英雄
暗闇が残る切り立った崖から吹き付ける空気は、凍てつくほど冷たい。
ひらけた崖の上に、馬上に乗った一人の女が甲冑を身に纏い、下の平原にある村を眺めていた。
女の吐く息は、白くたちこめて、やがて消える。
「今日も来てるな」
村には旗が蠢いている。
エナン国の国旗であった。
幾度となくこの旗と兵士たちを見てきたことだろうーー。
「行こう、チボ」
横に控えた白い大型の犬は、ワオン!と高く鳴いた。
女は、頭上に乗せていた兜を被り、崖から一直線に馬で駆けて行く。
左手の剣を煌めかせて。
夜明けの太陽を前に。
スンギ支城にほど近い宿場町にある食堂内は、賑やかだった。
店内は広く、多くの旅人や商人が椅子に座り、昼下がりの食事を楽しんでいた。
「なあ、聞いたかよ。フィセ村の話!」
「ああ。あの女戦士の噂だろ?」
とある一角で、ヨナ国の二人の商人の男たちが、食事をとりながら、小話をしている。
そしてまた、二人の男が、その商人の男たちの隣で静かに食事をとっていた。
隣で囁かれる商人たちの噂話に、その男のうちの一人が興味を持った。
「なあ。兄ちゃんたち。その話、ちょっくら詳しく、俺に話を聞かせてくれないか?」
「あ?あんた誰だ?」
商人の一人が怪訝そうに男を見やる。
「俺?……そうさなあ、シモン国から来た旅人、とでも言っておこうか」
「ってことはシモン国の商人か?」
商人の男がそう聞くと、男はそんなモンだ、と言って歯を見せて笑った。
その男は顔にところどころ日焼けをしていて、白い歯が目立つ。
「シモン国の人間なら、知っているんじゃないか?その女戦士はシモン国出身だって噂だぜ。シモン国の甲冑を身につけて現れるってんだからよ」
「へえ?その女は、それを身につけて何してるんだ?」
男がすかさず商人に聞いた。
「ああ。一年前、エナンとの戦が終わったが、エナンの残党兵や盗賊たちが一番南に位置するフィセ村ってとこに現れては村を襲うことが度々あってよ。国の国境警備隊ももちろんそれを察知してダグダカ門ってところからフィセ村に兵を送るんだが、そいつらが村に到着する前にはその女が残党兵たちをすでに叩きのめした後、っていうことが何度もあってな。もう今じゃ村にはほとんどそういった輩も近づかなくなってなあ。その女のことを、フィセ村や周辺の南の町では皆、英雄の女戦士だって騒いでいるんだ」
「……へえ?」
商人の話に、男はにやりと笑った。
「女がシモン国の甲冑をしているから、シモン国がヨナ国を攻撃しないように牽制してるものだと思って、エナン国もむやみやたらに手が出せないようだ」
もう一人の商人が付け加えた。
「実際ヨナ国とシモン国はこの一年で同盟も結んで対エナンへの防衛線は張ってるって聞くけどな。だがその女はその同盟を結ぶ前から現れていたっていうから、シモン国が俺たちヨナ国を守るためというよりも、個人で動いてるみたいなんだよな。そこがまた不思議でよ。どこの誰かは、いまだに誰もわかっちゃいねえ」
「……そうか。だが、なぜそいつが女だと分かるんだ?甲冑を身につけているなら、性別など分からないのではないか?」
男がさらに問いただす。
「ああ。一度だけな、エナン兵の攻撃でその女の兜が飛ばされて、ヨナ国の兵が一瞬見たらしいんだ。そいつは長髪の黒髪で、女の顔だったって」
それを聞いた男はますます笑みを深めた。
「なにより、その女のすげえところは、目にも止まらない速さの剣術だって聞くぜ。驚くのはそれだけじゃねえ。隻腕らしい。片腕の剣だけで、男たちを薙ぎ倒していくってよ」
「ああ。すげえだろ?」
男のその一言に、商人たちはえ?と同時に答えた。
男はすくっと立ち上がると、もう一人の連れの男にシモン語で話していた。
『サイナム、行こうぜ』
**五日前――
『これはヤン皇太子殿下、サイナム殿。はるばるシモン国より、ようこそおいでくださいました』
ハグムは王宮の自室で、ヤンを出迎えた。
『ああ、元気にしてたかよ。軍師総帥殿』
ヤンとサイナムはハグムを前に挨拶をした。
『やめてください。もう軍師ではありません』
ハグムが苦笑する。
『いいや、忘れないね。一年前、俺をコマとして扱った恨みは、まだまだ消せねえ』
ヤンが意地悪く笑った。
ハグムが困った顔を見せ、俯いた。
『……申し訳ありません。あの時は、こちらも必死でしたので』
『ははは、嘘だよ』
笑いながら、すっかり整った部屋の中の客用の椅子に、ヤンは座った。
ヤンは一年前の戦から帰国すると、シモン国とヨナ国を結ぶ外交大使に、自ら志願した。
雪が溶けるこの時期だけ、この国にとどまり、仕事を行うことになっていた。
『短い間だが、よろしく頼む』
ヤンが机の向かいに座るハグムに言った。
『こちらこそ、お願いいたします。私も今月いっぱいで摂政の任を解くつもりですので、できる限りのことをやらせていただきます』
『あ?もうやめるのか?早急すぎねえか、もうちょっと伸ばしてもらえよ。俺はあんたとの交渉が楽しみでここに来てるんだ』
ヤンが身を乗り出した。
『………申し訳ありません。王も、そのように申してくれましたが、礎はすでに整えております。私がいなくとも、優秀な人材たちが、引き継いでいってくれます』
ハグムがシモン国との外交関連に関する巻物を机の上に置き、指し示した。
『あんたはこれからどうするんだ』
ヤンは鋭い瞳でハグムを見据えた。
『私はまた内政部に戻るだけです』
『それはもったいないですね』
サイナムが横から口にした。
『ありがたきお言葉。ただ、現在の内政部の長官殿は満期のため辞職となりますので、私が長官となります。王からも、今後も相談役として定期的に王宮に仕えるようにとは仰せつかっておりますので、またこのようにヤン殿やサイナム殿と話することもございましょう』
ハグムは微笑んでサイナムに一礼した。
『……しかし摂政というお立場も、一年が限界のようですね。短い期間であるだけ、無理をされたのでしょう。貴方はまた細くなられた気がする』
サイナムが心配そうにハグムの身体を見遣った。
『……いえ、それほどでもありませんよ』
ハグムは前に手を翳した。
『あんた、ちゃんと食って寝てんのか?』
ヤンは手に顎をのせて青白いハグムの顔をじっと見る。
『ええ。ここで出される軽食もしかと食べますし仮眠もそこで…』
ハグムは部屋の端の簡易な寝台を指差した。
『は?あんた、ここで生活してんのかよ。信じられねえ』
ヤンがハグムの言葉を遮った。
『……どうも…家にはあまり帰りたくないもので』
ハグムはヤンへの視線を、机の上に落としてそう言った。
『……へえ』
ヤンはなにか思いついたようにぼそっと呟いた。
『……昔いた使用人が忘れられないとか?』
いたずらに発した言葉を聞いたハグムの顔の変化を、ヤンは間近で見た。
それはヤンにとって意外な反応だった。
昔聞いたハクタカの話では、ハグムがハクタカを女と知るやいなや家から追い出したというものだった。
ハグムが、ハクタカを許せず怒りに任せて追い出したものだと、てっきりヤンは思っていた。
だが、どうだろう。
目の前の男は涼しい顔から一変、驚きの表情とともに、ひどく傷ついたような、ひどく後悔しているような、それでいて、一つの光を見出したような、何かにすがらんとする顔をしている。
『……ヤン殿。もしかして、私の使用人のことを…何かご存知なのですか』
ハグムは口を震わせながら静かにヤンに向かって聞いた。
ヤンは戸惑った。
『……わりい。あんたが家に帰らない理由を適当に予測しただけだったが、何かあんたの気に触ったか?』
ヤンはハクタカのことはハグムには決して言わなかった。
それは戦の中でのハクタカとの約束であったし、何より、ヤンが言いたくなかった。
ハグムの表情から、一つの可能性を見出したからだ。
いや、それ以外、思い浮かばなかった。
こんなはずではなかった。
『……すみません。私の早とちりでした。聞き逃してください』
ハグムはヤンの言葉を聞き視線をまた机の上に落とし、苦しげな顔でしばらく無言になった。
ヤンはそれを見て、自身の疑念が確信に変わった。
咳払いをし、続けた。
『ま、いいや。早速なんだが、あんたと鷹便でやりとりしたように、南のダグダカ門に、一年交代でシモン兵を遣わす件だが』
『……ええ。助かります。シモン国の兵たちの宿舎などもすでに建設済みです』
ハグムは再度ヤンを見据え、冷静に答えた。
『そうか、じゃあ連れてきた兵士団と一緒にすぐ南へ発つわ。馬を借りられるか』
『承知いたしました。すぐ準備いたします』
ハグムは立ってヤンに礼をした。
ヤンは話を簡単に終わらせた。
それ以上、ハグムの苦しそうな顔を見るのが、なんとなく、嫌だった。
ヨナ国とシモン国は商業目的で同盟を組み、安定した商業を営むために対エナン国の戦防止のため、シモン国は今年から南の国境入り口にシモン兵を駐在させることを決めた。
ヨナ国へ戦をしかけるのは、シモン国へ戦をしかけるのと同等の意味であることをエナン国へ示すためである。
それはヤンの提案だった。
シモン国からの思いもよらぬ妙案に、ハグムはそれを快く受けたのであった。
そしてヤンたちに深く感謝の意を示し、先頭に立って二人をもてなすのであった。
**
『殿下。ここまで探していないのです。兵士団をダグダカ門に置いてきたのですから、目的は果たしました。早くヨナ国王宮に戻りましょう』
『……何言ってんだ。何しにここまで来たと思ってるんだ』
ヤンの言葉に、サイナムはため息をついた。
『……殿下。殿下があのハクタカとやらを気に入っているのは私も十分承知の上ですが、所在の分からない女一人をこの広い町中で探すのは、さぞ困難でしょう』
サイナムは戦が終わった直後、ヤンからハクタカが女であることを知らされた。
もとより、ハクタカを戦中にシモン国の野営地で匿い、裏でハグムを助けていたことも全てヤンから事後報告を受けた。
(まったく……女一人にここまで。……っ。殿下が彼女を婚約者にするなどと言い始めたら、私はどうしたらいいのか。怖くて…聞けやしないが)
シモン国の皇子となれば、妻となる相手はそれ相応の地位の女性との結婚を求められる。
ヤンがこれほどまでに一人の女に構うことが今までなかったので、サイナムはハラハラしていた。
しかし、サイナムの心配は的中していた。
ヤンはハクタカを迎えに来ていた。
ハクタカが戦の直後、ヤンに伝えたのは南の地に残り、エナン国に近い村や町を守る役目を果たしたいとのことだった。
それが、自分の大切な人間たちを守ることにつながることだと信じて。
ヤンは一人でそれをやるのは危険すぎると一度はハクタカを説得した。
だが彼女が一点の曇りもない目で、やらせて欲しいと言ってきた時には、立場上、南の地を去らねばならないヤンにとって、首を縦に振るしかなかった。
ヤンは一年かけてシモン国の国王や大臣たちを説得し、ヨナ国の対エナンへの防衛に協力をする許可を得た。
そしてついに、ハクタカを、危険な役目から降りるよう説得し、あわよくば自分と共に帰国することを夢みていたのだ。
ヤンはハクタカが女の姿をしていた、ということに心が踊った。
一年前、命をかけてまで守った男を、男と偽ってまで側にいた男のことを、忘れずにいた男の格好をした彼女の気持ちが、すっかりなくなっているのではないか、そういう期待があった。
『さっきの奴らが言ってただろう。ハクタカが以前言ってたとおり、南の守りの役目は相変わらずやってたらしいじゃねえか。このあたりにいるのは間違いねえよ』
『ですが、フィセ村からダグダカ門、この宿場町に来てもなおそのような女は見当たらないじゃあ、ないですか』
『……』
サイナムの言葉に、ヤンは太々しく首をすくめた。
『なあ、サイナム。さっきのやつら、もう今じゃエナン兵も近づかなくなったって言ってたよな』
『……?ええ、そうですね』
ヤンはしばらく考え込んだ。
『ハクタカがもし、自力で生計を立てるなら、どうするか』
『え?』
ヤンがぶつぶつ言うのを、サイナムは黙って聞いていた。
『商人って柄じゃ、ねえしなあ……』
突然、歩いていたヤンが立ち止まった。
『……殿下?』
一歩遅れたヤンがサイナムの隣に位置すると、ヤンは勝ち誇った笑いを浮かべていた。
『はは。なんで気づかなかった』
そう言うと、ヤンは急に走り出した。
『殿下!?お待ちください、殿下!!』
サイナムは、またか、と言った呆れ顔で、急いでヤンの後を追っていった。
【チョヴィスキーからのお願い】
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