表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀座のパフューマー 香りの記憶  作者: 昼間 ネル
第一章 香りの記憶。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/4

第三話 : 母親の香り〜蜂蜜香

第三話 **母親の香り〜蜂蜜香


香りは、嘘をつきません。

人は言葉で自分を飾り、表情で本心を隠しますが、その肌から立ち上る分子までは支配できない。


私の店「記憶の香り」を訪れる人々は、皆一様に「美しい思い出」を求めます。

しかし、思い出とは熟成されたワインのようなもので、そこには必ずおりが沈殿している。

その澱こそが、その人が生きた証、そのものの価値なのです。

今日訪れたのは、小さな背中に大きな喪失を背負った少年。

彼が求めたのは、温かな母の幻影でした。

私は彼に、あえて「真実の苦み」を差し出すことにしました。


昼の暖かい、静寂が支配する調香室に、小さな足音が響きました。


現れたのは、リュックを背負ったままの少年。

名は、陽斗はると


彼はカウンターにやっと顎が届くほどの背丈で、

握りしめた拳を震わせながら九条を見上げました。


「お母さんの……匂いを、作ってほしいんです」


九条は作業の手を止めず、冷徹なまでに平坦な声で返します。


「うちは玩具屋じゃない。思い出を、謎るだけの安っぽい芳香剤なら、他を当たりなさい。」


「……違う。安っぽくないもん!」


陽斗はリュックから、クシャクシャになった、

バンダナを取り出しました。


「お母さんが入院する前、いつもしてた匂い。

お花みたいで、

でも……お日様みたいにポカポカして、

それがあれば、僕、一人で寝られるから……」


九条は、そのバンダナをピンセットで受け取り、鼻先へ寄せました。


わずかに残る、洗剤の残り香と、微かなバニラの甘み。


しかし、九条の眉がピクリと動きます。彼の鼻は、少年の言葉にはない**「異物」**を嗅ぎ取っていました。


「理想の母」というフィルター

九条は無言で、いくつかの遮光瓶を手に取りました。


「君の言う『お母さんの匂い』を調合しよう。


……だが、それは君を深く傷つけるかもしれないぞ」


「……? 傷つく? なんで?」


九条は、甘い「ジャスミン」と

包み込むような

「ミルク」の香料を混ぜ合わせます。


陽斗の瞳が期待に輝きました。


「そう、これ! この匂い……!」


しかし、九条の手は止まりません。


彼はそこに、不釣り合いなほど苦く、

焦げたような**「タール」の匂いと、

刺すような「金属」**の香りを数滴、落としました。


「うわっ……! なにこれ、臭いよ!」

陽斗は鼻を覆い、後ずさりしました。


暴かれる「不純物」「これが真実だ」

九条は、淀んだ液体が揺れる試験管を突きつけます。


「君の母親は、君の前では『お花とお日様』でいよ うと必死だったのだ。

だが、彼女が一人で台所に立っていた時、あるいは君が寝静まった後……彼女を包んでいたのは、

**『電子タバコ』と『ストレスによる胃の荒れ』、

そして 『湿った涙』**の匂いだ」


「……え……?」


「母親は聖女じゃない。君の父親と別れ、

生活に疲れ

将来に怯え

ニコチンで神経を鎮めなければ、

君を抱きしめる 、 事さえできなかった。

この苦悩の匂いこそが、彼女が生きていた証だ」


陽斗の顔から笑みが消えます。


優しいお母さんが、隠れて煙草を吸っていたの?

苦しい思いをしていた?


少年の抱いていた「綺麗な記憶」が、

九条の言葉によって無残に解体されていきます。


「この匂いが嫌いなら、

君は母親を愛していたんじゃない。

君に都合の良い『お母さん』を愛して

いただけだ。

……帰りなさい。君に売る香りは無いのだよ。」


陽斗は立ち尽くし

目の前のムエット(試香紙)を震える手で、

奪い取るように掴みました。


「……思い出した。

お母さん、

時々……ベランダで一人で背中を丸めてた。

僕が呼ぶと、慌てて何かを隠して、笑ってた…」


陽斗の目から、大粒の涙がこぼれました。


「これ、お母さんの匂いだ。

……頑張ってた、お母さんの匂いだ」


九条の冷徹な瞳に、わずかな温度が宿ります。


「……気づいたか。ならば、仕上げだ」


九条は、その不快な香りに、ほんの一滴だけ、

**「ハチミツ」**の香料を加えました。


「これは、彼女が君の寝顔を見て

最後に少しだけ 、 微笑んだ時の香りだ。

苦しみの中に、君という愛があった。

……これが君の母親、そのものだ」


陽斗が小さな小瓶を大切に抱えて店を出た後。


カウンターの隅で見ていた向日葵が、大きくため息をつきました。


「もう……小学生にまであんな容赦ないこと言って。トラウマになったらどうするんですか?」


九条は再び試験管の洗浄を始めました。


「真実を知らぬままの愛など、ただの空想だ。

……あの子は今日、ようやく母親と再会できたんだ」


「……で、あの子から代金は取ったんですか?」


九条は

カウンターに置かれた

「100円玉3枚と、図書カード」

を指で示しました。


「時価だと言ったろう。

今日の私には

それが何十万ドルよりも価値がある。」


「ふーん……。やっぱり、九条さん。子供にも甘いんですね」


九条は答えず、ただ新しい試験管を、乾かした頃

綺麗な夕日のコントラストが部屋を包みました。

少年が差し出した三百円と、使い古された図書カード。

それは彼が「母親の苦しみ」を丸ごと背負って生きていくと決めた、覚悟の対価。

「綺麗な思い出」は、人を立ち止まらせる。

だが、「泥臭い真実」は、人を前へと歩かせる。

彼がいつかこの瓶を使い切る頃、その手には彼自身の人生が放つ、新しい香りが宿っているはずだ。


第3話「母親の香り〜蜂蜜香」を最後までお読みいただき、ありがとうございます。

今回のテーマは**「記憶の浄化」**でした。

私たちが抱く大切な人の思い出は、時間が経つにつれて美しく補正され、角が取れて丸くなっていくものです。しかし、店主・九条が提示するのは、あえてその「美しさ」を壊すような、生々しく、時に残酷な真実の断片でした。

少年のハルトが求めたのは、自分を優しく包んでくれる「聖母」の香り。

けれど、九条が調合したのは、一人の女性として、母として、必死に生活の重みに耐えていた「人間」の香りです。

最後、九条が受け取った「300円と図書カード」。

彼は冷徹な合理主義者を気取っていますが、その実は、誰よりも「想いの重さ」を知る、不器用な調香師なのかもしれません。

夕暮れに染まる「記憶の香り」の店内で

また次のお話でお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ