第10章 言えない光
奈緒が辞める日は、特別な空ではなかった。
晴れているとも、曇っているとも言えない夕方だった。
光はある。けれど、何かをくっきり照らすほどではない。ビルの壁の端だけが、細く明るい。
街は夜へ向かって、少しずつ色を減らしていた。
由香はいつものように事務所の階段を上がった。
踊り場の窓から見える空は薄かった。その薄さが、今日は少しだけ頼りなく見えた。
ドアを開けるとテレビの音。狭い事務所の匂い。ソファ。岸本。そして奈緒がいた。
奈緒は立ったまま荷物をまとめていた。いつもより大きなバッグを持っている。
化粧はしている。でも今日は、それが仕事のための顔には見えなかった。
帰るための顔だった。
由香は少しだけ足を止める。
岸本が顔を上げる。
「奈緒ちゃん、今日まで」
その言い方はいつものように事務的だった。けれど、この場所では事務的であることが一番ましな優しさだった。
由香は奈緒を見る。
「そう」
奈緒は少しだけ頭を下げた。
「辞めます」
「うん」
「実家、戻ります」
由香は小さくうなずく。
「うん」
沈黙。
テレビの中で誰かが笑っている。それがひどく遠い。
「……すみません」
奈緒が言う。
由香は首を振る。
「別に」
岸本が書類を整えながら言う。
「若いんだから、戻れるうちに戻ったほうがいいよ」
奈緒は「はい」と答える。
その声には、ほっとした感じと、負けたような感じが一緒にあった。
由香はロッカーの前へ行く。鏡の中に、自分と奈緒が並んで映る。
仕事用の顔をした自分。帰るための顔をした奈緒。鏡の中では、どちらも同じくらい静かに見えた。けれど、その静けさの中身はまるで違うのだろうと由香は思った。
奈緒がバッグの持ち手を握り直す。
「外で待ってます」
誰に向かって言ったのか、はっきりしない声だった。
岸本は「はいはい」とだけ返した。
奈緒はドアを開けて出ていく。
由香は少し遅れて、そのあとを追った。
雑居ビルの前。夕方の光。
通りを走る車の音。遠くで電車の気配。
奈緒はビルの壁のそばに立っていた。少しだけ上を向いている。
空は狭く、薄い。でもまだ夜ではない。
由香が外へ出ると、奈緒はすぐに振り向いた。
何かを待っていた顔だった。
「私」
奈緒が言う。
それだけで言葉が止まる。
由香は何も言わず待つ。急かすと、たいてい違う言葉が出る。言いたいことは、少し待たないと形にならない。
奈緒は一度、唇を結ぶ。それからようやく言った。
「私、向いてないです。このままだと何も感じなくなりそうで……」
由香は黙って聞いている。奈緒の声は震えていない。
でも、震える直前の細さがあった。
「この仕事」
奈緒が続ける。
「たぶん最初から向いてなかったし、無理してたんだと思います」
由香は何も言わない。奈緒は自分の言葉の置き場所を探すように、少し下を向く。
「でも、三浦さん見てると」
そこで一度止まる。
由香は、その続きがもうどこかでわかっていた。
「あなたみたいになりたくない」
長い沈黙が落ちた。
車が一台、近くを通り過ぎる。そのたびに光が二人の顔をなぞっていく。
奈緒は由香を見られない。でも由香は奈緒を見ていた。
驚きはしなかった。傷つかなかったわけではない。でも、その言葉が奈緒の中でどれだけ切実だったかは、すぐにわかった。
自分みたいになりたくない。それは、由香を傷つけるための言葉ではない。
奈緒が自分を守るために、どうしても必要だった言葉だ。
由香はほんの少しだけ笑った。笑うというより、口元がわずかにほどけた。
「ならなくていいよ」
奈緒の目が揺れる。
「……すみません」
「謝らなくていい」
「でも」
奈緒はやっと由香を見る。目の縁が少し赤い。
「三浦さんみたいに、何も感じなくなるの、嫌だから」
由香はその言葉を、今度は真正面から受け取った。
何も感じなくなった。そう見えるのだろうと思う。
静かな顔。少ない言葉。毎日同じように朝を見て、夜をやり過ごしている女。そう見えることに、自分でも少し慣れていた。
けれど、慣れていることと、本当にそうであることは違う。
由香は少し間を置いた。すぐに答えると、どこかで嘘になる気がした。何をどう言っても、奈緒に全部伝わるとは思わなかった。でも、まったく何も言わないのも違う気がした。
「感じてるよ」
奈緒は言葉を失う。
由香は続ける。
「見えないだけで」
奈緒は何も言わない。ただ、その言葉をどう受け取ればいいのかわからない顔をしている。
由香はその顔を見て、少しだけ昔の自分を思った。誰かの静けさの中身なんて、若いころにはわからない。わからなくて当然だ。
見えないものを見えないまま通り過ぎることも、若さの一部なのかもしれない。
「……やっぱり、わかんないです」
奈緒が小さく言う。
「うん」
由香はうなずく。
それでいいと思った。
わからなくていい。わからないまま離れていく自由が、奈緒にはまだある。
奈緒はバッグを持ち直す。
指先に少し力が入る。
「ありがとうございました」
「気をつけて」
奈緒は小さく頭を下げた。
それから、由香の横を通って歩き出す。
由香はその背中を見送った。
振り返らない。足取りは少し急いでいる。泣かないために急いでいる人の歩き方だった。
やがて、奈緒の姿は通りの角で見えなくなった。
由香は一人、ビルの前に残る。夕方の光が、壁に細く残っている。その光は今日のどの光よりも薄いのに、なぜか目を離しにくかった。
バッグからノートを出す。
鉛筆を持つ。
白いページを開く。
けれど、書けない。
夕方の光。帰る光。細い光。どれも違う。
由香はページを開いたまま、しばらく壁を見ていた。
奈緒の言葉。自分の言葉。
言わなかったこと。言えなかったこと。
その全部が、あの細い光にくっついている気がした。けれど今はまだ書けない。
由香はノートを閉じた。
そのまま事務所には戻らず、歩き出した。
帰宅すると、部屋はいつもより少し広く見えた。静かだからかもしれない。
あるいは、自分の中にまだ奈緒の声が残っているせいで、部屋の無音が深くなったのかもしれない。
靴を脱ぐ。バッグを置く。コートも脱がないまま、床に座る。
由香はしばらく動かなかった。
窓の外の車の音。どこかの部屋のドアが閉まる音。冷蔵庫の低い唸り。
いつもなら、帰宅してからの動きには順番がある。
手を洗う。着替える。机に向かう。ノートを開く。
けれど、その日は体が順番を思い出せなかった。
やがて立ち上がる。洗面台で手を洗う。冷たい水。机の前に座る。
ノートを開く。
白いページ。
長い沈黙。
書かなければならないわけではない。
でも、書かないまま終えると、今日の夕方が自分の中で別のものに変わってしまう気がした。
由香は鉛筆を持った。
少し考える。
何度か違う言葉が浮かんでは消える。
そして、ようやく書く。
18:11 言えない光
書いた文字を見つめる。それは今日の夕方にいちばん近い言葉だった。
言わなかったこと。言えなかったこと。
奈緒に届かなかったもの。奈緒から向けられたもの。
全部が、その一行に少しずつ入っている気がした。
由香はノートを閉じる。
灯りを消す。
暗い部屋の中で、しばらく目を閉じても、「言えない光」という文字だけが残った。




