第五話 苦い自由と黄金の果実
自由とは、光り輝く黄金の果実だろうか。それとも、喉を焼く劇薬だろうか。
南イタリアの陽光の下、かつて一人の女性が掴み損ねた「選ばなかった人生」。
40年の時を経て、重い毛皮とダイヤの指輪に身を固めた彼女が、調香師・九条の元を訪れます。
差し出された一枚の古びた写真と、裏面に刻まれた『自由は、苦い』という言葉。
九条が導き出すのは、甘いノスタルジーではなく、過去の自分を抱きしめるための「苦美」なる真実でした。
カラン、と乾いたカウベルの音が、薄暗い調香室に響いた。
「九条さん……とおっしゃるのね。巷の噂で聞いたわ。どんな望みの香りでも、鏡のように映し出してくださると」
現れたのは、重厚な毛皮を纏い、指先には大粒のダイヤを光らせた婦人、名は美栄子。
有り余る富を誇示するような装いとは裏腹に、その瞳には、底の知れない空虚な色が宿っている。
彼女は、使い古された一枚の写真をカウンターに置いた。
「40年前……南イタリアの港町よ。
政略結婚から逃げ出し、一夏だけ自由を知った。
あの時、彼が私のために摘んでくれた
**『ある果実』**と、潮風の香りを……
もう一度だけ、嗅ぎたいの」
九条は無言で写真を取り上げた。
そこに写るのは、眩い陽光の下
浅黒い肌の青年と笑い合う若き日の夫人だ。
九条は眼鏡の奥の瞳を細め、写真の「影」の濃さをじっと見つめた。
助手の向日葵が写真の裏面に気づき、息を呑んだ。
そこには、震えるような筆致で一言だけ書き添えられていた。
『Libertà è amara.(自由は、苦い)』
「……やはりな」
九条は短く呟くと、無意識に自らの左手首を指先でなぞった。棚から硝子瓶を取り出し野性味のある果実、**「シトロン」**の精油を取り出した。
それは洗練とは程遠い、喉の奥を焼くような鋭い苦味を持つ素材だ。
「マダム。あなたが求めているのは
甘い恋の記憶などではない。
**『選ばなかった人生』**の味だ」
九条は、調合したばかりの液体を
ムエット(試香紙)に染ませ
彼女の鼻先に沿わした。
瞬間、夫人の顔から血の気が引いた。
「……っ!? これ、は……」
「この香りは、あなたが捨てた環境への
『裏切り』の匂い、 自由とは劇薬だ。
あの日、彼が投げつけた果実は、あなたの窓を割り 、部屋中にこの苦い匂いを充満 させたはずだ。」
夫人の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「……ええ。私は、泣きながらそれを拾うこともできずに、迎えの馬車に乗ったわ。
あの苦みは、私の恐怖心の証だったの」
調香室に重苦しい沈黙が流れる。
しかし、九条の手は止まらなかった。
彼はシトロンの刺すような刺激の中に
地中海の断崖に咲く
白い花**「オレンジブロッサム」と
温かな**「 蜜蝋」**を一滴ずつ落とした。
「マダム。苦味だけで終わる記憶は
ただの毒です。
自由とは苦む孤独に耐えることではない。
『自分の選択を、後から愛せるようになること』」
香水**『リベルタ・ドルチェ(甘美な自由)』**を、九条は彼女に手渡した。
最初は喉を焼くレモンの苦味が立ち上がるが、
直後、午後の陽だまりに抱かれるような柔らかな甘さが追いかけてくる。
「不思議ね……。痛みの後に、彼が追いかけて、
きて、優しい言葉を思い出すわ」
夫人は、ゆっくりと立ち上がった。彼女の表情からは空虚な色が消え、凛とした気品が戻っていた。
「九条さん、ありがとう。私、この香りを纏って もう一度イタリアへ行くわ。
今度は…逃げ出すためじゃなく
あの過去に感謝を伝えにね」
彼女は茶目っ気たっぷりに微笑むと、指から外したダイヤの指輪をカウンターに置いた。
「これは過去への授業料よ。気にしないで。」
夫人が去った後、窓の外では
燃えるようなイタリアの太陽とは対照的に
日本の穏やかな夕日が沈んでいく。
カウンターの上では
夫人が残していったダイヤモンドが
主を失って冷たく光っていた。
「九条さん。香水って、本当にタイムマシンみたいですね」
向日葵が呟くと、九条は指先に残ったシトロンの香りを静かに嗅ぎ、わずかに口角を上げた。
「……タイムマシンではない。
ただ、『今』という時間を肯定するための
一時の魔法と言う事さ。」
夫人が残していったダイヤモンドの指輪が、カウンターの上で冷ややかに光っている。
「……九条さん」
向日葵は、その指輪を見つめながら
ずっと気になっていたことを口にした。
「さっきの『自由は、苦い』っていう言葉。
……九条さんも、あんなふうに何かを捨てて、
この場所(調香室)を開いたんですか?」
九条は、洗浄したばかりのビーカーを磨く手を止めなかった。
「……なぜそう思う」
「だって、さっきのシトロン。
マダムには『裏切りの匂い』だって言いましたけ
ど、九条さんがその瓶を棚から出した時
なんだか、すごく懐かしそうな、
でも、自分を叱 るような顔をした気がして」
九条の手が、わずかに止まる。
彼は眼鏡を指先で押し上げると、窓の外
沈みゆく夕日に目を向けた。
「……自由とは、何かを選ぶことではない。
何かを捨て続けることだ」
「私はかつて、正しさを選ぶために
最も守るべきだった香りを一つ
壊したことがある」
「壊した?」
九条は、それ以上語ることを拒むように
背を向けて奥の資料室へと消えていった。
残された向日葵は、カウンターに置かれたシトロンの精油瓶をそっと手に取る。
ふたを開けると、先ほどとは違う、どこか「寂しい冬の果実」のような鋭い香りが鼻を抜けた。
向日葵は、彼が磨き上げたビーカーの輝きの中に、九条が隠し持っている「正しさという名の孤独」を見た気がした。
最後のまで、読んで頂き、ありがとうございます。作品の参考にしたいので、ブックマーク、評価
お願いします。
今エピソードでは、「自由」という言葉が持つ二面性を、南イタリアの特産である
「シトロン(ブッシュカン)」の香りに託して描きました。
今作のテーマは、鋭い苦味を持つ果実
**「シトロン」**です。
自由とは、輝かしい解放であると同時に
何かを切り捨てる「劇薬」のような側面も持っています。美栄子夫人が抱えてきた後悔を、九条は甘い慰めではなく、苦味を肯定する「魔法」で救い出しました。
それでも「今」を愛そうとする人々の背中を、
この香水『リベルタ・ドルチェ』が優しく押してくれることを願っています。




