第二話「……数日、帰ってこないんですか?」
楽人がパーティメンバーに了承を得てシンシアの元に帰ったのは、昼食の時間を少し過ぎた頃だった。ベッドで本を読んでいたシンシアは楽人を見ると、睨みながら立ち上がる。
「すぐ戻るって言ってましたよね? お腹空いたんですけど」
「すまない。思ったより長引いた。食べててくれてもよかったんだが」
「一緒がいいです」
シンシアは、少しだけ彼女より背の高い楽人の眼を見上げながら、そう言う。彼女の真っ白な瞳が、じっと楽人を見詰めていて、思わず顔を逸らす。
きっと一人が苦手なだけなのだろうが、そんな言葉を言われると、鼓動が五月蠅くなってしまう。シンシアは自分の可愛さにも気付かずきょとんとした表情で、楽人に尋ねた。
「どうしました?」
「……シンシアが可愛すぎて、照れた」
「……そですか。今日の昼食は……てきとうに、サンドイッチで」
「分かった」
二人して何だか変な空気になりながら、キッチンへと向かう。
「……貴方の、その……素直なところ? 治してください」
「どうしてだ?」
「そう、素直に好意を向けられると、恥ずかしいんです」
「……そうなのか?」
「貴方には分からないのかも知れませんけど」
いや、と言いながら、楽人はパンを取り出す。
楽人にだって、好きな人からの好意に照れる、というのは経験があった。
たとえば、シンシアに綺麗な眼をしていると言われながら至近距離で見詰められたとき。シンシアに貴方といるとすごく幸せだと言われたとき。
「そういうときは……うん、恥ずかしかった」
「……私そんなことしました?」
「覚えてないのか?」
「……いや……覚えてぇ……ますけどぉ」
シンシアは一層恥ずかしそうに、椅子に座ったまま俯いている。可愛い。
「……違うんですよ」
「何がだ?」
「……全く、そういうつもりなくて……あの、本音というか、その」
「……それ尚更恥ずかしくないか?」
「……」
恥ずかしいようで、シンシアは押し黙った。
楽人はそんな彼女を尻目に、話を続ける。
楽人とて、好意を恥ずかしいと思うことはある。しかし、それはシンシアからのものだけだった。
昔から京華や姉に、好きとよく言われていた。特に京華に関しては、スキンシップも激しい。重たくは感じても、それを恥ずかしいと思ったことは特にない。
「……それは家族だからでしょう?」
少し落ち着いたのか、シンシアは楽人の言葉に合いの手を打つ。楽人は首を横に振った。
他人からの好意を受けたこともあったが、楽人はそれだって恥ずかしいとは思わなかった。
昔、時折話すだけのクラスメイトや、女友達から告白されたことがある。しかしそのときも何を思うでもなく、京華がいるからと適当な理由を並べて断った覚えがあった。
「……つまり?」
「好きな人からの好意しか恥ずかしくない」
「…………」
あくまで楽人は、だが。
シンシアは顔を覆って黙りこくる。サンドイッチができあがって、食卓に並べる。
「いただきます」
「……いただきます」
今日の食事は随分と静かだった。幽かな咀嚼の音と秒針の進む音ばかりが、耳に入る。
だからだろうか、頭の中では食事ではなく、どうでもいいことが思い浮かんでいた。
恥は楽人にとって、幼馴染みのようなものだった。
才色兼備という言葉が似合う京華が傍にいる。身体能力に長けた賢人がいる。底抜けに優しい叔父がいる。
全てを持っているような京華が楽人をいつでも見詰めていて、そんな京華を優希が慕っている。優希は何でもそつなく熟して、容姿も良くて、忌々しいはずの楽人にさえ優しさを向ける。
楽人の周囲では楽人だけが劣っていた。楽人ばかりが醜かった。他の誰よりも秀でたものが欲しくて、そうやって他人を下に見たいと思う自分が心底気持ち悪くて。
そんな楽人を多くの人は受け入れてくれていたのに、何故だか蜘蛛の巣に架かっているような心地で、ずっと藻掻いていた。
顔を上げることができなかった。鏡を見るのも嫌がった。肺の奥底から黒いものが滲み出て、心臓から血に混じって、溜まっていった。ぐずぐずとどす黒く、腐っていく気がしていた。
――――今は、違う。他人に誇れるものができたわけではないし、寧ろ恥ずべきものばかりを得てしまっている。
けれども、それでもいいのだと思えるようになった。
「……ありがとうな、シンシア」
「……何がですか」
「色々と」
伝えたくなって、楽人は感謝を口にした。シンシアは赤い顔のまま、首を傾げている。
シンシアが居てくれたから、楽人にとっての恥ずかしさは、周囲の誰それへのものではなく、愛する人へのものに変わった。それは確かに顔を背けてしまうし、そわそわとして落ち着かないものだけれど、何故だか随分と心地よい。
「俺がこうして明るくなれたのは、シンシアのおかげだから」
「……拉致監禁するようになったのもですかね」
「それは……ここにいる人達の影響だと思う」
主に一人の女性。今日だって依頼の同行に納得してもらうまで時間がかかった。
「ここには色んな人がいて。大体我が強いから、あ、俺もこうなっていいんだなって、自然と思えた」
「……いいことですけど、他人の迷惑は考えた方がいいですよ」
「迷惑だったか?」
「……いやまぁ、別に」
「ならいい」
シンシアにさえ迷惑がかからないのだったら、他はどうでもいい。
勿論京華や賢人、レイラのような友人達に迷惑を掛けるのは忍びないが、友人だ。迷惑を掛けたとしても、また仲直りをすればいいだろう。
それ以外の生命になら、どれだけ迷惑をかけたって気にすることではない。楽人はここでそう学んだ。主に一人の女性から。今日だって彼女一人にお昼過ぎまでかかった。
その人のことを思い浮かべて、シンシアに依頼内容を話していないことに気付く。
「あぁ、そういや、依頼内容は話してもいいらしいぞ」
「……わざわざ聞いてくれたんですね。何でした?」
「ヒバナの弔い」
「……成る程?」
シンシアはサンドイッチを食べ終え、手を合わせる。今回はクッキーを食べないらしく、そのまま楽人の眼を見た。
どうやら興味が恥ずかしさに勝ったらしく、顔の赤みは取れている。
「伝承のヒバナの息子だそうだ。彼がもうすぐ寿命なので、その弔い」
「生きているときからお葬式をするんですか?」
「なんか戦いたいらしいぞ」
「……流石蠱毒の龍主の息子」
いや、と楽人は否定する。
シンシアは伝承のヒバナと同じような龍だと思ったのだろう。彼と同じように、生命を踏みにじるような龍なのだと。
聞いただけだが、ヒバナはそんな龍ではない。毒の実験で生み出されたこと、名前も付けられなかったこと、父を抱卵の魔女と共に倒したこと、毒と共にその名前を継いだこと。それをシンシアに話す。
「父の残した毒と一人で戦ってきたから、最期は誰かと一緒に戦いたいらしい」
「…………成る、程」
シンシアは苦しげに顔を歪めて、瞼を閉じる。何を思ったのかと楽人が眺めていると、少ししてから彼女は溜め息を吐き、眼を開いた。白い瞳が、何故だか悲しげに見えた。
「……どんな気持ちで、父の名を継いだのでしょうね」
シンシアの言葉に、考える。
初めに思い浮かんだのは、楽人の父の背中だった。
寡黙な人だった。母を愛していて、すごく幸せそうだった。
楽人のことを、時折見詰めて――――それだけ。彼はきっと母と同じように、母以外の全てに興味がなかった。
寂しい。悔しい。楽人が彼と過ごして思ったのは、そんなものではなくて。
「……羨ましかったのかもな」
「……羨ましい?」
「――――自分のことも見ずに、好き勝手に生きた、父が」
サンドイッチを食べ終えて、手を合わせる。そのまま、手を膝の上に載せた。
「……」
シンシアは立ち上がり、椅子を楽人の隣へと引きずって、座った。
楽人に身を預けて、ぼんやりと前の方を向いている。
「……シンシア?」
「……今日は、こうしていましょう」
「……ありがとう」
規則正しい時計の音が、ゆったりと過ぎていく。昔はその音に、焦燥感をかき立てられていた。何も持っていないのに、何もしていない時間ばかりを過ごしていると責められているような気がして、音の鳴らない時計にわざわざ買い換えて、それでも焦燥感が離れずにいた。
今は、どうにも落ち着く。シンシアと共にいるのだと、幸せな時間なのだと、知らせてくれているような。
だから、今は時計の音が好きだった。
「……そうだ、シンシア。明後日から数日帰らないが、食べたいものとかあるか? 作り置きはかなりあるが」
「……数日、帰ってこないんですか?」
そういえば、と楽人がシンシアに確認すると、シンシアは何故だか不安そうな顔で、楽人を覗き込んだ。可愛いのだが、違和感を覚えつつ頷く。
その表情がとても、心細そうに見えた。
「……どうした?」
「……いえ、別に。特に何もないです」
シンシアはそう言うが、やはり声も不安げで、楽人にかかる重さが少し増える。
「早めに……いえ。何でもないです」
「……そうか」
えぇ、と言うシンシアに首を傾げつつも、その姿があまりにも可愛らしくて、楽人は何も言わずに眺めていた。
二人とも初心すぎて書きづらかったです。