十九話「人生を動かす一食」
平日の早朝。
まだ薄暗いアーケードに、ダダダダダッとシャッターが開く音が重なり始める。
それは静かな夜明けを告げる、低音の打楽器のようだった。
今日はデリバリーサービス正式リリースの初日。
「龍華」の厨房では、巨大な中華鍋が火にかけられ、青白い炎が唸りを上げる。
隣の和食居酒屋では、出汁の香りが朝の冷たい空気を塗り替えていく。
経済同好会の部室。
僕たちは、数台のノートPCが発する低いファンの中、静かにモニターを見つめていた。
商工会の会議室でも、幹部たちがまだ見ぬ楽譜を前に、落ち着かない様子で時計を仰ぎ見ている。
誰もいないステージに、奏者たちが静かに位置につく。
ひりつくような緊張感が、街全体を支配していた。
午前10時30分。
オフィスへの個別配送予約の締め切り。
一分後、静寂を破るように街のあちこちで「ジリジリッ」とFAXの印刷音が重なり始めた。
最初は一店舗、それが次々と連鎖し、商店街全体が鳴り止まないスタッカートを奏で始める。
同好会のモニターには、リアルタイムの集計データが滝のように流れ落ちていた。
「……予約確定数、目標の100個を大幅に超過」
雪村先輩の声が、わずかに上擦る。
「現在、目標の310%。予約確定だ」
「「「よしっ!」」」
部室に、そして商工会の会議室に、金管楽器の咆哮のような歓声が上がった。
かつては「前日の予約が伸びない」と不安げだった会長や事務局長も、今は啞然としたまま、止まらない注文の奔流に立ち尽くしていた。
だが、熱狂に沸くモニターの向こう側、現場のテンポはさらに加速する。
「――まだ喜ぶ時間じゃない」
龍華の厨房で、店主の娘・照葉が鋭い声を飛ばした。
指揮者のように現場を睨み、彼女は気合を入れる。
「リピートされなきゃこの勢いもすべて無駄になる…」
その姿をじっと見ていた店主の父が声を掛ける。
「大丈夫だ。お前の味はまだまだ半端もんだが、きっとお客さんは受け入れてくれる」
狂想曲のような喧騒が始まった。
「米が足りない!」
「うちの炊き立てを持ってけ!」
「箱が切れた!」
「和菓子屋に予備がある、今運ぶ!」
普段はこだわりを競い合っている店主たちが、
垣根を越え、一つの巨大な厨房として機能し始める。
怒号と湯気、そして包丁の音。
それは泥臭くも美しい、再生への間奏曲だった。
・・・
正午過ぎ。ビジネス街のオフィスも一息つく昼休み。
32歳で課長に抜擢された菅原は、積み上がった資料を前に深く溜息をついた。
慣れない管理職、部下への配慮、そして冷え切った家庭関係。
いつしか妻は弁当を作ってくれなくなり、彼の昼食はいつも味気ないコンビニ飯で済まされていた。
「課長、これ……今日から始まったデリバリーなんです。よかったら」
部下が差し出したのは、中華弁当だった。
「ああ、ありがとう」
菅原は短く答え、これ、とお釣りを渡そうとすると既に部下はいなくなっていた。
誰もいない灯りの消えた課長席で蓋を開ける。
週末には趣味で本格的な料理を作る菅原の舌は、人一倍肥えていた。
一口、麻婆豆腐を運ぶ。
(……火力が少し強いな。豆腐の角が崩れている)
未熟さを見抜く。
だが、その後に追いかけてきたのは、脂と旨味。元気の出る味だった。
副菜の煮物を口にする。なんだか、楽しくなってくる。
食べているだけで、作り手が必死に、一生懸命にこの一箱を完成させたことが伝わってくる味だ。
(……ああ。うまいな、これ)
気が付くと、資料の上に涙が零れていた。
昼休みの誰もいない職場、課長席についてからなんとなく感じていた孤立感。
家族とご飯を食べる機会も減っていき、食事で楽しいと感じたのは久しぶりだった。
ふと、仕事の資料に目を移す。
(俺…こんなに楽しく仕事やってたかな)
むしゃくしゃして、資料にペンで×をつける。
ふと×から外れた一つの言葉が目に入る。
『お客様に感動と笑顔を』
とりあえず資料を形にするためになんとなく書いた特徴もない押し文句。
(でも、こういうことだよな)
菅原はシャッとその言葉に線を引き、少し考え、その横に力強く書き込む。
『お客様に弾むような気持ちと忘れられない感動を』
「……よし」
菅原の脳裏に、死んでいたはずのアイデアが次々と溢れ出す。
「課長…どうでしたかお弁当…?少しは落ち着いてご飯でも食べられればと思ったのですが」
気が付くと弁当を差し入れしてくれた部下が立っていた。
(心配もかけてしまっていたんだな)
「ありがとう、とても美味かった」
菅原は心をパリッと入れ替えて言い放つ。
「それとすまん!午後からのプロジェクトの方向性説明の打合せだが無しにさせてくれ。代わりにこのアイディアで、今後のプロジェクトの方向性をみんなと話し合いたい」
「……はいっ!」
オフィスに、明るい返音が響く。
デスクの上に残されたのは、隅々まで綺麗に空になった弁当箱だった。
米粒一つ残っていないその器は、商店街という名の楽団が、持てる全ての熱量を注ぎ込んで奏でた、あまりに鮮やかで力強いフィナーレの証だった。
「……さて」
菅原は、空になった箱を丁寧に片付けると、力強く立ち上がった。
腹の底から湧き上がるような熱が、澱んでいた思考をクリアに書き換えていく。
たった一食の弁当。
それは、彼の午後も、その先の人生も、いつまでも心地よく響いていくようだった。




