帰還の魔法
エマは体を起こして、ベッドの反対側を見た。
そこには夢魔の魔族がいた。
エマはまっすぐに背筋を伸ばすと、夢魔に相対した。
「私はヴィオレットの森の『扉の魔女』。あなたは?」
「私は、夢魔ホネスト」
彼が名前を名乗ったことに内心驚いていると、
「『扉の魔女』の魔法は知っている」
と言われて余計に驚いた。『帰還の魔法』は相手の名前を知っていれば、強制的に魔界に送り帰せる。
「楽しかったけれどそろそろ終わりにしようと思う。私を魔界に帰してくれるかい?」
「自分で人間界に来たなら、自分で帰った方がいいんじゃないかしら?」
「せっかくだから『扉の魔女』に頼みたい。こんな機会は二度とないだろうしね」
彼は、長い腕を大げさに広げて肩をすくめた。
周りを見ると、辺境伯一家もピエールも、タクトも、皆こちらを見つめている。どうやら今のホネストは誰の目にも映っているようだった。
ホネストはゆっくりとベッドを回り込んだ。エマも彼を迎え、部屋の中央まで歩く。ブリジットのベッドの脇にセドリックとピエールが残り、他の人は壁際に下がった。
「ホネスト、ありがとう。楽しかったわ」
ブリジットが体を起こして、声をかける。ホネストはにこやかにそれに答えた。
「こちらこそ、短い間だったけれど楽しかったよ」
エマは二人がどのように過ごしていたのかわからない。ホネストはブリジットに夢を見せるだけではなかったのだろうか。
ホネストに向き合って、エマは両手をぱんっと合わせた。空気がぴんと張り詰める。森の湿った土の匂いを感じた。
森の中ではないのに、森にいるような気配にエマは微笑む。ヴィオレットの森は『扉の魔女』とともにあるのだろう。
風が巻き起こってふわりとエマの菫色の髪が膨らんだ。
ブーツのかかとを打ち鳴らす。きらりと飛び散った星は、消えずに浮き上がると、室内を照らした。
エマは宝石のように光る菫色の瞳でホネストを見つめる。ホネストは赤い瞳でエマを見つめ返した。本人が言っていたとおり、『扉の魔女』の魔法を楽しんでいるようだった。
集まった光を両手に乗せて、エマはホネストに放った。
「ヴィオレットの森の魔女が扉に命じます。夢魔ホネストを人間界から締め出しなさい」
迷子を送り帰すのとは少し違う呪文を唱える。
白い光がホネストを包み、閉じる扉の影になるように中央に収束していく。
光の中でホネストは胸に手をあて、紳士のような礼をしていた。
エマは彼に淑女の礼を返す。
光はすうっと閉じて、消えた。
ホネストの姿はない。
室内も元に戻る。風も土の匂いもない。森の気配はエマの中に戻っていった。
「エマ!」
駆け寄ったタクトがエマの背中を支えた。倒れそうな感じはしなかったけれど、うれしかった。
「ありがとう。大丈夫よ」
心配そうなタクトに笑顔を返してから、カイを振り返る。虎の姿の彼は、ホネストが消えた場所を検分して、大きくうなずいた。
「問題ないだろう」
「良かった」
ヴィオレットの森以外で魔法を使うのも、迷子じゃない魔族に魔法を使うのも、どちらも初めてだった。エマはほっと息をつく。
「エマ、ホネストにはもう会えないの?」
おずおずとブリジットが尋ねた。
エマは苦笑する。
「いいえ、呪文はあんな感じだけれど、そういう制限はできないの。彼が人間界に来たいと思ったらいつでも来れるわ」
「そう……」
ブリジットはまだ彼に会いたいのかと少し不安になったけれど、エマは何も言わなかった。
というより、何か言うタイミングがなかったのだ。
魔法の余韻もブリジットの発言も無視し、ピエールがブリジットに求婚したからだ。
「ブリジット嬢、僕と結婚してください」
ピエールに手を取られたブリジットは、真っ赤になってうつむいた。




