同じように朝を見て、夜をやり過ごしている女。そう見えることに、自分でも少し慣れていた。

けれど、慣れていることと、本当にそうであることは違う。

由香は少し間を置いた。すぐに答えると、どこかで嘘になる気がした。何をどう言っても、奈緒に全部伝わるとは思わなかった。でも、まったく何も言わないのも違う気がした。

「感じてるよ」

奈緒は言葉を失う。

由香は続ける。

「見えないだけで」

奈緒は何も言わない。ただ、その言葉をどう受け取ればいいのかわからない顔をしている。

由香はその顔を見て、少しだけ昔の自分を思った。誰かの静けさの中身なんて、若いころにはわからない。わからなくて当然だ。

見えないものを見えないまま通り過ぎることも、若さの一部なのかもしれない。

「……やっぱり、わかんないです」

奈緒が小さく言う。

「うん」

由香はうなずく。

それでいいと思った。

わからなくていい。わからないまま離れていく自由が、奈緒にはまだある。

奈緒はバッグを持ち直す。

指先に少し力が入る。

「ありがとうございました」

「気をつけて」

奈緒は小さく頭を下げた。

それから、由香の横を通って歩き出す。

由香はその背中を見送った。

振り返らない。足取りは少し急いでいる。泣かないために急いでいる人の歩き方だった。

やがて、奈緒の姿は通りの角で見えなくなった。

由香は一人、ビルの前に残る。夕方の光が、壁に細く残っている。その光は今日のどの光よりも薄いのに、なぜか目を離しにくかった。

バッグからノートを出す。

鉛筆を持つ。

白いページを開く。

けれど、書けない。

夕方の光。帰る光。細い光。どれも違う。

由香はページを開いたまま、しばらく壁を見ていた。

奈緒の言葉。自分の言葉。

言わなかったこと。言えなかったこと。

その全部が、あの細い光にくっついている気がした。けれど今はまだ書けない。

由香はノートを閉じた。

そのまま事務所には戻らず、歩き出した。


帰宅すると、部屋はいつもより少し広く見えた。静かだからかもしれない。

あるいは、自分の中にまだ奈緒の声が残っているせいで、部屋の無音が深くなったのかもしれない。

靴を脱ぐ。バッグを置く。コートも脱がないまま、床に座る。

由香はしばらく動かなかった。

窓の外の車の音。どこかの部屋のドアが閉まる音。冷蔵庫の低い唸り。

いつもなら、帰宅してからの動きには順番がある。

手を洗う。着替える。机に向かう。ノートを開く。

けれど、その日は体が順番を思い出せなかった。

やがて立ち上がる。洗面台で手を洗う。冷たい水。机の前に座る。

ノートを開く。

白いページ。

長い沈黙。

書かなければならないわけではない。

でも、書かないまま終えると、今日の夕方が自分の中で別のものに変わってしまう気がした。

由香は鉛筆を持った。

少し考える。

何度か違う言葉が浮かんでは消える。

そして、ようやく書く。

18:11 言えない光

書いた文字を見つめる。それは今日の夕方にいちばん近い言葉だった。

言わなかったこと。言えなかったこと。

奈緒に届かなかったもの。奈緒から向けられたもの。

全部が、その一行に少しずつ入っている気がした。

由香はノートを閉じる。

灯りを消す。

暗い部屋の中で、しばらく目を閉じても、「言えない光」という文字だけが残った。


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