第二話「…………私の……服ぅ……」
楽人が眼を覚ましたとき、シンシアはベッドの上で本を読んでいた。
楽人の私室であるこの部屋には、魔術書やら娯楽小説やらが詰まった本棚がある。確かにシンシアが読むことも想定していたが、この状況で読むとは。良くも悪くも変わらないシンシアの姿に、少し安堵の息を漏らす。
「おはよう、シンシア」
「…………おはよう、ございます。ラクト」
シンシアは緩慢に楽人を覗く。寝転んだまま、頭だけが楽人を見ていた。眼の周りは少し赤く、肺が押しつぶされるような心地で思わず眼を逸らす。
「……ソファで寝るの、好きですよね。窮屈では?」
「好きというわけじゃない、手軽なだけで。それにふかふかだ」
「ま、貴方寝相は良いですし、ソファで充分なんでしょうけど」
それでも、ベッドで眠った方がいいですよ、と。シンシアは冷えた声のままでいつものような心配を渡してくる。それが嬉しいような、奇妙なような。
「とりあえず、何か疑問は?」
「…………私の……服ぅ……」
シンシアが着ていた筈の簡素なドレスは見当たらず、今の彼女はグリーンのジャージを着ていた。楽人がシンシアの為に用意していたものだ。
眠る前もじっくり眺めたが、改めてシンシアを眺める。彼女の奇跡的な容姿が、華美なドレスではなく故郷の部屋着を纏っているのは、何だかこう、ぐっとくるものがある。
だから、吐いた言葉はこうだった。
「ジャージも似合うな。すごく可愛い」
「貴方が私の裸を見たのかどうか聞いてるんです」
「安心してほしい。自我のない女性にしてもらった」
「倫理観どうなってるんですか???」
「魔王には、その人の自我を取り戻すためにスカウトされた」
「あぁ、そういう」
彼女は納得した様子で、楽人を見る。
楽人はクオーティアを裏切り、魔王軍に所属している。その切っ掛けは魔王からのスカウトであり、その理由は彼の研究内容――――奴隷紋にあった。
奴隷紋は、その名の通り生命の自由意思どころか潜在意識さえを奪い、主の奴隷とする禁術だ。
命令に背くことは一切できず、する行動も抱く感情も思うが儘。自我の破壊だって可能とするその魔術は、その上一度刻まれると解除することができない。どのように成り立っているのか、そもそも本当に魔術なのかどうかすら突き止められておらず、禁術の中でも特筆して忌まわれている。
「眠りやすい服装に着替えさせるよう頼んだらそれを選んだ。自我がなくてどうやって判断しているんだろうな」
「知りませんよ…………魔王って、今どんな感じなんですか?」
「正式な継承者じゃなく、簒奪者。無所属の禁術研究者達の互助会みたいなものだ。何でも屋で生計を立てている」
「あー……成る程」
そんな奴隷紋の被害者が魔王の姉であり、或いは魔王やレイラであり……彼等からすれば、楽人はヒーローのようなものだ。
楽人は闇魔術の中でも特に奴隷紋を研究していて、尚且つ莫大な成果を上げている。魔術の存在しない世界から来て、たかだか一年余りでだ。
生命の怨敵である魔族から王の証を奪い取り、数多くの禁術研究者を囲う程、奴隷紋の解除に躍起になっている魔王が目を付けない筈がない。
「因みにさっき言った自我のない女性が、現魔王の姉だ」
「成る程。そりゃ、こんな厚遇になるわけです」
シンシアは納得したように頷き、部屋を見回す。
楽人の私室は、シンシアの王城での私室……つまり、大国の第三王女の部屋と見比べても劣らない。真っ白な大理石の壁に、高級なカーペットの敷き詰められた床。家具や設備も多く詰め込まれているのに、広々としている上品な部屋だ。
まぁ、窓は花をあしらった鉄格子に覆われ、扉には鍵がかけられている。いくら広々とした部屋だろうと、世界と見ればあまりにも窮屈だ。
「だからまぁ、欲しいものやしたいことがあったら言ってくれ。大体叶う」
「……帰りたい……ですかね」
「それは無理」
「……はぁ」
じとっとした眼で見てくる。責めるような眼だ。監禁されてるんだし、解放されないのは当たり前ではないだろうか。なのにそんな眼をされるとは、むしろその目は自分がするべきだと、楽人は思った。
シンシアはもう訊きたいことが尽きたようで、早速とばかりに要求を続けた。
「お腹が空きました。後、喉も」
「あぁ、朝ご飯でも作るか。何か要望は?」
「……食事まで貴方が作るんですか?」
「そりゃ、好きな人には手料理を食べてほしいだろ?」
「いや知りませんけど……フレンチトーストが良いです」
分かった、と簡素な返事をして、楽人は一度伸びをした。時計を見ると朝というには遅いような、昼というには早いような、そんな時間。窓の外から入り込んだ暗い雷雨の音が、夢後の優しげな雰囲気をぼやけたまま充満させている。
ソファから立ち上がり、キッチンへ赴く。キッチンのある部屋はそんなに豪華でなく、どちらかというと庶民的。基本的に楽人が使うので、楽人の好みで作ってもらった。
作り置きのことを考えて、冷蔵庫は大きめ。二人向き合う小さな木の食卓が窓際に置かれ、やはり窓には格子が付けられている。小さな照明は窓の外の嵐を掻き消すような暖色。
どことなく、妙な心地がする。随分と前に失った違和感が、今になって戻っていた。料理は簡単だ。魔火炉の火は一定、食材も調理器具も揃っていて不便は感じない。
楽人にとって嵐の日は昔から、優しい雰囲気のものだった。それが異世界でも同様であることが奇妙なような、そうでもないような。
フライパンの上に仕込んでいたフレンチトーストを横たわらせていると、いつの間にやらシンシアはキッチンにいて、楽人を見詰めていた。
「どうかしました?」
「ん……いや、なんか、日本にいた頃とあまり変わらないなと思って」
「ニホンにいたときも拉致監禁とか身近だったん……でしたね」
「…………ノーコメント」
嫌みを言おうとしたのだろうか、言葉の棘は嫌みから同情へと変わった。何も言えない。それしか言えない。
「でも。ラクトは随分変わりましたよ」
「……まぁ、そうだな。手が、随分と重くなった」
「真っ先に出るのがそれですか」
「これ以外ないだろ」
掌を見詰める。色んなことが変わった。例えば、何も持たない手が重たいなんて、たった一人以外には認めてもらえない不思議な感覚を持った。
握った刃から、手から伝った血が透いたまま、幾重にもこびり付いている。或いは、その幾重を忘れるくらいに薄情な人間であることを知った。
「私は、明るくなったと思いますよ」
シンシアはくぁと欠伸を溢しながら、自然な動作でティーポットに茶葉を入れ、お湯を注ぐ。手慣れている。お姫様なのに。我が物顔でいれてる。誘拐されてるのに。まぁ、彼女らしいと思いつつ、楽人は会話と料理を続ける。
「……最近、よく笑顔が減ったと言われるんだが」
「だからですよ。貴方、嬉しくもないのに笑うの、癖だったでしょう?」
「……そうか?」
何となく、顔に触れる。どんな面持ちなのかは、あまり分からなかった。
「ラクトはこの世界の方が性に合ってるんじゃないですか? ま、誘拐した側が言えたことじゃないですけど」
「……そうだな。シンシアもここでぐうたらしているのが性に合っていると思うぞ。俺が言えたことじゃないが」
「本っ当に言えたことじゃないですね」
「そっちもな」
そう言って笑い合い、会話は疎らになる。食事の用意が終わり、小さな木のテーブルに並べる。作り置きのサラダとスープ、そしてフレンチトースト。簡単なものだが、シンシアも楽人も、こうした食事が好みだった。
向かい合って座り、二人手を合わせる。
「「いただきます」」
じっと、シンシアを見る。
二人で食事を取ることが多かったおかげか、シンシアの食事の挨拶は、楽人の故郷のものになっていた。
短くて楽だからと多用しているため、彼女からしたら異国の言葉だが発音も自然。
「……なんです?」
「いや、可愛いなって」
「……もう、本当、何なんですか貴方」
シンシアは、頬を赤らめている。誤魔化すようにフレンチトーストを口に詰め込んでいるのも、矢張り可愛い。
一緒に、誰にも脅かされない場所で食事をする。
こんな本当に些細な時間が、何故だか嬉しくて仕方ない。時計の針が過ぎていく音さえ、惜しく思えてしまう。
「……はぁ。見過ぎです」
「慣れてくれ」
「クオーティアじゃそこまでじゃなかったでしょう?」
「周りに人がいたからな」
「……これだけは帰りたく思います」
そこまでか。流石にこんなことで嫌われては元も子もないので、楽人もフレンチトーストの方へ意識を割く。
味は上々。日本に居た頃はよく、京華と料理やお菓子作りをしていた。ネグレスト気味の両親に代わって面倒を見てくれていた叔父がいた頃は、三人で。
そのおかげでレシピを覚えていたため、何とかふわふわな食パンを再現し、フレンチトーストまで作れている。
とはいえ、矢張り数段味は落ちている。思い出補正もあるだろうが、農作物の品質や、加工方法は故郷の方が優れていたのだろう。これから時間も増えるだろうし、魔術だけでなく料理の研究も視野に入れておこうか。
「ごちそうさまです」
「おそまつさま」
そんなふうに考えながらもっさもっさと食べていると、シンシアはもう食べ終わったらしい、ふんわりと微笑みながら紅茶を優雅に飲んでいる。
普段は人懐っこい仮面を被り、それを脱げば不愛想。
そんなシンシアを最初の頃はあまり笑わないのだと思っていたが、案外顔に出るタイプだと、最近気付いてきた。
紅茶を飲むときは今のように微笑むし、照れているときは顔を赤くする。面白い本を読んでいるとくすくす笑うし、嫌なことがあるとだるそうに顔を顰める。
だからついつい、シンシアの顔を見てしまう。
どんなときにどんな表情をするのか気になって、眼が離せなくなってしまう。
「シンシアって、美味しそうにご飯を食べるよな」
「そうですか?」
不思議そうなシンシアに、楽人は頷く。
『おいしそうに食べてもらえると、料理人冥利に尽きる』
楽人はあまり表情が変わらない、なんて叔父の言葉を思い出し、ふと思う。よく笑うようになったのは、だからだろうか。他にも祝われたときや、遊んでいるときに表情を指摘されたことが、幾つか思い出せる。その全てが幼少期のもので、大きくなってからは言われた覚えがない。
自分の癖のことをぼんやりと考えていると、楽人も朝食を食べ終えた。手を合わせて、それから二人で紅茶をのんびりと嗜む。
食べ終えたばかりだというのに、シンシアは戸棚からクッキーを取り出して机の上に置いていた。
「そうだ。今日と明日くらいは、研究もせずゆっくりしようと思ってる」
「あぁ、お楽しみ期間的な。……手、出します?」
「無理矢理は趣味じゃないから、シンシアがいいというまで待つさ」
「攫っておいてよくもまぁそんなことが言えますね」
「それはそれ、これはこれ」
「どちらも同じでしょう」
「強姦は死刑でいい。監禁は愛を最大限に示す最良の手段って悠兄が言ってた」
「本当余計なことしか教えませんねユウ兄さん」
余計なことだろうか。幼馴染みによくストーカーがついていたため、盗聴とか盗撮とか尾行とか、そういったことへの対処方法は短い人生の中で何度も役立っている。
「その幼馴染みがストーカーになってることに何か思うことは?」
「……最近は、重たいなって」
「最近ですか」
まぁ、故郷にいたときは何とも思っていなかったし、クオーティアでは盗聴やら盗撮やらが危険魔術なので尾行程度。それくらいなら……うん。
「……裏切った理由の一分がそれかも知れない」
「そうですか」
呆れた眼が楽人に向けられる。だって怖いもん。神出鬼没で。
いくら美人でも、ストーカーはいただけない。まぁそこさえ眼を瞑れば器量よしなのだから、いつかお似合いの人が見つかるだろう。割れ鍋に綴じ蓋という諺もあるし。
「そうですね誘拐犯」
そんなふうに和気藹々と言葉を交わしていると、不意に涼やかな鐘の音がなる。扉に備えられた呼び鈴の音だ。つまりは、来客。
が、楽人は尚も椅子に座ったまま、また紅茶に口を付けた。
「行かないんですか?」
「今日は休日だ」
「そですか」
シンシアもあまり気にした様子はなく、先程から読んでいた本を開いている。机の上に本を広げ、肩肘をつき、クッキーを食べながら。呼び鈴の音を邪魔に思わないほど集中しているようで、その表情は真剣だ。
そんなだらしない姿さえ可愛らしく思うが……それはそれとして、食べこぼしが本に挟まらないかと配してしまう。
あっ、落ちた。あっ。
「そんなに見ないでくださいって」
「いや……クッキーの食べこぼし……本に挟まる……」
「へっ。嫌がらせです」
本当に嫌だった。
しかしシンシアは体を起こし、背もたれへと背を預ける。一度指摘すると、こうして止めてくれるのが常だった。
呼び鈴の音は、尚もリズミカルに響き続けている。
「……うるさい」
「そう思うなら出たらどうです?」
シンシアは気にならなくとも、楽人は少し気にしてしまっていた。
楽人も集中しているときならば耳に入らないだろうが、今は別に集中しているわけではない。シンシアとの時間を噛みしめるには、あまりにも邪魔な存在だ。
重ための溜め息を溢しながら、楽人は渋々立ち上がる。
「行ってくる。数時間帰ってこないかも知れない」
「はいはい」
ひらひらと手を振るシンシアに見送られながら、もう一度溜め息。
誰が来たのかは予想が付いていた。というより、こんなことをするのはあの三人と一匹しか居ない。その姿を浮かべながら、楽人は部屋を抜け出そうとして、
「――あの」
シンシアの呼びかけに振り返る。シンシアは楽人の方を見ないまま、言葉を続けた。
「……どうして、私を攫ったんですか?」
「好きだから」
「…………どうして?」
「どうしてって……好きなら監禁とかストーキングとかするものだろ?」
少なくとも幼馴染みと近所のお兄さんはそうだった。
「……いってらっしゃい」
「あぁ、行ってきます」
シンシアは諦めたように楽人を見送り、楽人もそれ以上を聞かず部屋を出た。
……シンシアは一体、何を抱えているのだろう?
そんなことを考える。様子が変だった。
一年間で、シンシアのことは知ったつもりだった。いや、確かにシンシアのことをこの世で一番理解しているのは楽人だろう。彼女はずっと――事実はどうであれ――独りだったのだから。
弱音を吐ける人なんて楽人しかいないのだと、いつか彼女は溢していた。昔苦しかったことを、今日あった嫌な出来事を、楽人は聞いてもらうだけでなく聞いていた。
だから楽人はシンシアが誘拐をあまり嫌がらないことも、それが彼女の為になることも知っていた。
だけど。
シンシアは何かを隠している……ような気がしてならない。
思案しながら扉を開くと、その向こうでは予想の内二人と一匹が騒いでいた。
「ひーめ! ひーめ!」
「みーせーろー」
筋骨隆々の大男が大股を開け、両手を振り子のように振って下の方で音を鳴らしている。鷹のように鋭い顔はにまにまとにやけ、すごくうざい。
彼の前では半端に耳の尖った少女が無表情のまま、拳を交互に突き上げている。突き上げた拳と反対側に体を揺らし、茶色の長い髪がわっさわっさと追随していた。
少女の首には赤黒い蛇が巻き付いており、タイミングよく威嚇の声を合いの手として入れている。
――――うん。
「うざい」
「んだと!?」
「親友に対してなんだこら」
「親友なら今日くらいそっとしておいてくれ」
「無理」
「無理です」
「シャー」
思わず溜め息を吐きながら、扉を閉めようとする。が、男が足を入れ扉を開けたままにし、少女がそっと潜り込む。
蛇は別として、この二人が強引な質であることはよく知っている。恐らく追い返しても何度だって来るだろう。
楽人はまた溜め息を吐きながら、男を見上げる。
「……エレナは兎も角、アーノルドは帰れ」
「何でだ!?」
「男だろ、お前」
「クリンゲルだって男じゃん……!!」
「蛇」
帰宅を促すが、楽人の力では足一本押し出すのも難しく、アーノルドは無理矢理に扉をこじ開けて笑った。
「ひ弱め。肉食え肉」
「お前が筋肉馬鹿なだけだ」
「はっは。安心しろよ。俺が好きなのはクラン様だから」
「……帰れ」
楽人とて、アーノルドに想い人がいることくらい知っているが、それでもどうしようもなく不快だった。
シンシアの瞳が、楽人以外の男を映すことが。シンシアが、親しげな愛想笑いを楽人以外の男に浮かべることも。
本当はエレナでさえ彼女に合わせたくはない。誰かがこの部屋に立ち入るだけでも苛立ちが募る。
楽人はその苛立ちを載せた眼で、アーノルドを睨む。ひくつもりがないことはアーノルドにも伝わったのだろう、不満げに顔を歪めて、舌打ちを一つ。
「……なんだよ」
ぼそりと呟くと、アーノルドは帰って行った。エレナが無表情のまま、不安そうに体を強ばらせている。
楽人はそんなエレナの頭を撫でながら、彼女に釘を刺した。
「シンシアと話すのはいいが、あまり長居するなよ」
「うん。姉様の話を聞きたいだけ。あと恋バナ」
そうかと言いつつ、楽人は部屋を出る。
それから未だ見えているアーノルドの背を追って、小走りで駆け寄った。
アーノルドは依然として不機嫌だったが、楽人は気軽に声を掛ける。
「訓練場か?」
「……なんだよ」
「付き合う」
「……へへっ、そうかそうか! 遠慮しないぜ?」
アーノルドはぱっと笑うと、数秒前の不機嫌も何処へやら、上機嫌で楽人の背を叩いた。それなりに痛いが、わざわざ止めるのも面倒だ。この恨みは訓練で返すことにしよう。
今日はどの様な戦い方をしようかと考える。よくアーノルドと訓練をしているせいか、戦闘狂が楽人にも移ってきたようで、少し楽しみだ。
「アーノルド」
「どしたー?」
「そろそろ叩くのやめろ」
「あっ、楽しくってつい」