エマの旅立ち
大陸の北側に位置するアルダーギ王国。
ヴィオレットの森はその北西にある。
王国の建国よりもずっと昔――千年以上前から禁足地である森の全容は知れない。北にずっと行くと、一年の半分以上も地面が凍ったままだという極寒の国――トリマエスト王国。森の西は峻厳なマス山脈にぶつかり、それを越えた先はサキメキア王国だ。とはいっても、マス山脈どころかヴィオレットの森を抜けることすら不可能なため、ごくまれな西との行き来は国の南側に限られている。
エマはアルダーギ王国の王都で生まれた。王都は国のだいたい中央にある。ヴィオレットの森からは離れた場所だった。
雑貨店を営む両親のもと、次女として生を受けた。両親にも親戚の誰にも似ていないエマの菫色の髪と瞳に、家族は皆首を傾げた。
成長するに従って、動物と話をしたり、何もないところを見つめたりする娘に、家族は戸惑った。エマが見ていたのは、人間界に紛れ込んだ魔族や使い魔だったけれど、現代で魔界のことを知っているのは王族や貴族や研究者など一部の人間だけだった。
姉と区別されたり、辛く当たられることはなかったものの、両親は段々とエマを持て余すようになった。エマは人と違うことをするなと言い含められていた。
エマが五歳になったある日、ダーツ辺境伯が訪れた。
「菫色の髪と瞳は『扉の魔女』のしるしである」
重々しく話す辺境伯オーブリー・ダーツに、両親と並んで話を聞いていたエマはきょとんと目を瞬かせた。『扉の魔女』なんて聞いたことがない。
「人の言葉を話す動物と会ったことがあるかね? 空を飛んだり、突然消えたりする人とは?」
オーブリーに聞かれて、エマは両親を見た。禁止されている「人と違うこと」だからだ。質問されたのはエマだったけれど、両親は身を乗り出すようにしてオーブリーにうなずいた。エマの方は見もしなかった。
「ええ、娘はよくそんなようなことを言っていました」
オーブリーは一度エマに微笑んで見せてから、両親に顔を向けた。
「それは、この子が『扉の魔女』だからだ」
ヴィオレットの森の外周部分はダーツ辺境伯領に属する。近隣の村では、菫色の髪と瞳を持つ子どもが何十年おきかに生まれる。その子どもは『扉の魔女』で大事な役割を担っている。魔女の子どもは、ヴィオレットの森の中にある『魔女の家』に引き取られて修行をして、いずれ『扉の魔女』を引き継ぐ。そういったしきたりが千年以上前から続いているのだそうだ。
今の魔女が高齢なのに引き継ぐ魔女が現れず困っていたところ、王都の雑貨店に菫色の子どもがいると聞いてオーブリーはやってきたと話した。
おそらく両親のどちらかはさかのぼれば魔女の血筋に行きつくだろうとオーブリーは言ったけれど、両親とも心当たりはないらしい。
「大変申し訳ないが、ヴィオレットの森には魔女の後継が必要でな。エマを魔女の元に預けていただきたい」
満月と新月の夜は魔女は森から出られない、一般の人間は森には長時間いられないなどの制限はあるが、一生会えなくなるわけではない。一家で辺境伯領に引っ越したいなら援助は惜しまない。
オーブリーはそんな説明をしていたけれど、エマの両親は少しもためらわずにエマを手放した。
エマの希望を聞いてくれたのはオーブリーだけだった。
「君はそれでいいかな?」
エマが小さくうなずくと、オーブリーは両親に指示をした。
「このまま一緒に連れて行く。服や日用品はあちらで用意するので、荷物は最低限で良い」
従者に手伝うように命じて、オーブリーはエマを伴って家を出た。きっと彼は気を使ってくれたのだろう。エマの準備をいそいそと進める両親を彼女は見ていたくなかった。
豪華な馬車の座ったこともないようなふかふかの椅子に並んで座り、オーブリーはエマの気をそらすように話をした。
「今の魔女はもうおばあさんと言ってもいい歳なんだが、とても優しい人だよ」
オーブリーは金髪に青い瞳で、絵本に出てくる王子様のような色合いだった。エマの父親と同じくらいの年齢だろうけれど、全く印象が違う。両親の雑貨店は貴族が訪れるような店ではなく、エマが貴族と接したのは彼が初めてだった。
そんな貴族の見本のような容姿の人は、気さくに微笑んで、エマの両手を取った。
「きっと君と魔女は仲良くなれるよ。君には新しい家族ができるんだ」
「新しい家族?」
「そう。君のご両親とお姉さんは君の家族だ。いつまでもそれは変わらない。その上で君は『扉の魔女』と家族になる。……家族は増えるんだよ」
小さなカバンをエマに手渡してくれたのはオーブリーの従者だった。
オーブリーはエマを馬車から降ろさなかったので、両親と姉とは窓越しに別れの挨拶をした。急遽、学校から呼び戻されて妹のことを知らされた姉は呆然としているようだった。
辺境伯領までの旅の間、最初に泊まった宿でカバンを開けると、エマが気に入っていた服や髪飾りや人形は一つの抜けもなく全部入っていた。
よくわからないまま勢いに流されるようにここまで来たエマは、そのときやっともうあの家には帰れないのだと理解したのだ。