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銀座のパフューマー 香りの記憶  作者: 昼間 ネル
第一章 香りの記憶。

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銀座のパフューマー、あの日の香りの記憶

まえがき:記憶の蒸留

人は、目に見えるものや耳に聞こえる言葉で自分を飾り立てる。

けれど、鼻腔をくすぐる「香り」だけは、嘘をつけない。

それは脳の最も深い場所に直接触れ、しまい込んだはずの傷跡や、忘れたふりをしていた体温を、一瞬にして引きずり出す。

銀座の喧騒を離れた路地裏。

看板の小さい香水専門店『エテラ』の扉を開ける者は、皆、美しい思い出を求めてやってくる。

だが、店主・九条ナギが差し出すのは、甘い幻想ではない。

これは、香りに隠された**「真実」**を暴く、冷徹で慈悲深い調香師の記録である。

第一話:琥珀色の嘘


 銀座四丁目の喧騒から三本ほど裏に入ると、

街灯の届かない路地がある。


そこに、看板の小さい香水専門店『エテラ』はひっそりと佇んでいた。


「いらっしゃいませ。当店では、既製品は扱っておりません」


 店主の名は、九条ナギ世界でも稀なパフューマーである。


古いテーブルカウンターに立つ店主の姿があった。

その姿は、眼鏡を首にぶら下げ、瞳は純粋の輝きで、客の心を読み解き放つ。


 訪れたのは、仕立てのいいスーツを着た、

初老の男性だった。


震える手でカウンターに置かれたのは、

古びたハンカチ。


「これを……この香りを、再現してほしいんだ。

妻が、亡くなる直前までつけていた香りを」


 九条は手袋をはめ

慎重にその布を鼻に近づける。数秒の沈黙。


店内に漂うベースノートの白檀が、

男の緊張をなだめるように揺れた。


「……無理ですね」


 九条の切り捨てたような言葉に、

男が顔を赤くなる。


「金ならいくらでも払う! 腕は確かだと聞いてきたんだ」


「技術の問題ではありません。

この香りの核にあるのは、市販の香料ではない。

……**『後悔』**の匂い」

 

九条は椅子を立ち

壁一面に並んだ数百の硝子瓶から

一つを手に取った。


「奥様は、本当にこの香りを好んでつけていたのですか? それとも、あなたがそう思い込みたいだけでは?」


 男の肩がびくりと跳ねる。


九条の仕事はここからだ。


香りは記憶の扉を開ける鍵。

彼は、依頼人が隠している

「真実の記憶」を調合し、現実を突きつける――。


レシピの無い記憶。



九条は、手に持った小瓶の蓋をゆっくりと開けた。


そこから漂ったのは、雨上がりのアスファルトと、少しの焦げた砂糖が混ざったような、およそ香水とは呼べない奇妙な匂いだった。


「……なっ、なんだ。この不快な匂いは」


「あなたが無意識に求めている、奥様との最後の記憶です」


九条はスポイトを取り出し、試験管の中で液体を混ぜ合わせる。


「彼女のハンカチから香ったのは、

高級なジャスミンでもバラでもない……。

入院生活の消毒液、それをごまかすための安価な石鹸、そして……あなたが彼女の病室に持ち込んだ、見舞いのメロンの甘ったるい死臭だ……」


男は絶句し、膝をついた。


「私は……私は、ちゃんと彼女を見てやれんかった、それなのに、美しい記憶だけを香りに閉じ込めようとして……」


「美化された記憶は、ただの後悔です。


私が作るのは、明日を生きるための『現実』だ」


九条は、新しく調合した小さなアトマイザーを

男に突き出した。


「これは、彼女が本当に愛していた庭の

『くちなし』と、

あなたが彼女の手を握った時に感じた

『体温』の匂いです。

後悔に溺れたくなったら、それを使いなさい。

ただし、使い切る頃には、前を向いてもらわなければ困ります。」


男は震える手でそれを受け取り、

数百万円する瓶を買い。


深々と頭を下げて店を去っていった。


一連のやり取りを、店の奥で見ていた助手の少女・向日葵ひまわりが、呆れたように溜息をつく。


「九条さん、またあんなキツい言い方して。

商売あがったりですよ」


「……向日葵、次のお客様の予約は何時だ」


「次は一時間後です。今度は若い女性で、『忘れられない初恋の人の匂い』を再現してほしいって」


九条は眼鏡を指先で押し上げた。


「初恋か。……それはまた、一番厄介で、一番『嘘』が混じりやすいオーダーだな」

第一話「琥珀色の嘘」をお読みいただき、ありがとうございます。評価、ブックマークお願いします。


「亡き妻の香りを再現してほしい」という、一見すれば美談のような依頼。しかし、九条ナギはその裏側に潜む「自己満足」と「後悔」という、およそ香水には似つかわしくない不純物を嗅ぎ取ってしまいました。

琥珀アンバーという香料は、本来、長い年月を経て固まった樹脂の化石を思わせる、温かくも重厚な香りです。けれど、その中に閉じ込められた不純物こそが、その香りに深みを与えることもあります。

九条が最後に渡したアトマイザーには、男が直視したくなかった「死臭」と、それでも確かに存在した「体温」の両方が溶け込んでいます。

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