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 世間では、皆考える気力を失っている。彼のように思索に耽る者は、もはや稀である。だから、彼がたまに考察の論文を発表したりすると、良く問われる。

「君、虚しくなりやしないかい?」

 彼は聞かれるたび、「いいえ」と答えてやる。が、最近はいい加減になって、ううむ、や、まあ、で受け流している。

 阿の模範解答は、思索意欲の低下を招いた。答えはうやむやで良いと思っていた連中や、自身の見解が正しいと信じて疑わなかった学者は、皆絶対的な答えの出現に唖然とした。すると、途端に文学は窮屈になって、自由の度を狭めた。彼のように、この答えを必ずしも答えと限らぬと疑ってかかれる真髄の学者は、珍しい。ほとんどは素直に、作者の言うことが正しいとのみ込んでしまう。

 作者自身、曖昧で解しかねることを書き連ねたりもする。これは単に作者が抽象に頼って、底無しのふりをしているか、もしくは作者を超えた自然の力が筆を操っている場合である。彼は、阿を尊敬している。敬うに値する、作家だと思っている。彼にとって作家とは、人間を商売道具にする者である。阿はまさにそれである。阿の作物には、文字に姿形を変えた阿の像を読者の胸中に結ばせる筆勢がある。だから、前者のような大物の仮面を被った小物だとは、到底思えない。超常の威力が、阿に加担して、月が赤くなったり、兎が劇を演じたりしたのである。

 このように事を解した上で、尚思索を好んで持続するのは、彼くらいのものである。彼はとうとう、文学者と呼ばれる身分になった。

 やがて、彼はある生徒を得た。生徒は『宇』と言った。

 生徒宇は、彼の次のような講義を目の当たりにした。

「君たちは阿を知っているか。阿の文学について、一度でも考察したことがあるか。それにはまず、阿を読まなくてはなるまい。文学には読むに値するものとそうでないものとがある。このことは誰もが心得ている。が、そのわけは、と言うところになると、見当違いを発する者のおびただしいこと。いいかね、文学を批評している者の中に碌な奴がいるか? 第一文学に限らず、何かしらに星の数を付けて評価する業を好んでやる者は、そんなに立派か? 奴らは悪い作品には決まって気分を害される、読まなければいいのに。そして、良い作品に触れると、何かを得たのだと主張する。ちょっと待て、彼らの人間は、果たしてどんな風に変じていると言うのだ。良い作品に触れて、そんなに色々を得たのなら、もう少し徳の高い人間になったっていいじゃないか。だが、とてもそんな風には見えないね。僕はそう思う。だから、批評家なんてのは、作品の良し悪しを直感で判断つけて、その証拠を中身から探し引っ張り出してきて、批評の文を書くところに悦楽を覚える遊び人に過ぎないのだ。悪いと思う作品は読まないのだ。普通、読まないのに、なぜ読む? そりゃ、文を書く為だ。享楽を得る術だ。少しでも、分別のある者が読めば、決まって不快になる文だ。——批評することが害悪だと言うのではない。批評家という者の存在が見苦しいのだ。だから、読むに値する、しないは君たち自身が批評して決めれば良い。僕は阿を勧めるが、阿に関して丸っきり無知でも大いに結構。良く君らは親に、ある海外文学や日本文学を読めと諭されるかも知れない。常識だと教え込まれ、知らないと恥だと脅されるかも知れない。けれども、残る文学と言うのは、放っておいても残るものだ。いいか、芸術の善悪を決めるのは批評家じゃない、時代だ。時代がその流れにおいて芸術をろ過するのだ。だから——僕は阿は後世に残ると思うが、消えている可能性もあるので、読まなくて大いに結構。僕は阿を推薦するが、君たちが阿を知らないからと言って、ちっとも卑しいとは思わないし、むしろそんな考えを持つ方が愚だと考える。うむ、それを十分分かってもらった上で続きを言いたいのだが、僕が学生の頃、阿の芸術的表現に、あっけらかん、身も蓋も無い『解答』が示された。この時、多くの人が落胆した。いいか、底はどこだろう、どこまでだろうと掘り起こしていたのに、掘ったところよりずっと上の方で既に阿の奥ゆかしさは果てていたのだ。これを知って意気消沈せぬ者はおるまい。でも、でも僕はまだ愛想をつかさなかった。何故だか分かるか? 僕は阿の筆述した世界に迷い入って彷徨った。その時に阿の理解の範疇を超えた世の広がりを見知ったのだ。——何を言っているか分からんと言う者がいるだろう。うむ、僕だって君たちの立場でこんなことをひょいと申されても、まさか要領を得ん。だから説明しなくちゃならないが、ちょっとこちらも長い話になる」

 彼の講義はまだ続く。けれども、これだけ綴れば十分である。生徒宇との繋がりは、ちゃんと形成された。

 宇は、彼の元を訪ねる。かつて、彼が以を慕ったように。

 宇は、無気力の大人たちに面倒を見られて育った世代である。どんな時にも、点数をいくつ取れるかで、価値を測られてきた世代である。それが急に、彼のような教師に出会って、全く違った価値観を突きつけられた。宇が面食らって、たまらず彼を訪れるのも理解できる。

「先生、」とまずこう口火を切る。

「先生は、阿の研究をなされているんですか?」

「ああ、そうだよ」

 宇は、すぐには核心に当たらない。

「何故ですか?」

「そりゃ、散々講義でも教えたろう。阿は丹念に芸術世界を紡いで……」

「でも、所詮は人の考えることでしょう? 先生の言うみたいに、こことは全く別の世界を、阿が幾つもつくりだしていたとは……」

 だんだん暖まってくる。

「阿がつくったんじゃないのさ。阿につくらせたのだ」

「阿に……つくらせた」

「そう。無論、阿がつくったと、言えんことは無い。けれども、阿が筆を走らせている時には、何かが取り憑いて彼の両手と思考を操っているのだ。だから、人智を超えた世が見出される」

「ちょっと、先生、本気ですか?」

「狂っていると思うか?」

 彼の若い大人の目に、宇はたじろぐ。

「僕は狂っちゃいない。そうだな、もう少し分かりやすく言おうか。つまり作者は、書いている当時には全部分かっているのだが、後になって読み返す時には、一読者に過ぎなくなると言うことだ。君、昨日の自分と今日の自分は全くの別人なのだよ」

「……それなら少しだけ、何となく分かります」

「うん。じゃあ、それで良い」

 彼は、宇に向かっていたのに、机の方に集中してしまう。宇はまだ満足しないと見えて、そこに突っ立っている。

「先生、」

「ん?」

「先生は、何故文学を研究するんですか? 何故……」

「そうだな、それが有意義だからだ。その他にあるまい」

「有意義って?」

「あのなあ、人は世を色々生きるのだ。これを見聞するだけでも有意義だ。それから、幸福を見つけることも」

「幸福、ですか?」

「ああ。不思議なことだが、日本はこれだけ衣食住に困窮せぬ幸運な国にも関わらず、たくさん自殺者が出る。せめて、食べていけるのだ、辛い病気は大体治療できるのだ、せっかく、それなのに自ら命を絶ってしまう。何故だか分かるか? ある視座に囚われるからだ。この視座から解放してやるのが、文学なのだ」

「へえ、」

「無論、文学の役割はこれだけにとどまらない。が、多分、君の求めるような答えはこういうものだろう?」

「さあ、よく分かりません」

「うむ。分からんだろう。分からんなら、考えろ。疲れたら休めば良い。また気が向いたら、考えろ」

 彼は、今度こそ宇との談話に決着をつける。宇は

「ありがとうございました」と引き下がる。俯き加減で、部屋を出る。その瞳はどこを映すとも無く、ただぽつんとやや前方に落ちている。

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