一
文学の解釈に誤りが無いと聞いて、彼は冗談じゃないという気になった。正解が無ければならない。正解が無いのなら、考える意義が無い。正解も無いのに考えるのは、暇人のなすわざである。
皆ほっとするらしい。正解を言い当てなくて良いのが、随分気楽らしい。滑稽な連中だ。これだから思想だの哲学だのは、理数系の波に呑まれる。当然、人は確かな証拠を求めるのである。論より証拠だ。証拠は答えを示すに違いない。解釈に誤りが無いと言うのは、答えは無いのだと堂々自白するようなものであって、同時に証拠も何もあったもんじゃないと明らかにして、恥を晒す真似である。だから彼は、冗談じゃないと反応する。
数字や記号は人がすこぶる信じるものの例である。また統計もその実質がどうであれ、人を信じ込ませるのに十分である。ところが、いくら精神論やら人間論を語っても、捉え方は人それぞれなどと安易に済まされてしまう。馬鹿なことを。真理は確かに存在するのだ。それが数字や記号にならなければ信じないと言うなら、少々手間がかかっても仕組みを整えよう。甚大な努力によって得ようと目指す正解なのに、何故色々で妥協する? 導かれなければならぬ、答えは。考察の末に、確たる証拠でもって、導かれなければならぬ。
そう思って彼は今この席に着いている。天井に神がいる。教室に渦巻く潮の流れを統率する神がいる。潮は至る所で人を呑み込んでいる。神が天井にへばりついて、指揮棒を振るって善悪を決めている。地に這う彼らは渦の中から潮流を読み取り、その行き先に従わなくてはならない。
おかしな事を申した途端、粛清される。神の手足である教師が、否定すれば、それは悪となる。生徒はなるほど、と心得なくてはならない。一向に答えが出ないわけには、この構造における弊害が大きい。皆、答えを言おうとするのではなく、善とされるものを模索するのである。
彼は、自分はここに甘んじるべき人間ではないと気づく。では、どこへ行けばいいのか、思い当たる所は無い。とかく、彼は講義を終えて退出する。
向かう先は、書店である。書店には、大学入試の過去問が並んでいる。その国語の問題を見てみる。問題にはきちんと答えがあてがわれて、併載されている。受験時には唯一無二の答えを求めるのに、大学に入ると誤読が無いと言う。無責任だ。
ついでに、この解答そのものも無責任だ。尤もらしく解説までご丁寧に添えられているが、同じ問題でも本によって解答が異なることはごまんとある。どれかが間違っているか、どれも答えを言い当てられていないか、そもそも問いが成立していないのか、だ。
彼は受験勉強ほど仇になるものはないと考えている。受験期ほど一生の内で無意味な時間は無いと確信する。形式ばった問題を解き、求めるのではなく、求められるものに応じる部下の力量を伸ばすのが、受験勉強である。けれども、考えてみろ、この世はそう簡単な構図でできているだろうか。指導者がおって部下がおって、その構図があちこちに点在して、世を成り立たせるのだと思うのは阿呆だ。人は指導者として少なからず欠陥している。それでいて、手足に徹するには人情が弊害となる。
点取りゲームは滑稽だ。テレビゲームはしばしば除け者にされるが、誰しも何らかのゲームに没頭しているのには違いがないのだ。そのゲームに極めるだけの価値があるか否か、これは社会の情勢が決める。故、点取りゲームは肝要である。極めるべき代表的ゲームである。しかし、可笑しな感じは免れ得ない。一体何人がこれを奇妙なお笑い種だと気づくことができるのか。ゲームをして相対評価にうぬぼれるより、淡々と真理を追求する方が、よっぽど有意義に決まっている。ゲームに人生の大半を費やす者は、死ぬ間際に寂寞の念を携える。
答えを探り当てるのは、人の生きる意味である。人は、地球に生まれ、よって宇宙に生まれたのである。宇宙の真理を解き明かすことが、人に与えられた使命であると、彼はこう考える。
そんな馬鹿なと蔑む者には敢えて問おう、では人の存在に一体何の意味があるのか。意味は無いと言うのが正しい。しかし、それでは全人類が生涯慰められぬ。それでいて人を取り囲むのは宇宙環境である。未だ人は銀河の外には無頓着であるが、いずれはその果てを究めなくてはならない。これは、一生達成されるはずのない目標である点が肝だ。人は冒険し続けなくてはならぬ。冒険が無いと、精魂は盛んにならぬ。宇宙の果てを目の当たりにしようと言うような、果てしなく当て所ない目標が、人の生きる燃料となる。
彼は何だか色々を述べたが、要約すると、やはり唯一の答えを手繰り寄せようとせぬ姿勢を批判するのだ。答えは幾つもある、では行き詰まってしまう。真相は確かにこの世の仕組みとして備わっているのである。
ところで、今彼が求め、知ろうと試みるのは、作家『阿』による問題作である。阿の描き出す情景は、凄惨だ。むごたらしく、あるゆる懐柔の手を逃れているので、唯一無二の作品を編むことに成功している。そんな阿の作物を読み解きたいと、彼は思っている。
まず、阿の作中には度々超常の意図による手が加えられている。世界観にはあり得ないようなことが、誰によってか知らんが、与えられ、人物を制御するのだ。例えば、夜の満月を真っ赤に染めるようなことがある。これは、人物の血潮を迸らせた抽象の類だとする説が有力である。が、彼はそんな簡単な話だと思わない。これは、人物の目が血走った為に起こる錯覚か、またその類の具体的な何かである。狂気を指し示すと言う解釈には変わりが無い。けれども、彼の説の場合には、人物の体調に関する異変までもがこの一場面に盛り込まれていると証明されることになる。
また、幻の兎がぴょんぴょんと跳ね回る一部始終がある。これは人物の心の拠り所だとか、過去の連想だとか、言われている。彼は、きっともっと容易には思いつかないような、深い意味が隠されているに違いないと、漠然としたことを本気で信じている。
作家阿は、既に故人である。だから、本人に答えを聞くことはできない。それでも、考える意義はある。彼はきっと答えに辿り着けると、確信しているのである。何が、彼をそう惑わすのかは不明だ。だが、根拠が全く無いと言うわけでは無さそうだ。だって、彼は自分の人生を費やして、考えているのである。それが虚しくては、あまりにも不憫だ。
阿の小説にこんな一節がある。少年が、慕うお姉さんに、「常識ってのは、恥をかかない為に身につけるもの?」と仕掛ける。すると、お姉さんは「そうだね」と簡潔に応じてみせる。少年はこれを受け、
「それじゃあ、俺には常識要らないや。別に恥かいたって良いもの」
彼はこのやり取りに、差す光を感知した。靄がかかってあやふやだったものに、ようやく分別がついた。
事はそう単純ではないだろう、けれども、これは真理である。そもそも常識と言うものそれ自体、恥を悉く避ける行為のことと換言できる。恥を恥とも思わなければ、それまでである。恥をかかせ合う泥仕合にこだわるよりも、囚われない非常識がともすれば優位である。
阿と彼とは長い付き合いである。無論、阿は彼のことを知らないが、彼は阿のことを熟知しているつもりでいる。ここに既にすれ違いが生じている。この断層はともすると、核が崩れ出し、大きな揺れを伴って彼自身を一変させてしまう大きな力を秘めている。この大転換があったのは、阿に関する衝撃的なニュースが発表された時分である。