タクトとアリス
――『界の狭間』から落ちて、ヴィオレットの森にやってきて十年。タクトは十六歳になった。
もうこちらでの生活の方が長い。
昨年、『扉の魔女』ゾエが亡くなった。寝付くことが増えたと思ったらあっという間で、ある朝眠ったまま二度と起きてはくれなかった。
タクトはもちろん悲しかったけれど、それよりもエマが心配で仕方なかった。ふとした瞬間に泣き出して、そうでないときも呆然としていたエマだけれど、最初の満月の夜に迷子が現れて『扉の魔女』の仕事を迫られたことで立ち直ったようだった。
それから一年、タクトはヴィオレットの森の『魔女の家』で、『扉の魔女』を継いだエマ、魔女の使い魔のカイの三人で暮らしている。
「あれ? エマは?」
ヴェール村の商店にエマが染めた布を卸して、いつものようにアリスの店に行くと、さっそくそう聞かれた。
いつもはエマと一緒のタクトが一人で来たのだから当然だろう。
「今日は辺境伯家に呼ばれてるから、後から来るって」
「ふぅん。タクトはいいの?」
「ブリジット様のお招きだから、僕は行かない方がいいんだ」
騎士団の訓練に参加させてもらうのはまだ週に一度続いている。そのときはいいし、辺境伯オーブリーや令息セドリックに呼ばれたらタクトも一緒に行くけれど、令嬢ブリジットや辺境伯夫人サビーナに呼ばれたときは行かないことにしている。
今日はブリジットの社交界デビューの衣装合わせだそうだ。ドレスに使う布を依頼されてエマが染めたのは半年ほど前だ。出来上がったドレスを見せてもらうのだとうれしそうに話していた。
「タクト、ブリジット様に気に入られてるんだって?」
アリスはおもしろそうに笑った。
「誰から聞いたの?」
「ヴェール村から辺境伯家に働きに行ってる人がいるのよ」
「ああ、そう」
厨房で、アリスの父である料理長とアリスと最近結婚したばかりのドニに挨拶して、今日の一品を一緒に作らせてもらう。もう教えてもらうことはあまりなくて、二人分だと不経済になる材料を分けてもらったり、まとめて作った方がおいしいおかずを分けてもらったりするほうが多かった。
アリスは気にせずに、カウンター越しに話し続ける。
「ブリジット様のこと、正直どうなの?」
「面倒くさい」
「ひどい言い方ねぇ」
「正直にって言ったのそっちだろ」
昔からブリジットには好かれているような気がしていた。成長したら貴族の付き合いも出てきて自分のことなどどうでもよくなるかと思っていたのに、今でも続いている。
辺境伯家は『扉の魔女』の庇護者だ。アリス達領民とは少し関わり方が違うとは言っても、向こうは貴族だし気を使う。思い切り傷つけてでも断っていいならよほど楽なのに。それができないとなると避けるしかない。とはいっても、ブリジットはヴィオレットの森に来ることはないし、騎士団の訓練に顔を出すこともないから、それほど難しいことではなかった。一人で辺境伯家に出かけていくエマを待つ間少しやきもきするくらいだ。
ブリジットがデビューしたらきっと婚約者が決められて、どこかに嫁ぐのだろう。それまでの辛抱だとタクトは考えていた。
ピクルスにする根菜を切る役目をこなすタクトに、アリスはさらに話し続ける。
「ねえ、エマとは正直どうなの?」
「どうって?」
「結婚するの?」
「姉さんが望むならね」
「え、タクトはいいの? 好きなんでしょ?」
アリスはカウンターから身を乗り出す。ふと振り返ると、料理長もドニも興味津々でこちらを見ていた。
「僕は姉さんとずっと一緒にいられたらそれでいい」
エマはヴィオレットの森から離れられないから、タクトが出て行かなければそれは叶うのだ。きょうだい愛や家族愛だけれど、一緒に暮らすのに必要な愛情はある。無理に恋愛や結婚を迫る必要はなかった。
「エマに好きな人ができたらどうするの?」
「できないようにするから大丈夫」
「できないようにって、あなたねぇ」
アリスは呆れた声で、タクトを指さすと、
「エマを森に閉じ込めたりしないでよね?」
「しないよ」
本当はしたいけれど、エマに嫌われたくはない。
今だって、日常生活の世話を焼くことで、エマを囲い込んでいるようなものだ。タクトがいないと何もできないとエマに思ってほしかった。
「ゾエさんが亡くなったあと、しばらくエマが村に来なかったでしょ? あのときはすごく心配したんだから」
「うん。わかってる」
最初の満月までの数週間だ。あのときは、タクトが食べさせたり寝かしつけたりしていた。エマが心配だったし早く元気になってほしいと思っていたけれど、自分に全てをゆだねてしまっているエマに背徳的な満足感を得てもいた。タクトは、エマを誰にも渡したくないと思うたび、あのときの気持ちを思い出して後ろめたかった。




