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 月と兎の世への門を開こうとする者が、今久方ぶりに現れた。門番の影がその者を検める。審査と言っても、ただ上から下までを眺め回すばかりである。五、六度これを繰り返すと、やっと、退いて赤門が奥へと開かれた。

 広がった世界は、ただ眩しいばかりだ。何も無い。訪問者は記憶を、その満ち溢れんとする光の中へ、適確に配置する。世の風貌は、現代と似ている。そう、こんな二車線の道がある。植樹が等間隔に立ち並び、歩道を飾っている。ケーキ屋、スーパー、アパートらが栄えて、自転車や車の行き交う通りである。——今、訪問者のこの記憶が、真白の眩む画の中に置かれた。そして、何人か現れ、息づきはじめた。

 後は、事件が起こらなくてはならない。訪問者は事件に至るまで、時を進める。

 訪問者の目撃したのは、呆然と佇立する一人の男である。男は中くらいの背丈を微妙に前傾させながら、目前の空白を凝視している。訪問者の目にはそう映るのである。男にとっては分からない。もしや、この時、男は兎の舞踏を観ているとも知れない。

 じゃあ、やっぱり兎は幻である。男を平気で追い抜かす者、様子を気にしながらすれ違う者、皆兎を発見していない。幻なら、男の心情に寄り添って、解釈してあげなければならない。——時を戻す。

 男は穏やかに暮らしている。ちっとも変わった様子は無い。毎日決まった時刻に仕事へ行き、業務をこなして、帰ってくる。帰ってくると、妻のこしらえた晩飯を食う。そして、明日朝の早いのに備えて、眠る。起きると仕事をする。それを繰り返すうちに、休みの日が来る。休みは無難にやり過ごす。……仕事へ行く。

 巡り巡った末、ある帰路にて、兎を観る。何が男に兎を観せた? 訪問者は、兎は男を楽しませているのだと理解する。証拠に、男はいつまでも魅入っている。ありったけの時間を食って、魅入っている。

 男には珍事が無くてはならぬ! 珍事に心労するのが女であり、珍事に活動するのが男である。男は無事を喜ばない。喜ばなくてはいけないと思いながらも、本当は珍事を渇望している。これが男の観た幻覚の、根源である。

 女は帰りの遅い男に愚痴を言う。男はどうしても信じてもらえないと諦めて、無言を貫き通す。女は満足でも、男はつまらない。

 同時に男は優柔だ。かわいい優柔でなく、ねちっこい優柔である。女は今を生き、男は過去を生きる。男の珍事は過去にあることが多い。

 人間は社会を生きなければならぬ。どうしても社会に養ってもらわなくてはならぬ。その為には社会で与えられた役割を、ひたすら務めなくてはならぬ。社会の一員でなくては、物を盗まれたとしても文句は言えぬ。殺されても関知されぬ。だから、社会と契約を結ぶ他にあるまい。

 男は生まれ落ちた時、泣けば大抵欲しいものが手に入ると思った。幼年の時、人と人とがたたかうと勝ち負けがつくのだと知った。少年になって、どうせ叶えられぬ欲望を抑圧する術を覚えた。青年では、何か一つ理想を抱けば、一生をかけてきっと実現できると信じた。中年として、社会さえ維持されれば、それで良いと思った。そして、自身がそこに貢献することを誇りに思おうと考えた。

 じゃあ何故、兎を観た? そんな無神経な質問は、決して男に浴びせてはならない。男が兎を観たことは、誰にも秘密である。だって男には、決して逃げ場など無いのだから。他に進んで良い道など無いのだ。そこに生きなければならない。

 すると、向かいのマンションの上に覗く満月が、赤く染まった。男の眼が充血した? まだ言うか、いや、あながち間違いでも無いのかも知れない。だって、それ以外にどう説明をつけようと言うのか。けれども、妖しい赤に変じたのは、満月ばかりである。だから、男の眼球の病気だと理解するのは、やはり浅はかであろう。じゃあ、無理にでも説明をつけなくてはならない。

 筆舌に尽くし難いのは、その者の語彙力の問題か、あるいは言語自体に欠陥があるのか、はたまた……。男の心情はとても、ああでこうだから、などと解明するわけにはいかない。一度そう割り切ってやると、後から悔いることになる。やっぱり些か違っていると思っても、示された言葉がまっさらの思考を阻害する。だから、もう男になりきってしまうのが良い。訪問者はそう案出した。

 男と同様に感情を動かして、同様の境遇を味わって、同様の月をその眼に映せば良い。そうすれば——少なくともその一時には——この意味が呑み込めるようになるはずである。

 訪問者は、成功した。これは賭けであった。これまでは、どうやっても理解できぬ人情と言うのがこの世には存在するのだと思っていた訪問者だが、生者である限りはどうも、それは間違いらしい。歴史を辿れば、自ずと見えてくるものだ。まさか、訪問者は男に変身したわけではない。訪問者はあくまで訪問者であり、この月と兎の世の住人の内に相容れることはない。それでも、訪問者は赤い月を見た。月の化粧は、うっすら口紅を塗りつけられたようであった。煌々と照り輝くまん丸が透き通る様子は、赫奕と言う形容を見る者に想起させた。

 さて、訪問者は見たいものを全部見た。いよいよ帰還する段になる。退く際も、一筋縄ではいかぬ。この物語の封印を解き、開いた者の責務として、ちゃんと閉じなくてはならない。閉じても世は持続するだろう。初めから終わりまで、とても書き切れぬが、確かにあるのだ。それを終わらせるとはどういうことか。連綿と巻いてきたテープを、ここと言う場面でちょん切らなくてはならない。その時、残酷であってはならない。冷たい衝動が、前頭に響くような切断は、無作法である。身を引く時に、サーと潮が返すように、指揮棒がピタリと静止した時余韻の音が懲りずに鳴り響くように、切り離してやらなくてはいけない。

 彼は紙にこう綴った。——雪が真白に被っている。凸凹に被っている。男はこれに足跡をつけようと思う。——ここで絶やす。

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