五
世は動いていく。時につれて動いていく。動き、刻一刻変じるものがあれば、何ら変わらぬものがある。この変わらないのが、真理だと思う。また、変わっていくことも真理だと思う。
真理を見つけて、順に並べ論い、これを規則に、はて、何をしようかと謀る時、世をより良くする? と疑問符をつけて人は提案する。
諸問題が世には散らばっている。このままでは到底いけないと思う。誰でもそう思う。けれども、それが解決されるとまた新たな問題が浮上する。飛び出したある一点を押し込むと、また別の一点が膨れ上がるように。
幸せなものと不幸せなものがいる。幸せを幸せと気づかないものもある。これは愚かに見えて、実は万人が陥る病気である。人は際限無く、何を求めていくのか——
考えて答えを見つけるが良し、とこれまではかたをつけてきた。だが、果たして考えて答えが出るものか? また、本当に答えがあるのか? 求めているそれは、ちゃんと答えなのか?
人は生きて思考する。本来、生きるだけで良かったはずだ。獣と同じく生きて、世を継ぎ、後々に続いていけばそれで悪いことは無かったはずだった。それがなまじ、考えることを覚えたせいで、当て所ない思索を行うせいで、途方も無い闇の空間に投げ出され、苦悶し、時には命まで断つようになった。
人間は、何故生きるのかを考え出した、地球で初めの生物である。生きている意味を見出そうとする、空前の動物である。考えて、正解があるとは限らない。正解が陳腐なものとも知れない、正解も間違いも混じり合って、二次元を飛び越えるのかもしれない。
人はこの先考えるのか、そう問われれば、きっと考えるだろうと応じる。彼に代表されるような、気骨のある人間が世には数多いる。彼のようでなくとも、人は考えざるには居られない、ともすると不幸な生命である。それでも幸せを求め続ける、健気な種である。
人を動かすのは潮である。潮に呑まれた人類は、死んでその内に溶けていく。生きて、死んで、溶けて、ほとんど無いも同然になって、それでも超常物の眼に瞬きが映るとすれば、それは人間を生き抜いたもののあった証であろう。