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銀座のパフューマー 香りの記憶  作者: 昼間 ネル
第三章「黒蠍(サソリ)・追跡編」

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第24話 横浜の調香室

かつて、そこには子供たちの笑い声と、木のおもちゃの乾いた匂いがあった。

しかし、運命の歯車は音を立てて逆回転を始める。

九条と向日葵が辿り着いたのは、彼女の郷愁が眠る場所……ではなく、狂気によって塗り替えられた「毒の聖域」だった。

白昼の横浜を切り裂く白いポルシェ。静寂の地下室で回り始める蓄音機。

「香りは記憶の扉を開く鍵だ。だが、その扉の先が地獄ではないと誰が断言できる?」

調香師・九条の、血を流してでも守り抜くべき「真実」の香りが、ここにある。

メタリックなサングラスをかけた九条は、愛車の白いポルシェで首都高を疾走していた。助手席には、不安げな表情の向日葵。


行き先は、彼女の実家がある横浜だ。

「ブルルォォォー!!」

水平対向エンジンの咆哮がトンネルに響く。


「こっちは一度署に戻って調べてくる。九条さんは、向日葵ちゃんの実家へ行ってくれ!」


無線から漏れる近藤の声に、九条は短く応えた。

「分かった。行くぞ、向日葵」

「はい、九条さん……」

横浜の古びた商店街。その煤けた風景に場違いなほど白いポルシェが滑り込む。

キィッ! と短いタイヤの摩擦音を立てて車が止まった。


「昔の実家の店先に、キャラクターの石像があるんです」

向日葵の言葉に、九条が鋭い視線を向ける。

「ふん……あれだな」

ガチャ、バタン。


車を降りた九条の身体には、目に見えない緊張が走っていた。周囲を警戒しながら、背後の向日葵に命じる。

「向日葵、下がるな。私の風上に…」


目の前に佇むのは、かつて「スコーピオ(蠍座)」という看板を掲げていたであろう小さな玩具店だ。だが、シャッターの降りたその店に往時の面影はない。


新たに掲げられた看板には、「逆さまの三日月と蠍」の不吉なマークが刻まれていた。店先のキャラクター像だけが、虚ろな目で変わり果てた商店街を見守っている。


「新しい店に、変わってる……」


向日葵が二階の窓を指差した。隙間から漏れ出すのは温かな生活の灯ではなく、実験室を思わせる冷徹で青白い光だった。


九条は迷わず、古びた扉を引き開けた。

キィィ……。


「お邪魔しま〜す!」


向日葵の震える声が店内に響く。

奥には磨き上げられたカウンターがあり、棚には整然と香水の瓶が並んでいた。


「いらっしゃいませ」


カウンター越しの店員が、深々と丁寧に頭を下げる。九条はすぐさま歩み寄り、冷ややかな声を浴びせた。


「ここは昔、玩具店だったはずだが?」


「すみません、私はアルバイトですので分かりかねます。オーナーなら、何か知っているはずですが……」


その時、九条の視線が部屋の左奥、地下へと続く階段を捉えた。


「店員さん、すみません。地下へ行っても良いですか? 私、ここに住んでいたので、少し調べさせてほしいんです」


向日葵が懇願するように言うと、店員は困惑した表情を浮かべる。



「え? それは……」


その瞬間、九条の手が動いた。懐から取り出したムエット(試香紙)を、店員の鼻先へ素早く突きつける。

「向日葵、鼻をふさげ!」

「えっ……!?」


店員は抵抗する間もなく、力なくその場に崩れ落ちた。


「よし、行くぞ」


九条は倒れた店員を一瞥もせず、地下への階段を駆け下りた。


「これが普通のおもちゃ屋の地下室だと? 冗談はやめてもらおう」


九条の言葉に、向日葵は息を呑んだ。

棚の一角には大量の小瓶が並び、そのすべてにあの**


「天秤を持つ蠍」**のラベルが貼られていた。

「猛毒のハミング」。

「九条先生……あそこ。おじいちゃんの作業台に、何か置いてあります」


向日葵が指差した先には、一台の古い蓄音機が鎮座していた。


九条が近づくと、センサーが反応したかのように自動で針が落ちる。


ジリジリというノイズに混じって響いてきたのは、不協和音のような子守唄。

それと同時に、天井のダクトから紫色の煙が静かに噴出し始めた。


九条は瞬時にその煙の正体、微かな臭いを見抜いた。「ジギタリス抽出液の霧化。心停止を誘発する、即効性の神経毒だ」


煙の向こう側、作業台の上に一通の手紙と一つの香水瓶が置かれていた。九条はパリチェを含んだ、ハンカチを口に当て、その瓶を手に取る。底には鋭利な刃物で刻まれたような文字があった。


『拝啓、光を失った野良犬へ。君が愛した助手は、お前の最高傑作の「器」だ』

「……器だと?」


九条の背後に、巨大な影が落ちる。


闇の中から、向日葵と全く同じ背格好をした「何か」が、ゆっくりと向かってくる。

精巧に作られた向日葵の姿のブリキ人形。


ジリジリ、ガシャン!!


人形の口が開き、録音された敵の歪んだ声がラボに響き渡る。


『九条。君が今吸い込んでいるのは、君の祖父がかつて封印した「最後の一滴」。思い出せ、九条家の血に流れる、毒を』


九条の視界が、ぐにゃりと歪む。


パチュリの「現実の錨」さえも突き破る、

強烈な**「過去の真相」**。


「先生! 先生、しっかりしてください!」


駆け寄る向日葵。しかし、朦朧とする九条の目に映る彼女の背後では、巨大なサソリの幻影が鎌首をもたげていた。


「……面白い。私の鼻を封じ、過去で窒息させるつもりか」


九条は、自らの掌を、バタフライナイフで切り裂いた。

鋭い痛みが脳を貫く。滴る血の鉄錆の匂いが、毒の甘美な誘惑を打ち消した。


「向日葵! その棚の3番目にある、希釈用エタノールをこっちへ投げろ! この店ごと、奴の『悪趣味な思い出』を洗い流してやる!」

第24話をお読みいただき、ありがとうございます。

今回は「記憶と毒」をテーマに据えました。

向日葵にとっての安らぎの地であるはずの実家が、九条にとっては因縁の対決の場となる。この対比を描くことで、二人の関係性が単なる師弟以上の「運命共同体」へと変化していく様を表現したかったポイントです。

作中に登場した「ジギタリス」や「パチュリ」といった香料の対比も、彼らの置かれた極限状態を象徴しています。自らの血の匂いで毒を上書きする九条の覚悟は、執筆していても非常に力が入るシーンでした。

事件の真相は、紫の煙の向こう側であなたを待っています。

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