父の背中
**十一年前
「今が好期です、サイ殿!エナンが撤退する今、我らがヨナ国の領土を広げる時。後ろから追いましょう」
少年は、アシア平原を撤退し南下する軍を見下ろしながら、サイと呼んだ大男に呼びかけた。
「待てハグム」
少年は、後ろから来た男に振り向いた。
男は髪も眉も髭も真っ白で、顔も皺くちゃであったが、鋭く光る目と、全身が日に焼けた肌が、戦場に身を置く者の威厳を際立たせていた。
「師匠…」
ハグムは男をそう呼んだ。
「総大将サイ殿。敵は去りました。骨を休めた後、撤退でようございますかな」
「ああ、オム。そうしよう」
ヨナ国の軍の陣が敷かれた丘陵地で三人は横に並んでいた。
「どうしてだ!我が兵の士気は衰えてはいない。エナンの領土もすぐそこだ。勝算はある、俺にやらせてくれ」
「あっはっは、頼もしいなこの若き軍師は。のお、オムよ」
サイは大声で笑った。
「失礼を。愚息でございます。聞き流してくだされませ」
オムは、その鋭い目で、無言でハグムを嗜めた。
「……」
(なんだ、師匠は。いつもいつも)
ハグムは、自分の意見を通そうとせず、大将軍の前で自分を愚息と言う養父に、腹を立てていた。
しばらくして二人から離れたハグムは、足元の石を拾い、丘から石を思い切り投げつけるのであった。
その日の夜、野営地は兵達が集まって戦の勝利を祝い、酒を飲んでは喜び、時々わっと盛り上がる声をたてていた。
ハグムは兵達から少し離れ、焚き火のそばに座り、ぼぅっと、揺れる火を見ていた。
兵を指揮するオムは、ハグムに次の一手をどうするか、戦局が変わる度にハグムに聞いていたが、聞くだけで、ハグムの意見がオムの戦術に通ずることは一度もなかった。
(俺は、師匠の何なんだ)
エナンを憎んでも憎みきれず孤軍奮闘したあの日、ハグムは大人達をまとめ、大人達を率い、敵国を退けたが、大人達はハグムを裁きにかけようとした。
そんな時、手を差し伸べたのがオムであり、ハグムはいつの間にか彼の養子になっていた。
周りの大人を信じることもできず、ハグムはオムに話しかけられても、無言を貫き、彼を睨みつけていた。
最初は勝手に他人の養子にされ、静かな怒りをオムにぶつけるだけであったが、それでもオムと戦場を駆け抜けるうちに、ハグムはオムの人柄と軍略に魅了されていった。
いつか、自分もこうなりたいと思うようになり、ハグムはオムを師匠と呼んだ。
しかし今のハグムは、オムに近づくどころか、足手まといになっている気がしていた。
(俺は、この戦で何の役にも立っていない)
笑いながら酒を飲む兵を遠目で眺めながら、ハグムは火の中に、地面に落ちている細木を投げ込み、一人塞ぎ込んでいた。
すると、兵の会話が横から聞こえた。
「なあ、俺たちこのまま撤退だってよ」
「これから進軍はしないのか、エナン兵を追っ払っただけじゃないか」
「なにも得られたもんじゃねえ、帰ってどれだけの報酬がもらえるか…たかが知れてるぜ」
「サイ様というより、あの軍師の意見だろう?『小心者のオム』って裏のあだ名の」
「……」
ハグムは黙ってその会話を聞いていた。
(師匠は、いつも守りに徹する。それ見ろ、兵から苦情が出ているじゃないか)
ハグムはオムの軍略の中で、唯一気に食わなかったのは、エナンが撤退、つまり戦に勝利した後も、敵地に踏み込むことを良しとしなかったことだ。
(もっと、領地が広くなればヨナ国だって…もっと大きな国になれるのに)
ハグムは膝の上の両手でぐっと自身の腕を掴んだ。
翌朝、兵達が野営地の撤去で片付けに追われている間、オムは一人で丘からエナン国の方角を眺めていた。
その背中は、初老にかかる年齢とは思えないくらい、大きかった。
自身とオムの荷物を担ぎながら、ハグムは、オムに呼びかけた。
「師匠、準備が整いました」
「ああ、そうか」
エナンに続く大地をずっと見続けるオムに、ハグムは昨日の兵の会話の内容を告げた。
「師匠、俺も納得いかない。どうして進軍しなかったんだ」
「……」
オムは黙ったままだった。
「…どうして、何も言わないんだ。兵からもあのように言われて、師匠は悔しくないのか」
「…ハグムよ」
「…はい」
「おまえはもう一人前の軍師じゃの」
「?…何を言うんだ。俺の意見など、聞かないくせに」
ハグムはいつもの不満を、オムにぶつけた。
「…おまえのそれは、いつもわしを驚かせる。自信を持て。来たる日まで、己を磨け」
「…はぁ?」
ハグムは、オムの言うことが理解できなかった。
「ただな、おまえはひとつ、勘違いをしている。それさえ分かれば、おまえはきっと、もっと立派な軍師になれるさ」
「……」
ハグムは黙って、オムの言葉を待った。
「何も奪わない、何も奪い返されない、争いないところに平和ありだ。進めばいいというものではない。憎しみを生むだけだ。逆に、引くだけもいけない。こちらにも守るべきものがあるから。良いか、ハグム。軍師は怯者であれ。全ては民のため人の世のため…大切な人間を守るために」
ハグムは目の前の男の言葉が全く理解できなかった。
「…俺は臆病者じゃない。ただ、進むべきだ。進むことが、民のためになる」
顔をしかめながらキッパリとそう言ったハグムに、オムは苦笑した。
「大切な人間がいると、ひとは弱くなり、守りに入るものだ、ハグム」
「だったら、そんな人間など、作らなければ良い!勝つために!」
ハグムが答えた瞬間、風が吹いた。
ひどく、冷たく、大きな風だった。
ハグムは思わず両腕で顔を覆った。
オムの、日に焦がれた肌の奥にある瞳は細められ、ハグムは両腕の隙間から、その瞳が一瞬儚く見えた。
風が止むと、ハグムは両腕を解き、オムの方を向いた。
隣で優しく微笑む男の顔は、尊敬するいつもの父の顔だった。
「お前も、大切な人間ができれば、いずれ分かる。ひとは弱くもなるが…それ以上に、強くなれる」
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