矢の雨
ハグムは軍師総帥として、ヨナ国中央軍の真後ろに立っていた。
斥候からの情報を聞きながら、都度軍の配置や陣形を変更していた。
また、隣に控える兵から、肉眼で見える範囲の戦場の変化を逐一聞いていた。
兵は、右翼の動きを敏感に読み取った。
「ハグム殿!右翼が少し後退しています!」
「……なに!?」
ばっと右翼の方を限りなく細い目で見やった後、ハグムはエナン兵の左翼、そしてさらにその奥を睨めつけるように見た。
そして、また右翼を目で追った。
(……シバに何かあったか)
右翼がますます押されているとの知らせを聞くと、ハグムの顔は、どんどん青ざめていった。
前方で戦う兵たちの怒号と武器の金属音で、馬はいくらか速度を落としたようだった。
馬から振り落とされそうになっていたハクタカは、手綱を握りながら、ようやく重心を中心に持ってこられた。
チボが追いつき、馬の前に飛び出ると、馬は静止した。
「よ、よかった……」
チボはハッ、ハッと息をつきながらくりくりとした目でハクタカを見上げている。
ハクタカも一息つくと、すぐ前方に、見慣れた後ろ姿があった。
(先生!)
嬉しかったのも束の間、ハクタカは異変に気づいた。
よく見ると、その後ろ姿は、隣の兵に身体を押さえつけられながら、右側を向いて必死に何かを叫んでいる。
(……先生?)
声が届くところまでハクタカは馬でゆっくり背後から近寄ると、ハグムの声がハクタカの耳に届いた。
「シバ!」
「シバ!!」
ハグムは必死にそう叫んでいた。
(……シバ?)
ハグムの視線の先をハクタカが追うと、東からずっと一列に並んだヨナ軍の前線が、右側だけ押されているのが分かった。
(シバが…あそこにいるの?)
ハグムは声が枯れそうになるくらいまで叫んでいる。
(まさか)
ハクタカはハグムの周りにヨナ兵が複数いるのを確認すると、思い切り馬の腹を蹴った。
それにチボが続く。
馬が駆け出した。
右翼の、シバのもとに、ひたすらまっすぐ。
エナン国左翼を率いる将軍マライは齢五十前半にもなるが、屈強な男であった。
マライは左翼軍の一番後方で、前線で奮闘する槍兵を細目で見やりながら、不敵な笑みを浮かべていた。
「前進しているな」
隣に控える副官も、笑みを浮かべていた。
「ヨナ国の軍略にはスンギ支城に至るまで辛酸を舐めさせ続けられたが、それを指揮する軍師とやらもここまでだな」
「はい、マライ様」
副官が答えた。
(あの槍使いたちには騎馬兵でもそう抗えまい)
マライは自信があった。
前線に送った歩槍兵はマライが長年独自に訓練し、鍛え上げた兵たちであった。
さらにその後ろには分厚い塊の歩兵たちが控えている。
エナン側は山の方には軽装兵しか敷かないであろうというハグムの予感は当たっていたが、その質は通常の歩兵とは比べ物にならぬほど磨き上げられたものであった。
マライは戦が始まるまでしばらく立っていたが、前線が前に伸びたのを確認すると、組み立て式の椅子に深く腰をおろした。
マライの側には十数名ほどのエナン兵が控えていた。
彼らもまた、前線の行く末をじっと見守っていた。
するとーー
幾千もの弓弦を引く音が一斉にしたかと思いきや、図太く低く、ひゅうひゅうと音が鳴って、マライ達の背後から矢が襲い掛かった。
「何だ!?」
かろうじて矢を避け、振り返ったマライは、一気に顔が真っ青になった。
千、いや倍以上の弓兵が、こちらを襲ってくるではないか。
「マ、マライ様!お逃げください!!」
副官は叫び、兵達はマライを囲むように前線の方へ走っていった。
(何が、どうなっている!)
マライは馬に跨り、走りながら後ろの弓兵を見ると、それらはシモン国独特の装備をしていた。
(シモン兵だと!?あやつらは右翼の後ろで隠れていたやつらじゃないのか。どうしてこんなところに。どうやって我々の背後につくことができたのだ)
マライはそれ以上、思案にふける余裕はなかった。
弓兵たちは寸分の隙もなく矢を浴びせてきたからだ。
マライが部下の兵とともに前線に向かって馬で駆けている時だった。
太く、速い矢が、一直線にマライの首を突き抜けた。
「マライ様!!!」
エナン兵達は倒れたマライに近づいたが、首から血が吹き出したマライは死の直前であった。
一際目立つ大弓で矢を放った男が、倒れたマライを横切った。
その男はマライの周囲の兵たちを剣で一掃し、マライの馬を奪い、それに跨った。
そして、馬の腹を強く蹴った。
『殿下、お待ちください!!殿下!!』
その声の主に、男はにっと笑って叫んだ。
『軍の指揮は頼んだぞ、サイナム!!』
シモンの弓兵の攻撃によるとめどない矢の雨に、後方に控えていたエナン兵達は次々に射抜かれて倒れていく。
エナン左翼の後方部隊はもはや壊滅的であった。
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