追憶
エナン国はヨナ国の南西部に位置し、多くの山に囲まれている国である。
この地は暖かく、太陽が顔を出す日が多かったが、同時に激しく雨も降り、山から流れる川の水の恩恵を受け、肥えた土壌で作られる農作物が民の腹を満たした。
だが、今年は日照り続きで凶作が続き、民の間では子供、老人が栄養不良や病で倒れる者も少なくなかった。
エナン国が唯一平地で繋がっている国が、ヨナ国であった。
ヨナ国は武器を作る鉱石が多く産出する資源豊富な国であり、海に面し、東の島々との外交も成していた。
凶作となっても、島々との貿易による恩恵が、ヨナ国の民の腹を満たしていた。
エナン国は幾度となく、兵の数の力と略奪で持ってこの地に踏み入ろうとしたが、数十年間、ある一人の軍師がヨナ国の総帥に任命されてからというものの、とかく様々な奇策によってことごとく阻止されてしまっていたのであった。
それにより、エナン国は辛酸を味わった。
ヨナ国の軍師は、エナン国にとって恐るべき対象であった。
しかしその総帥がいなくなった今、エナン国は着々と、ヨナ国を攻める準備を進めていた。
ヨナ国との国境に近い支城には、多くの兵が集まりつつあった。
エナン国の王ムンガル、左大臣ユガラは、ヨナ国と交わした約束の日にむけて、ヨナ国に突き立てるその刃を、研ぎ澄ませていたのであった。
ただ、ヨナ国の軍師の軍略にほとほと痛い目を見ていたエナン国は、ヨナ国に二人の刺客を送った。
目的は、ヨナ国軍を指揮することになるであろう未来の軍師達の抹殺であった。
エナン国の王宮は、国の南に位置している。
広大な大地の丘陵地に街全体を覆う外郭が存在し、一番高い地には白磁のような王宮が聳え立っていた。
天気の良い日には太陽の光が王宮に当たり、反射すると、それはまるで真珠のように光輝くのであった。
王宮の中の、天井が一段と高くなる大広間で、光沢のある大理石の床に平伏す男がいた。
男は背中と右の大腿部に怪我を負い、衣服の下に、包帯を身に纏っていた。
男の平伏す先には、金箔で施された長椅子に肘をつきながら体を横たえるエナン国王ムンガルと、その手前に、やや細長い面持ちで白髪まじりの豊富な顎髭をそろえた壮年の左大臣ユガラが座していた。
底光りする瞳が、平伏す男を斜め前から見下していた。
「任務に失敗し、よくのこのこと帰ってきたものだ」
男はその言葉にぴくりとも動かず、額を床につけていた。
男から受け取った書状を、ユガラは読み上げたところであった。
「なんと書いてあった」
王ムンガルがユガラに問うと、ユガラは一度頭を垂れて、書状を一部読み上げた。
「あの軍師の弟子がいたというのか」
ムンガルはユガラに尋ねた。
「そのようでございます」
ユガラは静かに答えた。
「その弟子の手腕はどうなのだ」
「九年前のナムグ支城戦では、彼が指揮していたとの情報ですが、それ以外は解らぬようです。あれは途中で休戦となりましたから、実力のほどはまだ」
ユガラが書状の続きを読み上げると、王はにやり、と笑った。
「ヨナ国は、よほど我らに進軍してほしくないようだ」
「そのようです。いかがなさいましょう」
ユガラは顔を伏せたまま、王の指示を仰いだ。
「……祖国の民を二度も敵国に売るとは、ヨナ国の王も地に落ちたものだな」
王は蔑んだ目でユガラの持つ書状を見やり、冷笑を浮かべた。
「は、そのようでございます」
ユガラが答える。
ムンガルはしばらく黙っていたが、身体を起こし、鼻で笑った。
「我らを畏怖するその心に免じて、こちらもひとつ、提案してみよう。なに、今回の戦はヨナ国全土の侵略でなくともよいからな」
「ハクタカ、起きているか?」
寝床に入ろうとしたハクタカに、ハグムが部屋の扉越しにそう言ったのは仕事から帰ってきて日をまたぐ頃であった。
ハグムが襲われたあの事件以来、酒場で一度会ったものの、ハグムと一度も面と向かってゆっくり話したことがなかったハクタカは一気に緊張したが、
「はい」
と答えた。
扉を開けたハクタカが緊張の面持ちで見上げると、ハグムは少し困ったような笑みを含み、静かに言った。
「少し、話をしようか」
二人は座敷に向かい合って座った。
ハグムはしばらく黙っていた。
その沈黙に耐えきれず、ハクタカは土下座をした。
「先生、すみませんでした!剣のことも、酒場でのことも…全部、先生を困らせることになって、その、俺…」
「……ああ」
(ああ、って言った…よね)
額を床につけながら、ハクタカは怒鳴り声を待っていた。
すると、ごほん、と咳払いをする声が上からして、顔を上げて、とハグムが言った。
「酒場でのことは、どうせシバが君を騙して私をからかおうとしたのであろう?もう、気にしていないよ」
ハグムは手の甲で口を隠し、耳はほのかに赤かった。
「……それより、君に聞いてもらいたいことがあるんだ」
「?」
ハグムは座敷の隅に置かれたチャトランガの盤に気づき、盤を目の前に持ってくると、コマを少しずつ、無造作に並べ始めた。
コマを並べながら、ハグムが口を開いた。
「私は昔、軍師をしていた」
「!」
ハグムが昔の話を語ったので、ハクタカはどきっとした。
ハグムは滅多に昔の話をしようとしなかったからだ。
「あの事件の時、シバから昔の私の話を少し聞いたであろう?」
「は、はい」
ハクタカは、自分の知るハグムの軍師の話を、ハグムに伝えた。
「何だ、そこまで知っていたのか。お喋りだな、シバは」
ハグムは少し驚いていたが、しばらくするといつもの冷静な顔に戻った。
「…戦に翻弄され、私は孤児となり、エナンのすべてを憎んだ。師匠の弟子となり、軍師となってもなお、私は敵を殲滅することだけ考えていた」
「……」
ハクタカは黙ってハグムの話に耳を傾けた。
「エナンとの終戦手前、大きな戦があった。我が領土の最南端に位置する、背を山々に囲まれたナムグ支城とアシア平原に位置するスンギ支城に、同時にエナン兵の五万が攻めてきた。私はナムグ支城に我が軍の兵を一万、スンギ支城に三万、計四万の兵を配置した。エナンにとってナムグ支城は落としたとても、背は険しい山々。国を越えるには足が悪すぎて、エナンがそこを拠点とすることはないと味方の皆誰もが思っていた。私はナムグ支城を見渡せる見晴らしのよい崖の上で、左方のスンギ支城の様子もみていた。戦が始まり、一日目、多くのエナン歩兵がスンギ支城に攻め込んだが、半日もたたずに引き返して行った。すると今度は少数の歩兵がナムグ支城に攻め入り、これもまた我が軍により簡単に滅ぼされた。そして、二日目にはスンギ支城にさらに多くのエナン歩兵が攻め込んで来て、スンギ支城に在中していた味方の軍師と将軍が、ナムグ支城にはエナンは攻めまいと決め、ナムグ支城にいる兵をスンギ支城に集めろ、と私に言ってきた。ただ、その時、私は違和感を覚えていた。前線のエナンの歩兵が弱すぎた。斥候に調べさせると、一、二日目に攻めてきた歩兵はすべて、エナンでかき集められた農民兵だった。私はエナンの目的が、スンギ支城を落とすとみせかけて、実はナムグ支城攻略ではないかと焦り始めた。それが当たった。私がスンギ支城から応援を呼んだ直後、ナムグ支城に多くのエナン重装兵が一気に攻め入った」
ハグムは、盤の上の城の二つのうちの一つに、多くの兵のコマを集めた。
「敵はナムグ支城を拠点とし、背後にある支城が少ない方の山を越え、ヨナ国の中心を撃つという強行突破に出た。ナムグ支城では、エナンより少ない兵数だったが、応援から呼んだ兵の隊列も城内で組めていたし、私はそこでエナンの兵を必ず食い止めてみせると思っていた。だが……数日前から続く雨で、ナムグ支城の後ろの山々から、土石流が発生した」
ハグムは、一つの城に集まった兵のコマを、城とともに盤上から全部、床へ払い落とした。
ぱらぱら、と床に落ちたコマが音を立てた。
「……あっという間だった。支城の外の様子を確認するために数人の兵と崖に登った直後であった私は見た。ナムグ支城全体が土砂に飲み込まれていったのを。……私は味方の兵、三万人を犠牲にしてしまった」
ハクタカは壮絶な戦の現場を想像するだけで、背筋が凍った。
「そして同時にエナン兵の四万人も死んだ。…怖くなった。自身の采配で、多くの人間が、死んだ。ひとは、死んだら、味方も敵も関係ない。ただの肉塊になる。ただひたすらにエナンを憎んでいた私は…おぞましい人間で、いかに自分が愚かだったかを知った。ひとの命が、何よりも代え難い尊いものであることを知った…。そんな私に罰が下ったのだ。その戦で本当に大切な…師匠を、失ってしまった」
(あ…お父さんのことだ…病死してしまった、って言ってたよね…)
ハクタカはオム、ハグムの養父のことを思い出した。
「先生、でもそれは自然の災害だったのでしょう?決して先生のせいでは」
ハグムが痛みをこらえるような表情で俯いたのをみて、そんな言葉は慰めにもならないことを感じとり、ハクタカは、口をつぐんだ。
「…私があの黒ずくめの男に襲われた事件で、私は、君のあの無防備で、自分が傷つくことを全く恐れず…まっすぐ敵に向かっていく姿が、何より恐ろしく感じた。まるで、昔の自分を見ているようで。…軍術や武術を得る者というのはどうしてもひとの命と向きあう運命にある。剣を学んだ君が、ひとと戦うことで、私と同じように…自分の身を滅ぼしたくなるくらい、後悔し、傷つくのではないかと、それだけを心配している」
ハグムは、俯きながら口を震わせていた。
ハクタカはハグムに手を伸ばした。
両膝を立てて、ハグムの頭を、自分の胸に包み込んだ。
消え入るように話すハグムが、迷子で泣きそうになっている少年のように思えた。
ハクタカはそれを、抱きしめたかった。
「大丈夫です、先生。俺は何も後悔はしていません。これから後悔するつもりも、ありません。だから、どうか心配しないでください」
「…そうか」
ハグムは短くそう答えた。
と、同時に、つ、と涙が頬を伝った。
そのことに、ハグム自身、驚いた。
心の裡に留めていたものが、言葉にすることでこんな形で溢れてくるとは、思いもしなかったのだ。
ハクタカは、ハグムを抱きしめたまま、続けた。
「確かに先生は、たくさんのものを失ったかもしれません。その辛い気持ちは、俺には全部は分かりません。でも、今、先生は本当に多くの人たちを笑顔にしてくれています。俺もそのうちの一人です。俺はそんな辛い体験をした先生が、今ここにいて、俺のそばにいてくれることが、何よりも嬉しいです。先生はおぞましい人間なんかじゃありません。先生は、誰よりも優しいことを…俺は、知っています」
にっこり笑ってこちらを見下ろすハクタカを見て、ハグムは微笑み、目を閉じた。
ハグムの涙袋に溜まっていたもう一筋の涙が、先の涙に重なって、床に落ちた。
「先生?…大丈夫ですか?」
しばらくして、ハクタカは動かないハグムの顔を心配そうに屈んで下から覗いた。
「…ああ」
ハグムの目は、少し潤んで見えた。
顔を上げたハグムと、顔を下げたハクタカは、同じ高さの目線でぶつかった。
ハグムはそうっと手を伸ばし、ハクタカの目にかかっていた横髪を耳にかけた。
無意識に、そうしていた。
(!?)
ハクタカは急なことに、身を固くした。
「……ありがとう」
ハグムは何か、吹っ切れたように言った。
穏やかな顔だった。
ハグムに触れられ緊張していたハクタカだったが、その言葉を聞くと、すかさず屈託のない笑顔を見せた。
熱を帯びた瞳が、ずっと、その笑顔を見守っていた。
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