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銀座のパフューマー 香りの記憶  作者: 昼間 ネル
第一章 香りの記憶。

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第四話:水商売の女 〜 偽りのヴェール、夜の帳

「香りは嘘をつきません。

ですが、人は香りに嘘をつかせようとする。


安っぽい香水を浴びるように纏い、過去の綻びを隠そうとする愚か者たち。


彼女が求めたのは、かつて自分を裏切った男の香りか、それとも……自分自身が捨て去った『純真』の残滓か。


今夜のお客様は、夜の蝶。その羽は、蜜ではなく毒に濡れていました。

深夜の事、カラン、と力ないカウベルの音が響きました。


店内に流れ込んできたのは

重苦しいほど甘い**「パチュリ」**とアルコール

そして冷たい夜風の匂い。


現れたのは、真っ赤なドレスに身を包み

派手な毛皮のコートを羽織った女。

名は、綾香

彼女はカウンターに座るなり

千鳥足でバッグから万札を雑然に

叩きつけました。


「……作って。あの人が、最後の日につけてた

香水。名前も知らない、でも、忘れられない匂い」


九条は試験管を磨きながら

目を離さず、淡々と答えます。


「名前も分からない液体の再現など、

当店の仕事ではありません。他を当たりなさい」


「お願いよ! あの匂いがないと

私、明日から笑えないの!

客に媚びを売ることも

シャンパンを開けることもできない!」


古びたカウンターを叩きつける。

綾香の叫びに、九条はゆっくりと顔を上げました。


彼の鋭い視線が、彼女の厚化粧の下にある

ひどく乾燥した肌と

微かに震える指先を捉えます。


「……。あなたがその男に抱かれていた時

鼻をついたのは『香水』だけではないはずだ。

その男の体温、脂、そして……隠しきれない殺意。それら全てを調合しても構わないと言うなら

引き受けましょう。」


暴かれる「夜の化けの皮」


九条は数種類の遮光瓶を取り出し

ムエット(試香紙)に次々と滴下していきます。


ベースに選んだのは

高価な**「サンダルウッド(白檀)」。

そこに、綾香が記憶しているという

爽やかな「ベルガモット」**を加えました。


「そう、これよ……。彼はいつも、この清潔な匂いがしてた。私を特別だって言ってくれた時も……」


うっとりと目を閉じる綾香。

しかし、九条の口角がわずかに上がります。


「……仕上げだ。あなたが目を逸らしている

『真実』を混ぜよう。」


九条が加えたのは、鉄のような**「メタリック」**な香料と、獣の脂を思わせる重苦しい

**「シベット」**。

そして、コンクリートのような冷たい匂い。


麗香の表情が、一瞬で凍りつきました。


「……なによ、これ。生臭い。汚い。

……嫌な匂い」


「これが、あなたの愛した男の正体だ。

彼は清潔な男などではない。

借金を背負い、返済に追われ

あなたから金を毟り取る機会を伺っていた。


この『鉄の匂い』は

彼が常に持ち歩いていたナイフ……

あるいは、金の亡者の匂いだ。」


「嘘よ……! 彼は優しかったわ!」


「香りは嘘をつかない

あなたが彼の首筋に顔を

埋めた時、ベルガモットの奥に

この『野獣の腐敗臭』を感じていたはずだ。」


あなたは、彼が詐欺師だと気づきながら

孤独と虚無に耐えきれず

自ら騙されに行った…違いますか?」


偽りの終焉、そして

麗香は力なく崩れ落ちました。


完璧に塗り固めたはずのメイクが

涙で煤黒く、溶け出していきます。


「……分かってたわよ。あいつが最低だってことくらい。でも……あの偽物の香りが、私の唯一の救いだったの!」


九条は、淀んだ灰色の液体が入った瓶を彼女の前に置きました。


「思い出を美化するのは勝手だが、この店に『嘘』は置かない。

……だが、もしあなたが明日から本当に笑いたいと言うのなら。この香りを、あなたに一滴だけ差し上げよう」


九条は、その悪臭の中に、ほんの僅かな**「ネロリ(オレンジの花)」**を加えました。


「これは……?」


「あなたの……故郷の庭で嗅いでいた

苦くも瑞々しい花の香りだ。

これは、男に依存し

自分を殺す前の……『あなた自身』の匂いだ。」


麗香はその瓶を震える手で受け取りました。


野獣ような男の体臭と、冷たい鉄の匂い。

その最下層に、ひっそりと息づく可憐な花の香り。

「……最低。…本当に、最低なパフューマーね!」


麗香はそう吐き捨てると、札束を残して店を

飛び出して行きました。


翌朝ー。


向日葵が店を掃除していると、昨夜の綾香が座っていた席に、口紅で書いてある。なぐり書きの

メモが残されていました。


『もう、高い香水は買わないわ。

石鹸の匂いだけで十分よ(ハートマーク)。』


向日葵は、くすりと笑いました。


「九条さん、また一人、

お客さんを怒らせて帰しましたね」


九条は、磨き上げられた試験管を光にかざしながら、無愛想に答えました。


「私は、鏡を差し出しただけだ。

……その鏡に映る自分が醜いからといって

鏡を責めるのはお門違いというものだ」

処方箋

Top: ベルガモット(虚飾の清潔感)

Middle: メタリック、シベット(ナイフの冷たさと野獣の欲)

Base: ネロリ、サンダルウッド(泥中の蓮のごとき自己と、静寂)


最後までお読みいただきありがとうございます。


「思い出は美化される」と言いますが、香りは時に言葉以上に残酷な真実を突きつけます。


九条が作ったのは、決して「いい匂い」ではありません。


むしろ、目を背けたくなるような、生臭く醜い男の正体そのものです。


けれど、その泥沼のような絶望の底に、彼女自身のルーツである花の香りを一滴だけ忍ばせる……。


それが、彼なりの不器用な救いだったのかもしれません。

ラストシーンで彼女が残した「石鹸の匂いで十分」という言葉に、彼女の新しい強さを感じていただければ幸いです。

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