ごめんね、コタロウ
ある日、僕は犬になった
その日、僕はいつもと変わらずスマートフォンをいじりながら、渋々、犬の散歩に出ていた。リードを握る手はどこか頼りなく、隣を歩くコタロウ――僕が数ヶ月前に拾ってきた雑種の犬――も、その緩さに合わせてか、だらだらと僕の足元を歩いている。 丘の上の公園は、夏の日差しを浴びて、まぶしいほどに緑が輝いていた。**強い日差しが肌を刺すように照りつけ、アスファルトからはむわっと熱気が立ち上っていた。**しかし、僕の心はそんな景色とは裏腹に、どんよりと曇っていた。正直なところ、コタロウの世話は面倒でしかなかった。拾ってきたばかりの頃こそ物珍しさから構ったものの、すぐに飽きてしまい、散歩も餌やりも、すべて母さん任せになっていたのだ。今日の散歩だって、母さんの「あんたが拾ってきたんでしょ!」という小言に根負けしてのことだった。
公園の一番奥には、断崖絶壁になった場所がある。柵で囲われているとはいえ、下を覗き込めば、ゾッとするような高さだ。コタロウは急にその崖の方向へ駆け出した。いつもならそんなことをしないのに、その日は妙に興奮しているようだった。 「おい、コタロウ!どこ行くんだよ!」 僕は慌ててリードを引っ張った。しかし、コタロウの力は想像以上に強く、僕の体はあっという間にバランスを崩した。次の瞬間、足元が宙に浮く感覚。 ――落ちる! 視界がぐにゃりと歪み、全身に衝撃が走った。生ぬるい風が頬を叩き、土と草の混じった匂いが鼻腔を満たした。
どれくらいの時間が経っただろうか。僕はゆっくりと目を開けた。体中が痛い。しかし、それ以上に、何かがおかしい。視界が低い。そして、目の前には……僕の足?いや、違う。なんだか、ずいぶんと毛深い。鼻先には乾いた土の匂いがこびりつき、耳には遠くで車の走る微かな音が聞こえる。 混乱しながら、ゆっくりと顔を上げた。そこには、心配そうな顔で僕を覗き込む少年がいた。僕とよく似た顔立ち。その少年の隣には、僕のスマホが落ちている。 そして、僕の目の前には……ふさふさとした茶色い毛並み。尻尾が、揺れている。 僕は、がばっと自分の手を見ようとした。しかし、そこにあったのは、肉球のついた、小さな前足だった。ざらりとした肉球の感触が、今まで触れたことのない異質な現実を突きつける。 ――嘘だろ? 僕は、言葉にならない声をあげた。しかし、それは「クゥーン」という、か細い鳴き声になって響いた。 理解するのに、そう時間はかからなかった。僕は、あの崖から落ちて、コタロウと入れ替わってしまったのだ。 あの時、ろくに世話もせず、面倒だとばかり思っていたコタロウ。彼の視線で、世界はこんなにも違って見えるものなのか。これはきっと、僕がコタロウにしてきたことへの、罰なのだろうか。 僕だったはずの少年が、僕を覗き込みながら言った。 「コタロウ、大丈夫か?」 その声は、僕が散歩の時にいつもコタロウに言っていた、ぞんざいな声だった。
犬になった僕の生活
信じられない現実に打ちのめされながらも、僕――犬になった僕は、家に連れて帰られた。かつて僕だった少年は、何食わぬ顔で僕のリードを引いている。彼の視線は、僕に向けられることはほとんどなかった。家に着くと、彼は僕を庭につないだ。 「コタロウ、ここにいなさい。大人しくしてろよ。」 その声は、かつて僕がコタロウに言っていた言葉そのままだった。僕はただ、クゥーンと情けない声を出すことしかできない。
日が傾き始め、お腹が空いてきた。いつもならこの時間には、食欲をそそる匂いが漂ってくるはずだ。しかし、一向に餌が運ばれてくる気配はない。庭の隅に置かれた餌入れは空っぽのままだ。**喉の奥がカラカラと音を立てるほど乾き、舌が上顎にへばりつくようだ。**僕は水入れに顔を突っ込んだ。それでも、少ししか残っていない。 「ねえ、コタロウにお水あげたの?」母さんの声が聞こえる。「あー、まだいいや。後ででしょ。」かつての僕の声が返ってくる。 僕はあの時、コタロウがどんな気持ちだったのか、嫌というほど思い知らされた。水も、餌も、与えられるのが当たり前だと思っていた。でも、それは誰かが世話をしてくれていたからこそだったのだ。自分の無責任さが、今、僕自身を苦しめている。
食卓から漂う香ばしい匂いに、思わず鼻をひくつかせた。かつて僕だった少年は、大好物の唐揚げを頬張っている。僕が人間だった頃なら、当たり前のように食卓を囲んでいたはずの光景だ。しかし、今はどんなに願っても、その一切れさえ僕の口に入ることはない。彼は時折、僕のほうに目をやるが、その視線には何の感情もこもっていない。「コタロウ、お座り。お前のはこれだろ?」差し出されたのは、いつもと同じ、味気ないドッグフード。口に広がるのは、何のうまみもない、乾いた感触だけだ。なぜ、僕の皿だけこんなにも質素なんだろう。以前の僕は、コタロウの食事に何の疑問も抱かなかった。あの日、こっそりテーブルの下に落としてやったソーセージの一切れが、どれほど彼を喜ばせたか、今なら痛いほどわかる。
夜になり、庭はすっかり冷え込んだ。**草の葉には朝露のような冷たさがまとわりつき、風が吹くたびに体の毛が逆立つ。**震える体で、僕は犬小屋に身を寄せた。いつもなら、ふかふかの毛布にくるまって眠っていたのに。犬小屋は狭く、冷たい。ここが、コタロウがいつも寝ていた場所。僕は、彼に暖かい寝床を用意してあげることさえしなかった。この家に来たばかりの頃、コタロウは何度か夜中に僕の部屋のドアをカリカリと引っ掻いたことがあった。あの時は「うるさいな、寝てろよ!」と怒鳴りつけ、無視した。きっと、不安で寂しかったんだろう。温かい寝床も、隣に寄り添ってくれる存在も、彼にはなかったのだ。
翌日になっても、僕の境遇は変わらなかった。かつて僕だった少年は、朝食を済ませると、すぐにゲームを始めた。僕の存在など、まるで眼中にないかのようだ。たまに僕のほうを見ては、「うるさいな、コタロウ!」と、ため息交じりに言い放つ。僕が近づいて鼻を鳴らすたびに、彼は眉をひそめ、「構うなよ、今忙しいんだから!」と苛立った声を出す。僕が人間だった頃、コタロウが僕の足元に体をすり寄せても、ほとんど気づくことさえなかった。彼が何を求めていたのか、どれほど寂しかったのか、今なら痛いほどわかる。彼の気持ちを理解しようとすらしなかった自分を、心底呪いたい。
散歩と、見えないリード
散歩に連れて行かれるのは、夕方になってから。それも、まるで義務をこなすかのように、ただリードを引いて歩くだけだった。僕が地面の新しい匂いに鼻を近づけ、懸命に情報収集しようとするたびに、リードは無慈悲に引っ張られる。「早くしろよ、コタロウ。いつまでやってんだよ。」かつての僕の声だ。コタロウが立ち止まるたびに、僕は面倒くさそうにリードを引いていた。彼にとって、散歩は外界との唯一の接点だったのに、僕は彼の大切な自由時間を奪っていたのだ。**アスファルトのざらつく感触が肉球に直接伝わり、歩くたびに熱がじんわりと染み込んでくる。**以前は、彼が痛がって足を上げても、ただ「どうしたんだ?」と首を傾げるだけだった。
公園で他の犬に出会っても、かつての僕だった少年は、僕をすぐに遠ざけた。あの時、僕が「コタロウは他の犬が苦手だから」と勝手に決めつけていたのは、ただ僕が社交的な手間を省きたかっただけだったと気づく。本当は、他の犬と遊びたかったんだろうか?僕が犬になって初めて知る、小さな世界の真実に、胸が締め付けられる。他の犬たちが、はしゃぐ飼い主の周りを跳ね回り、じゃれつく姿を見るたびに、胸の奥がチクリと痛んだ。
このまま、僕は一生、犬として過ごしていくのだろうか。そんな絶望感が、僕の心を支配し始めた。あの空き地でコタロウを拾ったあの日から、僕の人生は大きく狂い始めていたのだ。それは罰だった。僕がコタロウにしてきた無関心と無責任への、あまりにも重い罰。そして、それは僕がかつてコタロウという命に対して、どれほどいい加減だったかを知る、唯一の方法だったのかもしれない。僕の目には、かつて見えなかったコタロウの切ない瞳が、今、はっきりと映っている。
雨の夜、守るべきもの
ある夜、激しい雷雨が僕たちの町を襲った。稲光が空を裂き、轟音が耳を劈く。**湿った風が犬小屋の隙間から吹き込み、冷たい雨粒が僕の毛皮を濡らしていく。**庭の犬小屋は雨風に晒され、僕は震えが止まらなかった。かつての僕は、雷を怖がるコタロウを「なんだ、またかよ」と鬱陶しそうに見ていただけだった。この身をもって、初めてその恐怖を味わった。
ふと、犬小屋の入り口に、小さな影が立った。かつて僕だった少年、つまり今のコタロウだ。彼は傘もささずに、雨に打たれながら僕の元に駆け寄ってきた。少年は犬小屋の狭い入り口から、震える僕に手を伸ばした。 「コタロウ、大丈夫か?怖いんだろ?」 その声は、かつて僕が聞いていたぞんざいなものではなく、心から心配するような、優しい響きを帯びていた。少年は僕の頭をゆっくりと撫で、そのまま濡れた体で、犬小屋の入り口に身を寄せ、僕を雨風から庇うように座り込んだ。彼の体は小さく、頼りなく見えたけれど、その背中はまるで盾のように僕を守ってくれていた。雨の冷たさも、雷の音も、彼の温もりと存在で少しだけ和らぐように感じた。彼の濡れたTシャツから、懐かしい僕自身の匂いがした。
その瞬間、僕の脳裏に、いくつもの光景がフラッシュバックした。
雨の日の散歩で、僕の足元に体を寄せて歩くコタロウ。水たまりを避けようとする僕の体を、リードの緩みで自然と庇ってくれていた。夜道で、不審な物音に敏感に反応し、僕の前に立ちはだかったコタロウ。僕を守るように吠え、僕が「うるさい!」と叱っても、その警戒を緩めなかった。僕が風邪をひいて寝込んだ時、母さんが食事を運んできてくれる間、じっと傍らで寄り添い、僕の額に触れようとする僕の手を、くんくんっと匂いを嗅いだ後、そっと舐めてくれていた。ソファに寝転がっていると、そっと近づいてきて、頭を僕の足元に乗せてきたり、時々、フンフンと鼻を鳴らしては、僕の顔をじっと見つめたりした。あの、まっすぐな瞳。コタロウはいつも、僕を静かに、そして確かに守ってくれていたのだ。僕が無関心だった間も、彼は僕の「飼い犬」として、その役割を全うしてくれていた。
「コタロウ……!」 僕の口から、か細い鳴き声が漏れた。それは、感謝と、そして拭いきれない後悔の響きだった。この小さな体で、僕を守ろうとする少年の姿を見て、僕は今まで自分がどれほど愚かだったか、どれほど彼の愛情を踏みにじっていたかを痛感した。喉の奥から、熱いものがこみ上げてくる。犬の目からは涙が出ないことを知っていても、僕の心は、とめどなく泣いていた。僕は、彼を助けたい。彼が、かつての僕のような無責任な人間になってしまうのは嫌だ。
心からの後悔と、彼を思いやる純粋な気持ちが、僕の体の中に温かい光となって満ちていく。稲光が再び空を裂き、轟音が響き渡ったその刹那、僕は視界が歪むのを感じた。
目覚め、そして誓い
次に目を開けた時、僕の視界は高かった。そして、目の前には、泥だらけになったコタロウが、心配そうな顔で僕を見上げていた。僕の腕に、力が戻っている。恐る恐る自分の手を見れば、そこには見慣れた人間の手が、確かにあった。
「コタロウ……!」 僕は、彼を抱きしめた。その温かい毛並みは、確かに僕が知っているコタロウのものだった。彼の体からは、雨と土の匂いが混じった、懐かしい獣の匂いがした。小さな振動が僕の腕に伝わり、その温かさが僕の心に染み渡る。雷雨はすっかり止み、空には星が輝いていた。 僕は、あの犬小屋で僕を守ってくれた少年の面影をコタロウの中に見出し、涙が止まらなかった。とめどなく流れる涙がコタロウの毛皮を濡らし、温かい滴となって染み込んでいく。 「コタロウ、ごめん。本当にごめん…」 僕は、これまでの無責任な自分を悔やみ、心から謝罪した。コタロウは、僕の顔をくんくんっと匂いを嗅ぎ、嬉しそうに尻尾をブンブンっと振っている。そして、僕の頬をペロペロっと、まるで「もう大丈夫だよ」とでも言うように舐めてくれた。その温かい舌の感触が、僕の罪悪感を優しく洗い流してくれるようだった。僕が立ち上がると、コタロウは、まるで僕の足にくっつくように、尻尾を大きく振りながら、僕の周りをくるくると回った。
あの雨の夜、犬小屋で僕を守ろうとしたのは、僕の魂が入った「少年」ではなく、コタロウ自身の魂が宿った僕の体だったのかもしれない。僕がコタロウの身になった時と同じように、コタロウもまた、僕の身になって、僕に「守る」ことの意味を教えてくれたのだ。
僕は、固く誓った。これからは、コタロウをただの「飼い犬」としてではなく、大切な「家族」として、彼が幸せに過ごせるように、全身全霊で守り抜くと。散歩も、食事も、遊びも、そして何よりも、彼の小さな心の声に耳を傾けることを。
あの夜、僕は確かに犬になった。そして、犬になったからこそ、僕は本当の人間になれたのだ。
新しい日々
それからの僕の生活は、大きく変わった。朝、目覚めると真っ先にコタロウのところへ向かい、温かい声をかけ、優しく頭を撫でる。コタロウが喜んで僕に飛びつき、前足を僕の膝にかけようとするのを、僕は笑顔で受け止める。
朝の散歩では、リードをしっかりと握りながらも、彼の行きたい方向を尊重し、思う存分匂いを嗅がせてやる。**電柱の匂いをくんくん嗅いで満足げなコタロウの横で、僕も今まで気づかなかった草木の香りに鼻をくすぐられる。**他の犬と出会えば、無理に引き離すことなく、「こんにちは」と声をかけ、コタロウが他の犬の匂いをくんくん嗅ぎ、互いに尻尾を振り合う時間を、僕も焦らず待ってやる。「コタロウ、これ、面白い匂いするな!」と話しかければ、彼が嬉しそうに尻尾を振るのがわかる。
食事の時間には、きちんと時間を守り、新鮮な水を満たしてやる。ドッグフードを皿に入れると、コタロウは興奮して小刻みに体を揺らし、僕の顔をじっと見上げて「待て」の合図を待つ。その健気な姿に、胸が締め付けられる。「よし!」と声をかけると、美味しそうに音を立てて食べ始める。食べ終わると、空になった皿をきれいに舐め、満足そうに僕を見上げるのだ。僕は彼の頭をそっと撫で、「美味しかったか?」と尋ねる。コタロウは、応えるように小さく「クゥーン」と鳴いた。
リビングでゲームをする時も、もうスマホに夢中になることはない。コタロウがフンフンと鼻を鳴らしながら近づいてくれば、膝をポンポンと叩いて「おいで」と促し、頭を撫でてやる。「コタロウ、今日もお利口さんだったな」と話しかけると、彼は僕の腕に頭を擦り付け、満足そうに目を細めた。そして、僕の顔を信頼しきったような目でじっと見つめ返した。そのまっすぐな瞳に、僕は心が洗われるようだった。
そんな僕の様子を、母さんは不思議そうに、けれど嬉しそうに見ていた。 「あら、あの子、急にコタロウの面倒見がよくなったわね。ずいぶん話しかけるようになったし…」 母さんの声が聞こえる。その言葉に、僕は心の中で静かに笑った。 「うん、きっとコタロウが教えてくれたんだよ、大事なことを」 僕は、改めてコタロウの頭を優しく撫でた。彼の温かい体温が、僕の手にじんわりと伝わってくる。僕たちは、これからもずっと、お互いを思いやりながら、一緒に生きていくのだ。