第1話:退職から始める異世界生活
春に55歳の誕生日を迎え、サラリーマンの猪狩秀治は勤続30年も越えたとしていきなりに会社を退職してしまった。
家族に相談もなくそんな事をすれば大学に通う娘の学費はどうするつもりか、ローンの残る家はどうするのか、明日からの収入はどうやって目処を立てるつもりかと共働きで苦労をさせている妻に責められる。
長く勤め上げた会社だったのだが、課長止まりでこれ以上の出世もあるわけもなく、若い役員が増える中、その話を聞けばお花畑のような理想論と他所の会社で聞きかじってきた経営者のノウハウを自分で考えたかのようにウンチク垂れる者、下がり続ける業績に頭を下げるだけの社長など、近い位置からそんな連中を見ていれば当然のように希望も夢もなくなる。
ふとした瞬間に「もういいや」と思ってしまったことが切っ掛けで辞表を出してしまったのだった。
随分と慰留を勧められたのだったが、心が離れてしまった会社から何を言われても気が変わることもなく、会社の下半期が始まる10月を前に離職してしまったのだ。
9月30日、残った有給休暇を使い切ることもなくそれまでに世話になったと思う同僚や先輩後輩を訪ね、挨拶を交したのちに未だ残暑の厳しい夕刻17時に二度と戻ることのない会社の正門を出た。
どれだけぶりか記憶にも無い定時退社に日はまだ十分に高く、空を見上げても朱に染まる気配はなかった。
自然と通い慣れた最寄りの駅に足が向かいそうになったのだが、このまま家に戻っても半年ばかり続いている家庭内冷戦に向き合うだけであるし、今日ぐらいは何か普段と違うことをしてもいいのではないかと根拠もない気持ちが秀治の心に湧き上がり、あえていつもの駅とは逆向きに足を向けるのだった。
いつもの駅へはダラダラ歩いて10分ばかり。
オフィス街から住宅街を抜けてとても小さな商店十数軒のアーケードを潜ると着けるのだが、逆に向かうとオフィス街から賑やかな繁華街へと繋がる。
こちら側が周辺地区の中心街となっており、この時間から随分と多くの人たちが多くの店舗を賑わしている。
老若男女それぞれに用向きを済ますため、食事の場所を求め、またはただその時間を楽しむために賑わいを作っており、往来の多さに驚くばかりだ。
秀治は誘われて呑みに出ることもほとんどなく、妻の支えになろうと夕食の買い物なども熟していたし、パチンコ屋などに通う趣味もなかったため滅多にこちらへ来ることもなく、思い出せば昨年末の忘年会以来だなと苦笑いを浮かべてしまった。
なんと自分は楽しみもない生活を不思議にも思わず続けていたものだと。
そして改めて思うのが、何をすれば良いのかわからないという事。
妻も決して仕事上がりが早いわけではなく、一人娘も大学へ通うために他県へ行っており、二人だけの夕食はそれは味気ないものでもあった。
いつも2割引のシールが貼られた惣菜や簡単な煮炊きで出来るモノしか互いに用意しないようになり、ただ食事を摂り、腹を満たすだけのイベントとなっていたからこそ今日ぐらいは何かしてもと思ったのだったが、雑踏を前にしてつまりは行方を失ってしまったのだった。
「俺の楽しみって何だよ」
口に登らせると情けない事この上ないのだが、通う飲み屋もないし、行きつけの食事ができる場所もない。
スクランブル交差点で信号を待つものの向かいに渡るのが正解か、斜めに横断するのが正解なのかそれさえも判らなかった。
東西に走る幹線道路を南側へ渡ると意味もなく決め、信号が青になったところで踏み出した。
その秀治の耳にやたらに大きなブレーキを踏んで鳴らすタイヤのスキール音が飛び込んできたのだ。
「あいつ赤信号で!」
誰かの叫び声が耳に入る。
どいつだよ?という思いと今は青信号じゃないかという解釈が矛盾に感じられ、足を止め周囲を見る。
片側4車線の広大な道路へ一人歩き出しているのは他ならぬ秀治であり、どの方向の歩行者用信号機も赤であった。
赤信号でクルマの走る道路へ歩き出していたのは自分ではないか?
バカなと。
歩行者用の信号は青に変わっていたではないかと。
自身を肯定するも改めて見る限りは歩行者用の信号は赤で、自分は交差点のいいほどの所まで歩き出しており、目前には大型の長距離トラックが迫り来る様子が確認できた。
「小説みたいな展開だよな」
秀治の現世での最後の言葉は短いものだった。
これは死んだな。
痛みも衝撃も感じる事なく自我を再認識した秀治は自分の体を確かめる。
ヨレたスーツに薄水色のカッターシャツ、紺のお気に入りのネクタイを締めている自分の姿を目視で確認した。
「轢かれた?」
無意識に口から溢れた独り言のつもりだった。
「ええ、思う存分に大型車両に踏み潰されましたね」
涼やかで抑揚の少ない言葉が突然に返され、え?とばかりに声の主を探す。
自分は倒れていたわけでも座っていたわけでもなく歩いていた最中の姿のままだったのだが、その背後からかけられた声の主以外に人の気配は全くなかった。
脊髄反射で振り返った秀治の視界には透き通るような銀の髪を長く伸ばし、光に満ちた琥珀色の瞳の女性が一人立っていた。
身なりは透けそうで透けない薄桃色の一枚布で作られた民族衣装のようであり、腰に蔓草で編んだような腰帯を巻いた出立だ。
ティアラや冠のような物も着けておらず、イヤリングやネックレスのような装飾品も見当たらない。
随分質素な人だなと失礼なことを考えたのだが、口にはしなかった。
であるにも関わらずその女性は半眼で睨み始め、腰に左手を当て、右手を自分に向けて指を突きつける。
「ぼうっとしているから死んじゃうんですよ?予定にないようなことをしないでいただけますか!?」
いかにも怒ってますという雰囲気を身に纏った彼女が言うには、信号を無事に渡りチェーン店のラーメンを食べ、結局することを思いつけずにうちに帰るはずだったのだと。
であればどうして自分はあのタイミングで道路に踏み出してしまったのか。
歩行者の信号が青になったという錯覚は完全な俺の勘違いということだったのだろうか。
思案にふける俺に後ろにいた女性は回り込むように正面に立つ。
「ちょっと、私の話、聞いてます?」
少しばかり言葉に剣を含ませ、問いただすようににじり寄る。
確かに話は聞いていたようなそうでもないようなと、改めて女性の目を見返すと彼女は身を起こしため息をついた。
「少しばかりあなたの行動に疑念がありはしますが、亡くなられた事実は変えようがありません。」
死んだ事実は覆せないという彼女は今後の選択肢を示すという。
1.あの世へ渡り次の生を待つ。
2.別の世界へ渡り別の人生を歩む。
え?そんな選択肢があるのか。
そう問えば、多くの場合は次の生を目指す選択をするそうだが、最近は別の世界へ転生したり転移したりする者が増えているのだと聞かされた。
今生に未練を残すものも多いのだが、叶わないと知ったほとんどのものたちは新しい人生を次の生へと期待するらしい。
それが、最近は転生モノや転移者として召喚される題材の小説などが増えているせいか、別の世界へ記憶を残して生まれ変わりたい者が非常に増えているのだと。
女性は聞こえるかどうかギリギリの小さな声で「記憶が残っていることなんて滅多にないんですけどね」と、こぼした。
「では、転移であれば記憶や知識は持っていけるのだろうか?」
「もちろんこれまでの経験や知識はそのまま維持されますけど、あまりそちらを選択する方はいらっしゃらないんですよ」
何故かと問えば、55歳の俺がこのまま転移したとする。
容姿も加齢による身体的な衰えもそのままに。
行き先となる世界がどのような社会システムを持っているか判らないにしても、55歳の中年オヤジが新しい生活を始めるのは並大抵ではないだろうと。
何をするにしても老い先なんて知れており、すぐに自活できなくなるだろうと。
剣と魔法の世界だったらどうだろうか。
魔物に襲われたときに身体能力の衰え始めた自分が闘って倒すことができるだろうか。
他にもメタボな体をそのままに新生活などしたくないだの、不細工なままでやり直すのはごめんだと口走る者たちも少なくないそうだ。
「まぁ、そんなことを口走る連中なんて大概が前の人生から逃げてきたような方ばかりなんですけどね」
意外と毒を吐く。
などと感心しつつも耳を傾けた。
自分はどうしたいだろうか。
改めて考えてみると死んだからには残してきたものに対して出来ることなんて何もない。
生まれ直してみてもまたこの社会システムに並び直すような事になるのであれば思いだせるだけの苦労をもう一度する事になるのだろう。
そう思うと輪廻の輪に戻るという選択肢はないような気がしてくる。
翻って異世界でやり直すというのはどのようなモノなのだろうか。
赤ん坊からやり直して力のないうちに飢饉や戦争に巻き込まれるとか魔物に襲われるとかはないのだろうか。
そんな世界だとしたら生き残れる気がしない。
ぐるぐると思考を繰り返してはみたが、今のまま異世界に行って短い人生をトライしてみるのもアリかも知れないと思い立つ。
自分が生きていけそうな世界だったらその次こそ赤ん坊からやり直してみればいいと考えてみたのだ。
「別の世界というのはどんなところなのか聞かせてはもらえるのか?」
長考に付き合ってくれた女性はその問いこそを待っていたと手を叩く。
「それこそ無限にありますよ。
あなたの想像を遥かに超える世界がどこにでもあり、そこで生きる者たちには別の世界など見えはしないでしょうが、人生を終えると必ずここにやってきて私の問いに答える事になるのです。
良い世界で人生を終えた者であればまた同じ世界でやり直しますし、生きづらい世界を経験した者たちは別の世界を望みます。
今のあなたのように考えて結論を出してくだされば希望には添いますよ」
「お忙しそうですね」
「ええ、おかげさまで。あなたの後ろにも順番を待つ数億とも言える魂が並んでいらっしゃいますとも。
とは言え、ここに時間の概念はありませんからいくら待っても長いとは感じないでしょうけど」
なるほどと納得する。
「それであなたはどのような選択をされますか?」
「このままで別の世界へ行かせてくれませんか」
少し驚いた表情を見せたものの、女性は最終確認ともう一度尋ねてくる。
「本当に今のままでよろしかったかしら?」
俺が頷いて答えると受理したとばかりに頷き返してくれ、左手を俺にかざし何事かを呟く。
それだけで俺の体が淡く光だし、輪郭が曖昧になり始めた。
「良い人生を歩めますように」
女性が最後にそれだけいうと、足元が抜けたような浮遊感を覚えた。