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第21話  勇者は決戦へ挑む

「長い、旅路だったな……」


 そしてその日。アステルはその異様な城を見上げていた。

 黒く、灰色の混ざった雲の下。巨大な牙城が天を衝いている。


 ――《魔王城》。

 剣山の如く、鋭い尖塔。膨大に瘴気を吹き出す城壁。

 人間の骨で出来ていると思しき城壁は高く、険しい。この世の全ての悪意を集めたかのような禍々しい城がそこにある。


「ようやく、ここまで来た」


 アステルが呟くと同時――城から防衛の魔族たちが大量に押し寄せた。

 悪魔、魔獣、吸血鬼、巨人……最高位に近い個体ばかりが襲い掛かる。


「俺は強くなった――今更そんなものは通じない」


 アステルは跳躍。魔族の群れを一蹴――手刀と回し蹴りで魔族たちを薙ぎ払う。


「もう怖いものなど何もない! 俺は、魔王を討ち倒す!」


 城の中から紫の霧が噴き出す――幻惑や毒の霧だ。けれど問題はない。数々の苦難を経てアステルは状態異常の耐性も完璧、今さら城の防衛では倒れない。


「――ヌフフ! よくぞ参った勇者よ! 我が名は魔王軍幹部――《雷皇》のヴォルガ! 貴様の首を――げはぁ!?」


 地面から現れた幹部らしき魔族を、一撃で葬り去る。

 そのままアステルは背後へ魔術を使用――魔王城と外界を、完全に分断する。


「――[唸れ永遠の光壁よ、魔と聖も打ち払い、全てを守る檻となれ]! ――『セイクリッドウォール』!」


 超巨大な光の壁が創られ、外界と遮断する。

 それは、邪魔者を排除するための魔術だ。


 キティアナ、ゲーリッヒ、ネリネ、セバス――万一にも自分を慕う者たちが魔王城に入ってこられないよう、外界と城を遮断したのだ。

 ここから先は自分一人で戦う。誰にも邪魔はさせない。

 膨大な魔力のため、温存していた魔術だ。だがもう出し惜しみする必要もない。

 全て魔王を倒すために費やす。全力で魔王に決戦を挑むことに意識を向ける。


「待っていてくれ、ステラ。もうすぐだ――」


 アステルは、群がる魔族どもを叩き伏せ、魔王城へ飛び込んだ。


 

「報告! 勇者が『猛毒の間』を突破しましタ!」

「ひいいい!? 強すぎる! 幹部ヴォルガ様を瞬殺!? 門番の《ゲリオベート》様と《デルベル》様も駄目です、げ、迎撃――追いつきません!」

「進撃速度が速すぎマス! 『獄炎の間』、『暗獄の間』、『流獄の間』――全ての罠が突破されましタっ!」

「そんな!? 自信満々に勇者の首を取って来ると行った、《将軍》ディルデウス様すら、木の棒で一撃だと……っ!?」


【――クククッ、ハハハハハッ!】


 配下の悲鳴と驚愕をよそに、《魔王》は玉座から哄笑を響かせる。


【良い! 全て良い! 流石我が宿敵よ! 踊るがいい――勇者よ! 余を滅ぼすために!】

「し、しかし魔王様、このままでは城の全防備が壊滅に! ただちに対策を考えるべきでハ!?」

【愚かなり――それは下策だ、我が下僕達よ】


 怯える側近の骸骨貴族たちをよそに、《魔王》は呵々大笑する。


【勇者は世界の果てより馳せ参じた。これを迎えずして何とする? 余は闇の覇者、《魔王》なり! それが逃げる事――それこそ勇者に対する侮辱よ】

「し、しかし! このままでハ勇者は――」


 突如《魔王》が虚空より巨大な闇色の鎌を取り出すと、側近の魔族を頭から両断した。

 砕け散ち、床に散乱したその体を見て、残る側近たちが震える。


「ひいいい!? ま、魔王様!?」

【まだ余に恥をかかせる者はいるか? 良い、申し出てみよ。余の『断罪の覇王鎌』に斬られたければな】

「――め、滅相もございません! 我ら配下は、魔王様の命令は絶対です!」

「我が主たる魔王様は、絶対にして不可侵の存在!」


 上位の魔族たち十数体が、一斉に頭を垂れる。

 《魔王》が上機嫌に嗤った。


【良い。許す。貴様らの忠義、余は満足なり。我が名において命じる。――勇者と戦え。余と奴の決戦のため、その身を捧げよ!】

『御意! 全ては、魔王様のために!』


 上位魔族達が、一斉に頷いて玉座の間から離れる。

 勇者のいる区画へ《転移》し、死闘の只中へ飛び込んでいく。

 それを見て、《魔王》は愉快そうに嗤う。


【ああ、待ち遠しい! 来る――我が宿敵が! 余を倒すために!】


 《魔王》は、嬉しくてたまらない。


 『怨念や妄念、負の感情を取り込むほど強くなる』のが今代の《魔王》の特性だ。

 その力は、忠実な配下が倒れれば倒れるほど増す。

 すでに先日の奇襲より強大な力を得ている。今日までに、そして今も倒れる配下達の命によって、《魔王》はかつてない程強大になっていた。

 今代の勇者は、歴代最強と聞く――。

 ならば自分こそ、歴代で最強の《魔王》だ。


【さあ来るがいい、勇者よ! 余と踊ろうではないか! 死と混沌の舞い――フフハハッ、待ち遠しくてたまらぬ!】


《魔王》は笑む。最高の状態で、最高の死闘を演じられる事に。

 長い紅色の舌を剥き出しに、闇の帝王は大笑した。


 

「――ここか?」


 最後の門番である魔獣を撃破したアステルは、巨大な扉へ辿り着いた。

 巨大な扉を見上げる。木の棒で思いっきり叩きつける。

 人骨をオブジェとした大扉は、轟音と共に砕け散った。


 濛々と高く立ち込める粉塵の柱――その奥、玉座に腰掛ける、巨大な影が見える。


【よくぞ来た、勇者よ、余が愛する居城、その歓迎は楽しんで貰えたかな?】

「ふん……っ」


 アステルは持っていた木の棒を投げつけた。

 粉塵を切り裂き赤絨毯を薙ぎ払い、猛烈な衝撃波と共に木の棒が飛んでいく。


 しかし――。


【フフハハッ! ……言葉も交わさず攻撃とは無粋だな?】


 木の棒は《魔王》は嗤いながら小指で打ち払い、粉々に打ち砕かれた。


【前口上は戦士の美学――それをせず奇襲とは、品位に欠けるのではないか、勇者よ?】

「[打ち払え聖なる雷よ、雷速の聖刃]! 《シャインスパーダ》! 《セイントソード》!」


 間髪入れず、アステルが唱えた聖なる雷と聖なる刃が《魔王》へ襲い掛かる。


 しかし、そのどれもが《魔王》の肌に触れる前に霧散し、掻き消えた。

 魔王の防護――《常闇の瘴気》と、《宵闇の羽衣》の効力だ。


【なるほど、寡黙を美とする勇者か。ゲーリッヒが言っていたな。今代の勇者は、無口で苛烈だと】

「(いや、しゃべるの苦手だから攻めたんだけど……何か勘違いしてないか?)」


 何にせよ、勘違いしてくれるのなら話は早かった。

 アステルは先手必勝――全身から《闘気オーラ》を解放する。


 抑えていた力が解放され、石畳が吹き飛び、天井が余波で弾け飛ぶ。

 魔王城の上空――黒と灰色の雲が見えた。アステルの闘気が、雲を突き破り、空へと高く伸びて、上空高い雲を吹き払う。


《魔王》の目が、愉快そうに細まる。


 先日の、『塔』以来の戦闘だ。

 だがあの戦いとは異なる。あの時アステルは、『最低限』の力で戦った。塔への被害を考えたためだ。


 けれど今は違う。巻き込む相手もなく、立ちはだかる障害もない。

 《魔王》を倒せば――全てが終わる。だから、万全の体勢で挑む。


「(――見られるの恥ずかしいから、一瞬で仕留める!)」


 アステルはキティアナから託された霊剣――《ヘレスティナ》を抜刀する。

 輝く勇者の闘気を受け、霊剣が煌々と輝いていく。


【フフハハ! 素晴らしい剣! そして闘気よ! 塔での戦いすら抑えていたか! クク、さあ踊ろう、死の舞を! 貴様の全てを、余に見せてみよ!】

「はああああっ!」


《魔王》が黒い轟炎を吐き出し、アステルが霊剣を構え突進する。

 世界の命運を分ける死闘が――ここに幕を開けた。


 

 先手必勝――。


「――[逆巻く炎よ、燃え上がる火の柱よ、紅蓮となり魔を焼き払え]! 《イグニスバースト》! 《ブレイズブレイド》!」


 開戦と同時、アステルが火炎魔術を炸裂させた。紅蓮が魔王城を揺るがし、大爆発を引き起こす。

 さらに立て続けにアステルは螺旋の猛炎、巨大な火柱を叩き込む。猛烈な熱波が辺りを蹂躙し、紅蓮の炎が支柱に何本かと溶かし尽くす熱量となる。


 それを《魔王》が相殺。暗黒色の球体を数十個生み出し、全て打ち消した。

 光と熱が飛び交う。熱波が奔る。

 それを突き破り、アステルが魔術の炎剣を投擲。


 同時に、左手の親指で第一の呪文を描く。

 人差し指で第二の魔術、中指で第三の魔術を――計五本の指全てでそれぞれスペルを完成させ、『一度に五発』の火炎魔術を発動させる。


「――焼き尽くせ、《バーングリエイド》! 《エクスプロージョン》! 《アロウオブイグニス》! 《フレイムゲイル》! 《グランブレイズバースト》!」


 それぞれが火炎系の上位に属する、高等な魔術だ。

 勇者とは、全ての属性を操る、最強のクラス。炎、氷、雷撃、土、光、風――全てにおいて完璧に操る。


 加えてアステルは、長い独り旅の中で、一度に複数の魔術を撃てるようになった。

 通常はあり得ないはずの五発同時魔術――灼熱の巨大柱が、紅蓮の爆発が、猛熱の風が、逆巻く豪熱が、怒涛の猛炎が、《魔王》へと直撃し、大爆発が巻き起こる。


 単発だけでも街一つを焼き払う大魔術。並の魔物なら消し炭一つ残らない。


 しかし――それを受けてなお、《魔王》は傷一つ負っていなかった。


 《常闇の瘴気》と《宵闇の羽衣》――二つの防御が掻き消したのだ。

 笑いながら《魔王》が、四枚の翼を、不気味に羽ばたかせる。


 直後、雪崩の如く、視えない『振動波』が暴風となって荒れ狂う。


「(ちっ、厄介な!)」

【フハハ! [――邪なる旋律を奏でよう、光の使徒を打ち砕け]! 《ネビュラオブカーズ》!】


 振動崩壊を起こす暗黒魔術が、アステルへ襲いかかる。

 アステルは左手だけで描いたスペル――五つの『風魔術』で相殺、さらに《魔王》の体へ回り込み、火炎魔術五発を炸裂させる。


 小山なら吹き飛ばす程の上位魔術だ。

 しかし《魔王》の体は小揺るぎもしない。

 そればかりか、ますます魔力が高まり――。


【フフハハ! 楽しいな、楽しいぞ、勇者よ!】


 邪気が、触れただけで溶かす黒い邪気が、無数の触手となりアステルへ踊り掛かる。

 アステルはそれを横に跳び回避。

 過去に戦った植物系の魔物から、軌道を予測。滑るようにすり抜けていく。


【ハハハハッ! 見事だ勇者! 余の攻撃、これほど容易に凌ぐ相手はいなかった! だがこれはどうかな? [――呪禁なる屍の鬼神を招待しよう、其は暴虐の使徒、暗闇の――】

「《イグニスバースト》! 《ブレイズブレイド》! 《バーンクリエイト》!」


 大笑する《魔王》のもと、アステルはさらに魔術を発動。

『土魔術』を詠唱で発動させ、左手で『氷魔術』のスペルを書き、立て続けに連発する。


「――[不滅なる土の神槍よ! 永遠なる氷河の烈槍よ! 氷麗の冷剣よ]! ――《グランドボルグ》! 《フリーズンゲイル》! 《スノーフランベルジュ》ッ!」


 土の巨大槍が、氷の暴風が、雪の大剣が、秒間五十発ずつ生まれ《魔王》へ炸裂する。

 けれど、そのどれもが《魔王》に無効化される。瘴気と羽衣に阻まれて届かない。


「(さすが最強の護り――なら、これはどうだ?)」


 迫る魔王の闇の触手を避け、アステルは跳躍。そして詠唱――。


「[無限の幻霧に迷い狂え]! ――《イルミスト》! 《パラライブロウ》! 《コンフュリヒト》! 《スリプレド》!」


 幻や麻痺の風などを誘発させ、《魔王》を翻弄する魔術だ。


 腕力や防御に秀でた魔族も、関節攻撃には弱い。どんな精強な魔族でもこれに全て耐えきる者はいなかったが――。

 しかしそれでも《魔王》には何一つ効果がない。


【フフハハッ! 小技で余を害するなど笑止よ! 勇者なら力で穿ってみよ! ――ハアアアアッ!】

《魔王》の口から、濁流の如く獄炎が吐かれた。


 とっさにアステルは上に回避。自身に《速度倍加》の魔術を付与させる。

 雷速をも超越したアステルが、《魔王》すら視認困難な速度となり、斬撃を放つ。


「――はあああ! 『聖覇斬』!」

【フハハ! 軽い、軽いな!】


 黒炎が空間を支配し、玉座の間を融解する。壁や柱を駆ける中、アステルはさらに《防御倍加》、《魔力倍加》、《腕力倍加》――三重の強化をかけ、《魔王》へ突貫。


「――闘技! 《穿光烈神突》! はああっ! ――[凍て付け夢幻の刃]! 《フリーズンブレイド》!」


 アステルの波状攻撃。秒間九百発の剣閃が翻り、巨大な氷の剣が空間を断絶するかのように叩きつけられる。直後、霊剣ヘレスティナが『斬撃二重化』の効力を発揮させ、同じ斬撃を発生、《魔王》へ躍りかかる。

 しかし、それですら《魔王》には無傷。力を倍加させたところで効果は薄い。


「(――それならっ!)」


 アステルは新たに魔術を詠唱――。


「――[砕けよ無敵の鎧! 魔を崩す聖なる光となれ]! ――《アマルパージ》!」


 アステルの左手から、猛烈な光が迸る。光は《魔王》を包み、邪気を弱まらせ、弱体化。直後、アステルが突貫し斬撃で《魔王》を吹き飛ばした。


【ガアアアアっ!?】


 大上段からの斬撃が《魔王》に悲鳴を挙げさせる。背後の玉座を砕き、弾け飛ぶ。十本の支柱が壊れ四散する。

 瞠目の表情で、《魔王》は翼を展開、宙へ滞空するが――。


【なんだと? 余の体が……!?】


 バラバラと、《魔王》の体中の突起が、砕けていく。

 肩に生えていた多数の『突起』のうち半数が崩壊――無数の破片となり床へ散乱する。


「(ようやく通じたか)」


 アステルは確信する。《魔王》の守りは確かに鉄壁の防衛だ。


 だが無敵の生物が存在しないように、あの防りにも綻びがある。

 それが、『弱体化』の魔術だ。

 《魔王》の《常闇の瘴気》と《宵闇の羽衣》は減衰魔術に弱い。一時的に『防御力を下げる』魔術によって、瘴気と羽衣の効力は減退し、ヘレスティナの斬撃が通じたのだ。


 本来はそれでも微々たる効果なのだが、アステルの絶大な力は、《魔王》の守りを無理やりこじ開けた。


【ク、フハハ……っ、ハハハハハッ!】


 魔王は嗤う、愉快そうに、幸福そうに。


【力こそ正義。力こそ至高よ! だが勇者よ! だがそれで余が倒せると? 余は万物の王! 魔族の統率者なり! 生半可な力は通じぬ。喰らえ――[這い回れ混沌の闇よ、万物全て、我の下僕となれ]! 《テラーオブスキュラ》!】


《魔王》の邪気が膨れ上がり、無数の《黒刃》となってアステルへ殺到する。

 さらに、天井、壁、柱……あらゆる所から無数の《触手》が生えていく。


「(ちっ、魔王の触手責めとか、冗談じゃないぞ!?)」

【余を滅ぼす事は誰にも叶わない! ハハハハハッ! 貴様は負ける! 余に負ける! 我が力が、我が魔力が! 数万、数十万の暴力となって、貴様を滅ぼす!】

「(どうかな? 焦っているのが判るぞ、魔王!)」


 アステルは《速度倍加》の魔術を自身にかけ、閃光のように突撃。


 《魔王》の無数の黒刃を避け、触手を避け、あるいは剣で弾く。

 同時――火炎魔術で焼き払いながら、跳躍。猛々しく詠唱する。


「[鈍れよ暗黒の脚甲! 我が空域に集まり魔を滅せ]! 《アクセルパージ》! 《シャインヴォルト》っ!」

【小癪なりっ! ハアアアアッ!】


 『俊敏性』を下げる魔術が《魔王》を鈍らせ、さらに聖なる光の雷が炸裂。真っ直ぐに《魔王》へ突き刺さり爆発する。


【グウウオオオオオオ――ッ!?】


 猛烈な白光が、辺りへ広がり、《魔王》の黒刃と触手を薙ぎ払う。

《魔王》は動きを鈍らされた。守りも弱体化した。


 そこを聖なる雷で貫かれ、初めて膝をつく。


【ハハッ……! まだだぞ、勇者! また終わらぬ! もっと鮮烈に、もっと熾烈に! ――[英傑の死、我が峻烈なる一撃にて喚起せよ]! ――《ペインオブウェイブ》!】


 塔の時も使われた、《黒き熱線》が、広間を十重二十重に焼き払う。

 黒い花畑のようになった黒花から、一斉に熱線が迸る。

 アステルも応戦。聖魔術で相殺し、あるいはヘレスティナで弾き、『闘気オーラ』の防護膜で凌ぐ。


「――《シャインヴォルト》! 《シャインヴォルト》! ――光よ、光よ、我が前に収束せよ! ――《グラン・シャインヴォルト》ォォォッ!」

【――邪なる旋律を奏でよう、光の使徒を打ち砕け! 《ネビュラオブカーズ》! 《テラーオブスキュラ》ァァア!】


 幾筋もの雷が、《魔王》を打ち据え、さらに極大の雷が《魔王》の痩身を焼き払う。

 同時に、《魔王》の闇の吹雪が吹き荒れ、アステルを吹き飛ばす。


 互いに一打浴びた、相打ちだった。


 そして結果として、弾け飛んだのは――《魔王》の方だ。

 未だアステルは、《闘気》の防護膜で無傷――傷一つ負っていない。

《魔王》は防御力を減らされ、動きを鈍らされ、まさに満身創痍。


 アステルは、自分へ《腕力強化》魔術を重ね掛けする。山すら砕く攻撃が、さらに強く、極限まで高められていく。


「(――この一撃で決める!)」


 気力を込める。魔力を込める。圧倒的な闘気をも受けた霊剣ヘレスティナが、白く眩く白光する。

 ――これを外せば体勢を立て直される。

 いや、配下を呼ばれる可能性もあるだろう。


 この好機を逃さない。アステルは左手で五つのスペルを書き、『氷魔術』、『土魔術』『風魔術』など――即席の魔術による『檻』を創り、《魔王》を閉じ込める。


【ぬうう、小癪な!】


 回避を許さないアステルの魔術の『檻』によって、《魔王》が一瞬硬直する。

 アステルは呼気を吐く。正眼にヘレスティナを構え、両手で水平に刃を傾ける。――直後、全力かつ、最大の一撃を発動させる。


「はあああああああっ! ――闘技っっ! 《翔覇獅子皇斬》――――っっっ!」

【させぬっ! ――《ペインオブウェ――】


 アステルは全力で疾走――《魔王》の豪炎や触手を紙一重で避け、跳躍。渾身の一撃を《魔王》へ炸裂。その身を大きく弾き飛ばす。


【グッ――アアアアアアアアアッ!?】


 会心の、一撃だった。

 アステルが直撃させた斬撃は完璧だった。へレスティアの特性で『二重化』された斬撃は、《魔王》の顔面を打ち払った。

 遥か後方の柱へ激突する、《魔王》。盛大な音と共に、支柱の数本が砕ける。


 舞い上がる土埃――濛々と、辺りに広がる粉塵が増し、地響きが辺りを覆う。


「――さあ、とどめだ、これで世界に平和を――」


 アステルが、さらに追撃を仕掛けかけた。


 ――刹那。

 アステルの背筋に、怖気が走った。

 バラバラと、《魔王》の皮膚が、剥がれていく。


 首、胸、肩、脚、尾、翼――まるで砕けた硝子のように、黒い体のあちこちが崩壊し、剥離していく。

 その下――現れた、あり得ない『光景』を前に、アステルは戦慄した。


「嘘、だろ……?」


 それは、美しい少女だった。

 肌はきめ細かく、まるで雪のよう。銀細工のような滑らかな髪は銀色に輝き、どこか神秘的。そして儚げで華奢だが、信念ある瞳。


 それだけなら、アステルは驚愕しなかっただろう。

 仮にも彼は勇者だ。戦闘中にどんな美少女が現れたとしても、驚きはしない。


 例外は、たった一つだけ。

 それが見知った顔の、『彼女』だった、場合だけ。


「そんな、馬鹿な……」


 アステルの瞳が、大きく揺れる。


「まさか……こんな……っ」


 硬直し、霊剣を固く握り締めるアステルは、



「――お前は、ステラ、か……?」



 それは――あり得ないはずの光景。

 けれど、見間違えるはずもなかった。


 可憐で美しく、そして魅力的な《魔王》は――。


「あはは、『鎧』が壊れてしまいました。すごいですね、勇者さん!」


 死んだはずの――かつての恋人、『ステラ』だった。



†   †



 それは、偶然と呼ぶにはあまりに皮肉な結果だった。

 ステラはあの後、転生神殿で願われた後、魔族へと『転生』。

 そして、有り余る魔力と殺意のもと、魔族の頂点まで上り詰めた。

 先代の《魔王》を倒し、新たな魔族の支配者となった。


 皮肉としてはあまりに残酷な話。

 最愛の少女が、最悪の存在となって立ちはだかる――その、運命に――アステルは歯噛みした。



†   †



「(あり得ない……っ)」


 まずアステルは幻惑を疑った。魔王の幻術、奇策、魔術具、それらを疑った。


「あはは! 素顔を見られてしまいました、けれど容赦しませんよ、勇者さん!」


 笑いながら次々と闇の魔術を繰り出すステラは本物と瓜二つだ。成長しているとは言え、その顔は、紛れもなく最愛の少女そのもの。


「(まさか、変身……? いや模倣の魔物か?)」


 いや違う。そもそも変身なら自分が見破れるはず。

 それに模倣が得意な《ミミック》などの魔物にしては、強すぎる。あの魔力、あの暴力、紛れもない《魔王》の技だ。


 《魔王》がステラに化けた可能性はあり得ない。

 ならば、ステラ自身が《魔王》だった可能性?

 それも違う。アステルを嵌めるために接近したとしても、時間が掛かりすぎるし、何よりアステルを殺す隙はいくらでもあった。


 ではなんだ、あれは? 幻影か? 空似か? それとも――。


「(――っ!?)」


 そのとき、アステルの脳裏に雷光が走った。

 ――それは、ステラが『転生』して、魔王となった可能性。

 あの日、大悪魔に殺された後、ステラは《転生神殿》の力で復活した。

 その後は《魔王》となり、猛威を奮っていた。


 あり得ない話ではない。『転生神殿』は復活すると記憶を奪われる。

 さらに復活する場所も選べない。どんな身分で生まれ変わるかは予測不能。

 運命の悪戯か、偶然か――ステラは《魔王》となり、魔族を率いていた。


 おそらく先代の魔王は、殺されたのだろう。過去の歴史において、《魔王》が二体以上いて、片方が滅ぼされた事例はある。

 人間の王が、たった一人ではないように。

 時代によって、魔王同士の殺し合いも起こり得る。


 あとは時系列の問題だ――ステラの死後、一時的に《魔王》が勢力を弱めた時があった。おそらくその時に《先代魔王》と取って代わり、《今代の魔王》となったのだろう。

 それが真相。状況からの結論。


「もう、なぜ避けるんですか? 戦ってください、勇者さん!」


 《魔王》ステラが不機嫌そうに言い、躍りかかる。


「せっかくここまで来たのでしょう? 避けるだけなんて弱虫なんですか? それともわたしの攻撃に臆した? そんなの、認めません!」


 黒い大津波が柱や床を腐食し、巨大な棘の嵐が空間を支配する。

 魔王へ転生したせいか好戦的になったステラが、黒い大剣でアステルへ斬りかかる。


「やめろステラ! これは全て間違いだ!」


 かろうじてヘレスティナで弾いたアステルが叫ぶ。


「お前は、ステラだ! 俺の恋した最愛の女なんだ!」

「? 意味がわかりません、わたしは魔王です。あなたの戯言には付き合いません。――[我が命に応じよ! 光の御子を滅ぼす軍勢となれ]! ――《ルナティック・ヘリヤル》!」

「違う、お前は――」


 直後、アステルの眼前に、巨大な沼が現れた。猛烈な勢いで『使い魔』が召喚される。その数、百、千を超え――黒い猫、黒い犬となって飛び出す――全て、小型の獣たち。


「っ! それは……っ!」


 アステルは硬直する。

 あれは、かつてアステル達が拾った『ペット』たちの幻影だ。


 形も姿も大きさも同じ。共に拾い、共に埋葬したペット達――それが、ステラの魔術により、一時的に『使い魔』として召喚された。


「やめろステラ! そんなの――」

「まだまだいきますよ! [来たれ暗黒の結晶の髑髏樹よ! 破滅をもたらす種子となれ]! ――《ルナティックシード》!」


 ステラの創り出した紫色の霧から、猛烈な数の果実が湧き出る。

 それも、かつての記憶の果実に酷似していた。かつて散々食わされた、《イビルアップル》の実だ。

 近づくと牙を剥く暗黒の林檎達が、濁流の如くアステルへ躍りかかる。


「なんて事だ……」


 アステルは悟る。

 もう、否定できない。


 もう、間違いない。あれは――ステラだ。

 二人しか知らないはずのペット。果物型の魔物。容姿。そして気配――。

 全てが告げている。ステラは――『転生して魔王となった』のだと。


「ステラ! こんな事はやめろ、無意味だ! 正気を取り戻せ!」

「さっきから何を言っているです? ……ステラ? それは誰ですか? わたしはヴェルステラ――【魔王ヴェルステラ】! あなたを倒し、世界を終焉に導く《魔王》です!」

「違う! それは違うっ!」


 黒い猫の使い魔とと黒犬の群れが襲いかかるのを避け、アステルは跳躍し背後に周りながら、必死に叫ぶ。


「その容姿も! その動物も! 全て一緒だ! かつてのステラと口調も変わらない……お前は、魔王なんかじゃない。お前は俺の――」

「くどいですね!」


 黒い猫と黒い犬が全て合体し、巨大な大鎌となる。それを手に取り、ステラ――《魔王ヴェルステラ》が、アステルへ肉薄、八百五十発の斬撃を乱舞させる。


「あなたの言うステラなど知りません。戯言はそこまでです、闘技――『轟魔烈麗斬』っ!」

「ぐううううっ! ――闘技、『剛流剣』っ!」


 咄嗟に振るったアステルの霊剣と、ヴェルステラの大鎌が激突。

 衝撃波によって互いに弾かれる。着地するアステルへ、さらにヴェルステラが詠唱。


「[震えよ我が大地! 光を飲み込む海嘯となれ]! 《ダークネスウェイブ》! 《ドレイクオブロード》!」

「その詠唱の癖、覚えているぞ! 何度直してもわずかに訛りがある――お前が野生児だったときの名残だろう!」


 なかなか覚えてくれなかった。元が野生児だったから。だから根気よく教えてあげた。それでも抜けなかった彼女の訛り。


「武器の振り方も一緒! 技ではなく力で振るおうとする癖! 野生に生きたお前の本能! 俺は全て覚えている! その口調、癖、ステラ――お前は生まれ変わったんだ!」

「野生児? 生まれ変わり? ――戯言をっ! わたしを惑わせ、倒すための布石でしょう?」

「違うっ!」


 アステルの叫びを一蹴し、さらに闇の大鎌を振り回すヴェルステラ。


「思い出せステラ! あの生活を、あの営みを! 山奥の、粗末な小屋で、俺たちは一緒に生活した! ペットを飼い、くだらない事で笑い、時には喧嘩して、夜には愛し合った――その生活を、忘れたのか?」

「世迷い言を! あなたなんて知りません! わたしに前世などありません。よもや、わたしの美貌に魅了され、おかしくなったんですか? だとしたら哀れな勇者ですね!」

「違う! ――くっ、どうすれば……っ!」


 今すぐ本気で力を出せば、おそらくヴェルステラには勝てるだろう。

 アステルは最強の勇者、その力は魔王をも凌駕している。手合わせして判った。


 けれど、それではヴェルステラを殺してしまう。

 再会した恋人を己が手にかける――そんな残酷な事はない。


 だが、手加減して戦うにも、実力が拮抗している。

 それに、増援が来れば実現はほぼ不可能だ。

 かつて腕の中で見た――ステラが死んでしまった光景が呼び起こされ――アステルの中で迷いが生まれる。


「そこっ!」


 ヴェルステラが可愛らしくウインクをすると、その片目が妖しく光った。

 瞬間、アステルに猛烈な睡魔が襲いかる。耐性を極めたアステルですら完全には凌げない、『状態異常攻撃』。


「ぐっ……」

「……驚きです。まさか『ナイトメアウインク』すら抗えるなんて……睡眠と悪夢を与える高位魔術なのに……凄いです勇者さん! 戦ってください、全力で! わたし、あなたの全てが見てみたいんです。お願いです――《ヘルエッジ・ディルコール》!」


 死闘を演じるために、大魔術を乱発するヴェルステラ。

 けれどアステルは避け、あるいはヘレスティナで弾き、回避するしか出来ない。

 魔術で陽炎を操り、分身を創り――消極的な回避が精一杯だ。


「(クソ! ……何かないか? ステラを救う方法は……っ!)」


 説得は応じない。気絶させる事も無理だろう。

 このままではヴェルステラから逃げる事も叶わない。いや、やろうと思えば出来るかもしれない。だが彼女はアステルが逃げた瞬間、地の果てまで追ってくるだろう。魔王軍を動かし、どこまでも追跡する。


 判る。彼女の行動など判る。

 変わらないから。彼女は戦いにおいて、アステルが、その強さを何より好いていた。

 だから、地上の人々を滅ぼしてまで追い回す。

 アステルをとことん戦おうと奮起する。


 けれど、そんな事はさせない。

 その過程で、キティアナ、ゲーリッヒ、ネリネ、セバス……旅で会った彼らに被害が及ぶ――そんな事は許せない。


 けれど――それならどうする?

 例え記憶がなくとも、彼女はステラだ。その笑い方も、仕草一つ一つが昔の彼女と瓜二つ。

 世界で一番大切な彼女を倒すなど――アステルには出来ない。


「いい加減にしろ! お前はステラだ! 俺の大切な恋人だ! 共に笑い、共に支えた恋人! 俺が何より大好きな――」

「くどいと、言っています!」


 漆黒の二つの大剣が、アステルの闘気の防護膜へ叩きつけられる。

 それを聖魔術で弾き飛ばしながらアステルは、


「おかしいとは思わないのか? その使い魔、その容姿、紛れもないステラの証だろう! それに、お前みたいな可愛い魔王、いてたまるかよ! その胸も、尻も、すごく魅惑的だろうが! くだらん幻想持ってないで、俺の元へ戻ってこい!」

「は、はあ!? 人の胸とかお尻だとか……変態です! 恋人だの可愛いだの……わたしを惑わす気なら、消し炭にしちゃいますよ!?」


 ヴェルステラの放った黒い大鎌が、アステルの防護膜を削り取っていく。

 ヴェルステラがキス出来そうなほど近く迫り、しがみつく。

 黒い雷撃と、黒い火炎と、黒い冷気が、アステルの防護膜と激突し衝撃音を奏でる。


「くそ! やめろ、ステラ、ステラぁ!」

「まだ言いますか! でもこれで終わりです! 勇者さんとの戦いは、わたしにとって悲願! でもそれを裏切ったあなたには死を! 万の魔術と、数万の呪いに抱かれて、あなたは滅ぶのです!」


 血塗られた数多の棘と、暗黒の茨がアステルを包み込む。


 こんな中でもヴェルステラはあくまで戦いに真摯だ。

 アステルが本気になるのを望んでいる。

 それはアステルという、強者への憧れや尊敬に根ざすためだろう。


 変わらない。その強さに対する渇望は、ステラだった時と瓜二つ。

 だからこそ判る。このままでは彼女はアステルが全力を出すまで戦って、戦って、辺りを更地に変えるだろう。


 一瞬、一つの誘惑が頭を過ぎる。

 ステラに抱きつかれ、延々と戦いを請われる姿。

 そうしているのも一興かもしれない。戦いの中で彼女と、いつまでも戯れ続ける自分。そんな、幻想――。


 それは、可能だろう。その途中、正気に返る可能性に賭けるのもありかもしれない。

 長い闘争の中で、彼女の記憶が蘇る可能性はある。


 けれど、それは賭けとも言えない妄想だ。

 そんなものに賭けて良いのか? その過程で、さらに魔王として悪化するのではないのか?

 様々な迷い、葛藤、何より、ステラが魔王として現れた動揺の只中にあったアステルは――。


 

「――はああ、獣神殲滅秘奥義っ! 《轟魔・覇王烈裁撃》ィィィィィィ――ッ!」


 

 瞬間、轟音と共に、身の丈百数メートルはあるかという『クマ』の怪物が、壁をぶち抜いた。


 直後、ヴェルステラを打ち払い、蹴り飛ばし、アステルのすぐ横に着地する。


「お前は……馬鹿な、《獣王》――ゲーリッヒ!?」

「はは! 覚えていてくれて光栄であります! 勇者殿! 遅ればせながら『助太刀』に参りました!」


 直後、魔王ヴェルステラが憤激と共に大量の『黒い触手』を解き放った。

 身の丈百数十メートルはある巨大クマは、それにもひるまず果敢に爪で薙ぎ払う。


「勇者殿! 貴方の危機を見過ごす私ではないのであります! 主が劣勢ならば助太刀するのが家臣の努め!」

「――愚かな、ゲーリッヒ! わたしの配下という身分を忘れ、愚かにも勇者に寝返るとは!」


 魔王ヴェルステラが決闘を邪魔され、憤激もあらわにそう怒鳴る。


「寝返る? ――ご冗談を。今でも私は魔王様の配下のおつもりです。……ですがあなたが、真の幸せを掴み取るため、勇者殿にも手を貸しているだけであります」

「なん、ですって……!?」


 直後、何本もの触手が薙ぎ払われ千切れ飛んだ。それは『催眠剣』『混乱剣』『麻痺剣』、様々な効力をもった六本の剣が、代わる代わる振るわれた――目の覚める剣の武闘。


 

「――それに、助太刀に参りましたのは、私だけではありません」


 

 瞬間、『きゃはははは!』という声と共に触手の群れが薙ぎ払われた。


 その奥に見えるのは『猫耳』を生やした少女だ。

 くるくると曲芸師のように跳び、両手に剣を持ちながら、長い尻尾と、猫の耳を持つ少女が、疾風のようにアステルの傍らへ降り立つ。


「――勇者様の弟子! 剣士【キティアナ】! 助太刀に参りました!」

「なっ、お前まで……!?」


 猫耳をぴんと張り、表情も晴れやかに笑う戦闘民族の少女に、アステルは驚愕する。


「お前、足手まといになるから退いたのではなかったか!?」

「えへへ、貴方が心配で来ちゃいました! ――勇者様の危機に私あり! 不肖、キティアナ、露払いも兼ねて参戦させて頂きます!」


 さらに直後――壁の一角が破砕された。


 その奥から現れたのは、金髪に紺碧の瞳を持つ、『エルフ』の少女だ。

 そしてその傍らには『執事』の青年。彼らは次々と魔術を放ちながら、触手の群れを打ち払う。


「『麗凛六花』が一角! ネリネ・リートノール、参上だにゃ!」

「同じくその従者、セバスです。――遅ればせながら、勇者殿、応援を!」


 《重力》魔術でネリネが触手を圧潰させ、セバスが白銀の剣閃を閃かせながら触手を両断する。

 魔術と剣術、反する特技を持つエルフの貴族とその従者が、にやりと笑い、


「触手は私たちに任すにゃ! 勇者様は魔王との戦いに専念してほしいにゃ!」

「ここは我らが援護を! あなたの本懐は魔王の説得でしょう!?」


 優雅に魔術と剣技を振るう二人に対し、アステルは、


「……ええと、ごめん、誰だっけ?」


「にゃああ~~~!? せっかく援軍に来たのに名前覚えられてないぃぃぃ!?」

「まあ……直接会話したことなかったですから……それとお嬢様、語尾に『にゃ』がついている時点で援軍としては微妙です」

「うるさいにゃ! 今いいところだから茶々入れるにゃ~~~っ!」


 怒鳴り合う二人を前に、アステルは、


「お前たち……だが解せんな、魔王城は俺の《結界》で封じてあったはず……」


 それに答えたのは剣を振るうキティアナだ。


「あ、それはですね、一ミリのほころびがあったので私がそれを見つけました!」

「それをさらに、私めが《巨神化》して、ぶち破ったであります。あとは道中――薙ぎ払うのみです」


 キティアナがストーカーらしい晴れやかな笑みで語り、ゲーリッヒが巨大クマのまま誇らしげにそう返答する。


「お前たち……」

「勇者様の危機は、私たちの危機! 貴方が劣勢となれば、たとえ世界の果てでも追いかけます!」

「お前たち……まったく、お前たちは……」


 いつも、どこでも、鬱陶しかった彼ら。

 食事を邪魔して、洗濯を妨害して、睡眠を邪魔して。


 けれど――今は、援軍が嬉しい。

 増援など、考えてもいなかった。思えばアステルはいつも独りで戦い、挑み、隣に誰かがいる状況など考えもしなかった。


 しかし今――それは覆されている。

 《獣王》にして巨大化した幹部ゲーリッヒ。

 《猫耳族》にして六つの特殊剣を操る剣士キティアナ。

 『麗凛六花』にして多数の魔術操るネリネとセバス。


 彼ら四人が、アステルの窮地を救うべく、馳せ参じている。


 誰かが隣にいること。背中を守ってくれること。応援してくること――それが、これほどまで嬉しい日が来るなんて思わなかった。


「――愚かな者達ですね!」


 魔王ヴェルステラが怒りに身を震わせながら吠え猛る。


「《魔王》と《勇者》の決闘に水を差すなど無礼千万! 戦士の風上にも置けません! そんな愚者は、わたしが排除します! ――[地獄の公爵に命令を! 愚かしいともがらに天誅を下す、闇の軍団よ来たれ!] ――《コールオブレギオン》!」


 突如、ヴェルステラを中心として『黒い髑髏軍団』が発生した。

 漆黒の軍団はキティアナを押しのけ、ネリネを弾き飛ばし、セバスを、ゲーリッヒまでも押しのけ、周りの瓦礫ごと飲み込み、全てを薙ぎ払わんとする。


「魔王と勇者の雌雄を決する死闘! それを邪魔する愚か者たち! 地獄の底で未来永劫、後悔するがいいです!」

「我らは不死身であります! なぜなら勇者殿あるところに我らもいるからであります! 勇者アステル殿が負けるなどあり得ない! ゆえに我らは不死身の援軍!」


 ゲーリッヒが押し流れされながらも怒鳴り、宣言する。

 そしてキティアナが、ネリネが、セバスが、声を張り上げる。


「そうです! 私たちは貴方と共に生き、貴方の作る未来の礎! だから臆することはありません、私たちは貴方の未来を担う、剣と盾なんですから!」

「にゃ~! でも私たちに出来るのは魔王の魔力を分散させるまで! 後は勇者様が魔王へ、説得を試みるにゃ!」

「勇者殿、私たちは貴方の追っかけですが、憧れでもあります。――世界中の誰もが、貴方を――『勇者アステル』の創る未来に、期待しているのです。――だから!」


 膨大な並と化した黒い髑髏軍団が彼らの姿ごと押し流す。彼らの応援を、声すら掻き消さんと怒涛のように雪崩込む。

 かろうじて、百数十メートルの巨大化ゲーリッヒだけが、頭の先だけを覗かせて、


「――ご武運を。我らは貴方の創造する新世界を、見てみたいであります」


 そして四人の援軍は見えなくなった。黒髑髏たちは巨大化したゲーリッヒもキティアナもネリネもセバスも飲み込み、どこか別の魔王城の部屋へと押し流す。


 ――残るは、アステルと対峙する魔王ヴェルステラのみ。

 《勇者》と《魔王》――世界最強にして不倶戴天の敵同士。


 けれどアステルはその時、風魔術で周囲の髑髏軍団を薙ぎ払いながら思っていた。


 ――確かに、ここでステラと一緒に居続ければ記憶は取り戻せるかもしれない。

 けれど、それで本当にいいのか?

 ここまで旅をしてきたのは何のため? 苦難を超えたのは何のため?

 すべて、彼女との幸せを掴むためだ。

 何もかも取り戻し、幸せを掴むためだ。

 彼女と共に、永遠と虚しい闘争を続けて、何の意味がある?

 ない。絶対にない。

 臭い沼地でキャンプしたのも、毒キノコで腹を壊したのも、海で溺れかけたのも、全てはこの日を越えるためだ。

 だから――。


「……俺は、」


 長い、長い旅をしてきた。

 その苦難は、一言では言い表せない。


「――俺は!」


 幾多の困難を乗り越え。

 苦しみながら突き進んできたあの旅は。


「俺は……っ!」


 世界を。

 たった独りで、旅したのは――。

 こんな救われない結末を、迎えるためではないから――。


「俺は――ステラを救う!」


 かつて共に歩んだ――少女との生活を取り戻すため。

 アステルは駆け――束の間、失われた彼女との記憶を思い返す。



『アステル、一緒にお風呂入ろ?』


『キモくなんかない。リーデルバッハ・ガレオンは、とてもキュート』


『うぅ……アステル……っ! ぐす……っ、アステルぅ……っ』


『あの……わたし、なんだか火照ってしまって……』


『ごめんなさい……アステルさんだけでも、逃げてください。わたしは――』


 

 もう一度、彼女の笑顔を見たい。

 もう、彼女いない世界はたくさんだ。

 世界が色あせていた光景など見たくない。

 だから今度こそ彼女を抱き締めるために。

 誰よりも、幸せになるために。

 そして、誰より大切なものを取り戻すために。

 アステルは――諦めない。


「ステラ――聞けっ!」


 爆発的な闘気が、辺りへ溢れかえった。

 猛烈な陶器オーラによる突風は、《魔王》の体も魔術も吹き払い、再び現れていた黒い猫や、黒い犬の使い魔すら弾き飛ばす。


「なっ!?」


 吹き飛ばされ、瞠目し、着地するヴェルステラは。

 霊剣ヘレスティナを構え、泰然と佇む勇者を見て――わずかに、震える。


「やっと……やっと、その気になったのですか?」

「そうだ。――済まなかったな、ステラ。散々待たせてしまって」


 アステルは進む。勇者として。恋人として。そして人々を救う唯一の存在として。

 ――魔王ヴェルステラを、その瞳を、真っ直ぐ見据え、吠える。


「ステラ! 俺は――お前の笑顔が好きだ! お前の抱擁も、クソ不味い料理も、下手くそな耳かきも! 全部、全部が好きだ! 生き甲斐だったと言っていい! だから――聞け! ステラ!」

「え、な、何……? 何を恥ずかしいこと言って……!?」


 先ほどとはまるで違う剣幕に、魔王ヴェルステラが戸惑う。


「お前の、その綺麗な瞳が好きだ! その白い肌が好きだ! お前の、間違って毒物を料理に入れる癖も、全く直らん夜這いの癖も! 風邪をひいて俺がぶっ倒れた時、間違えて毒草取って来たお茶目さも! 全部、全部が大好きだ!」

「な、な……何を馬鹿な……っ!?」


 狼狽えるヴェルステラ。そんな彼女に対し、アステルは肉薄し、細い腕を握りしめる。


「お前とのキスの記憶が忘れられん! お前との夜伽の記憶が色あせない! お前、俺がよせって言っても襲いかかってきたよな? 獣のように毎晩のしかかってきて、枯れるまで搾り取った! 俺、何度も死にかけたよ! 幸福過ぎてな! ――可愛くて、綺麗で、ドジで、野生児で馬鹿をするお前との生活! 俺はお前の虜だった。――お前、さっき変なこと言ったな? 俺が魅了されておかしくなったって。――馬鹿が! 俺はとっくにお前に惚れているんだよ! いいか、よく聞け! 俺は、いつでもお前の事が、大好きだあああああああああ――――――――っ!」

「な……な……な、え、なぁぁ!?」


 真摯な瞳に、困惑するヴェルステラ。

 アステルの訴えに、思わず頬を赤らめ、顔を逸らす。


「あ……う、うう……っ」

「お前の状態に気づけなかった俺を罵ってくれ! 馬鹿で愚かだと言って構わない! だが、これだけは言わせてもらう! ――お前は、俺の女だ! 運命だとか、転生だとかどうでもいい! 俺は、魔王であるお前を否定する! 魔族の覇者である事を否定する! お前は、誰でもない、最愛のステラ、お前の――恋人だっ!」

「な、なにを言って……っ、おかしいですよ、勇者さん……っ」


 反射的に《召喚》の魔術を用い、黒い犬猫を生み出すヴェルステラ。

 けれどアステルは、それらを素手で握り倒し、彼女を抱き締める。


「こんな紛い物の使い魔に囲まれるな! 思い出を魔王の魔術で汚すな! 魔王ヴェルステラだと? 寝言は寝て言え! お前は、魔王などではない! ――思い出せ、あの幸せだった頃を! エッチして、エッチして、エッチばかりだった、ろくでもない日々を! お前は、もう魅了されている! ――そしてもう、世界を陥れる魔王ではない! 可憐で、素敵で――俺の愛した、世界一可愛い、俺のステラだっ!」

「ふ、ふざけるのも大概にして……っ」


 ヴェルステラが思わず下がり、弱々しく反論する。

 本能的に何かを感じた彼女が、それでも《魔王》としての本能が彼女を突き動す。


「あなたの事なんて知りませんっ、わたしはヴェルステラ! 勇者を倒し、世界を滅ぼす《魔王》! それ以上でもそれ以下でもありません……そ、それ以上あたしを惑わすなら……バラバラにしちゃいますよ!」

「構わないっ!」


 びくうっ! とヴェルステラが驚く。


「え、え……?」

「それで終わるなら後悔しない! 俺は、お前に殺されるなら本望だ!」

「そ、そんな……っ」


 もう駄目だ、ヴェルステラは動けない。

 かろうじてアステルが放った霊剣と、ヴェルステラの大鎌が激突する。けれどそれまで。ヴェルステラの技に勢いがなく、明らかに彼女は動揺している。


「ち、ちがう、こんな、こんな……っ」

「お前と俺を阻むものがあるのなら、何だって越えてみせる! あとは何が必要だ? キスか、抱擁か? 一緒に風呂でも入れば伝わるか? ――お前が覚えていないのなら、何をしても思い出させよう! 元の、可愛い恋人に戻すために!」

「よ、世迷い言を……っ、わたしが人間だった? あり得ません、わたしは《魔王》! 《魔王》ヴェルステラ! 闇と、混沌と、破滅の覇王です……っ」


 ヴェルステラが震えながら魔術を放ち、闇の猛火と竜巻が渦を巻く。

 けれどアステルが氷の暴風を発生させ、辺りを吹き飛ばすと消し飛んだ。

 もはやヴェルステラに勝ち目はない。彼女の戦意は薄れ、徐々に隅に追いやられ、アステルの言葉と、その姿に翻弄されるしかない。


 やがて――決定的な隙が出来た。


 幾度となく交わされた、絶技の応酬の果て。

 アステルは、刹那に見せたヴェルステラの隙に、賭けに出る。


「(これ以上は、もう城がもたない……なら、後はこれしかない……っ!)」


 アステルの霊剣が、大きく弾かれる。

 しかしそれは罠だ。アステルはわざと力を緩め、ヴェルステラの隙を促した。

 突然力が緩んだ反動で、ヴェルステラに決定的な隙が生まれる。


「っ! しまっ――」


 驚くヴェルステラ。

 駆けるアステル。その――刹那にも満たない、僅かな瞬間で――。


 

 ――アステルは、ヴェルステラの唇に――自分の唇を、押し付けた。



「ん~~っ!?」


 ヴェルステラが咄嗟に抵抗しかける。

 けれどもう遅い。アステルは氷魔術と土魔術で彼女を縛る。自分ごと縛り、鎖にし、二人を繋ぎ合わせる。


「む、んんっ……むぐう~!? ん、んん~~~~~っ!」


 じたばたと、抵抗するヴェルステラ。


 しかしアステルは決して離さない。もう二度と離すつもりはない。

 ヴェルステラの甘く柔らかな唇と、アステルのそれが重なり合う。

 ステラの温もりが伝わっていく。


「むぐ! んんっ……んっ……んふうぅ……っ」

「(言葉をいくら重ねてもステラには伝わらない! なら、俺の全てを伝える! 俺のキスで、気持ちで、目覚めさせる!)」


 何とか、抵抗しようとするヴェルステラ。

 けれど次第に力が抜けていく。押しのけようとする腕に、勢いがなくなる。


 やがて、その顔が、穏やかなものに変化して――。


「ん……んふ……、ん」


 そして、完全に抵抗の意志をなくすヴェルステラ。力なく、ぼうっとした彼女。そんなヴェルステラに向かい、アステルは、唇を離して叫ぶ。


「思い出したか? 俺との思い出を! 何度も、何度も、お前とキスしたよな? 起きたばかりの俺とキスして。寝る前でもちゅーちゅー飽きるまで! 俺が飯作ってるのに、お前は背後から抱きついて! 風呂場の時も、トイレの時も! 俺は、困惑したが――嫌じゃなかった! 最後は笑って応じた。俺は、もうお前のキスが好きだったよ! お前だってそうだろう? ステラ、心は、俺を忘れても、体が覚えている! だから――」


 紅く染まったヴェルステラの顔を、至近で見てアステルは叫ぶ。

 恥ずかしさに顔をそむける少女へ、さらにアステルは畳み掛ける。


「だから思い出してくれ! 優しくて、暖かくて……幸せだったあの日々を。――お願いだ、ステラ!」

「わたしは……違う。わたし、魔王……」


 かつての野生児のように、片言で呟くヴェルステラ。

 認めたくない。でも否定も出来なくて。ヴェルステラは困惑しつつも、それでも抵抗し、アステルを押しのけようとする。


「うそ、違う……わたし、魔王……そのはず……」


 魔王としての使命と――ステラとしての記憶――。

 それらが、せめぎ合っている。

 天秤は傾きかけても、最後のひと押しが足りない。

 このままキスを続けても、何も変わらないだろう。

 だから、アステルは決意する。

 自分が出来る最後の手段を。

 彼女を取り戻せる、最後の一手を――。


「こうなったら俺の全てを使う! 前に、お前がしてくれた事を、そのまま返してやる! 戻ってこい、ステラ! そして再び俺と――っ!」

「え? ……な、何を、えええええっ!?」


 アステルはヴェルステラを押し倒した。

 少女を優しく抱きしめ、その上にまたがり、そしてお互いの服を脱ぎ払う。

 無謀かもしれない。殺されるかもしれない。けれど構わない。アステルは止まれない。

 いや止まりたくない――。

 だから自分の全てを賭け、ヴェルステラに、覆いかぶさった。

 


 一回戦目。


「きゃあ~、あなた何考えてるんですか!? やめてください! あり得ません、わたしは魔王ですよ! きゃ~、こんなの絶対、あり得ない~っ!」

「お前を取り戻すためならば何でもやる! 戻ってこい、ステラぁ!」


 

 二回戦目。


「ふ、ふん……っ、わたしは魔王! こんな事くらいで屈しませんっ! 徒労なのはあなたの方です!」

「なら何度でも思い知らせてやる! 帰ってこい、ステラ!」


 

 七回戦目。そして八回戦目。


「あ、うう……ちょ、ちょ……待ってくださ、もうだめ、もうこれ以上は……っ」

「駄目だ! 全てを思い出すまで俺は続けるからな!」

 


 十二回戦目。


「も、もうだめ……あなたの事しか考えられなくなって……」

「まだだぞステラ! まだだ、こんなものでは終わらない……っ!」


 

 十六回戦目。


「勇者さん、勇者さん、勇者さん?」

「ステラ! ステラぁ! ステラぁ!」


 

 明けて翌日――。


「やっちまった……っ! 馬鹿か俺は! 配下の魔族がやって来たらどうする気だった!? これでステラが戻る保証も……っ! ああああ、俺の馬鹿っ、俺の馬鹿ぁああっ!」


 すでに、魔王城には静寂に満ちていた。

 破壊の嵐だった広間は見る影もなく、朽ち果て、破壊された器物が散乱している。

 玉座、支柱、壁のほとんどが粉々になり、破片が散らかっていた。

 天井は破砕されている。上方から空が青く澄み渡り、燦々とした陽光が、アステルを優しく照らしていた。


「……アステル、さん?」


 その時、目覚めたヴェルステラが、アステルを見上げていた。


「っ、ステラ! 目覚めたのか? ……その呼び方……っ」


 驚愕にアステルは服を彼女に被せると、驚きのまま詰め寄った。

 優しくその肩を掴み、ゆっくりと問いかけていく。


「戻ったのか? 記憶が。本当に……?」

「は、はい……断片的にですけど……思い出しました。アステルさんのこと……」


 陽光に照らされて、柔らかに微笑むヴェルステラ。そこに、かつての殺意はなかった。


 あの頃と同じ――優しくて可憐な、少女だ。

 銀色に輝く髪。ガラス細工のような白い肌。太陽のような微笑み。

 アステルは、何も言えなくなる。


 ――戻ってきた。

 魔王という性質はそのまま。

 けれど、記憶の断片を取り戻し、正気に戻った。

 あの時と同じ――いやそれ以上に美しい最愛の少女が、同じ笑顔で、帰ってきた。


「ステラ……っ、ああっ……ステラ……っ」


 アステルは彼女を優しく抱き締める。


「……アステルさん、凄かったです。もうわたし……」

「すまなかった! 必死だったんだよ不格好で済まん! だが必要な行為だったと思っている! 俺は、俺は、ああああ……っ、思い出すだけで顔から火が……っ」

「どうして恥じるんですか? アステルさんはわたしを救ってくれました。アステルさんの想いが、願いが――伝わってきました。だからわたしを取り戻させてくれたんです。……わたし、本当に嬉しかったです」

「ステラ……」

「あれがあったからこそ、わたしは自分を取り戻せたんです。大切な、あなたとの瞬間。だから、後悔しないでください」


 恥じる事もなく、なじる事もなく、彼女は言う。

 あれでいいのだと。体で思い出させてくれて、ありがとうと。

 恥ずかしいけれど――何よりの愛の証だったと。


 ヴェルステラは、柔らかな瞳のまま、ささやいていた。


 アステルは――何も言えない。

 この瞬間が欲しかったから。

 このために、今まで頑張ってきたから。

 宿屋での羞恥も耐え、海に落ちた苦難も超え。地面の中で眠ったりした。

 幾多の試練を越え、慟哭も後悔も置き去りにし、たたひたすら突き進んできた。


 無言で震えるアステルの手に――そっと、ヴェルステラは手を重ね合わせる。


「あなたの事を思い出せて、わたしは幸せです。もうずっと、もう離れません」

「俺もだ、ステラ……」


 三年の時を越えて伝わる、彼女の温もり。

 それは、柔らかくて。暖かくて。

 互いの立場は変化したけれど。

 それでも。ヴェルステラの、その優しい温もりだけは、変わらなかったから。


 アステルは――こみ上げてきた感情を、抑える事が出来なかった。


「ステラ……ステラぁ……っ」


 恥も外聞もなく、ただぽたり、ぽたりと、涙を流すアステル。


「ステラ……ああ、ステラぁ……っ!」

「……ごめんなさい、アステルさん。貴方のこと、あんなに好きだったのに。全部、忘れていました。魔王として戦って、苦しめて……辛かったですよね? 苦しかったですよね? 本当に――ごめんなさい!」


 ヴェルステラは身を寄せ、声を震わせる。

 けれどアステルは目元から雫を垂らし、静かに首を振る。


「いや、いいんだ。お前が戻ってきてくれて、本当に嬉しい。それ以外は何もいらない。生きて……またお前が隣にいる。それだけで俺は……俺は、本当に……っ」


 言葉にならず、アステルの目からまた涙が伝う。

 もう、言葉はいらない。

 紡がれた想いは、色褪せはしないから。


 想いは、もう通じ合ったから。

 今はただ、温もりを重ねるだけでいい。


「……ステラ……」


 夢にまで見たその光景が――今はただ、どうしよもなく嬉しかったから。


「アステルさん……」


 ヴェルステラの瞳から、ゆっくりと涙が溢れ返る。

 しばらく、二人は優しく、お互いを抱き締め合っていた。



 そして、十数分後。


「――俺、お前が戻ってきたら話したい事が山程あったんだ。以前は出来なかった事、これからしたい事……たくさん、抱いていた」

「わたしもです。……アステルと一緒にしたい事、一杯あります。お店を回ったり、演劇を観たり、サーカスを巡ったり……」

「温泉入ったり、滝を一望したりしてな。巨大な塔から星空を眺めたりもいいな」

「オークションとか、舞踏会も見て回りたいですね。あ、あと観光地巡りも」

「いや、そういう大勢の場所に行くと、俺死ぬから」

「あはは、変わっていないですね」


 ヴェルステラは笑う。

 太陽のように。美しい花のように。


「相変わらず、人嫌いは治ってないみたいですね。でも、わたしとだけ話せるのは、嬉しいです。……あの、すみません。今まで散々待たせてしまって」

「馬鹿、もういいんだよ」


 アステルは、優しく笑った。


「謝る必要なんてどこにある。お前は《魔王》として過ごし、不運に見舞われた。だから幸せになる権利がある。それに、悩む必要なんてない。だってお前は――」


 アステルは、そっとヴェルステラを抱き締める。


「俺とずっと、一緒だ。そうだろう?」

「はい……はいっ!」


 二人は、互いを強く、固く、抱き締め合った。

 もう二度と、離さないように。


 何よりも、好きと伝えるために。

 失った時は、どうやっても取り戻せないけれど。

 取り戻した愛情は――いくらでも育めるから。


「ステラ……」

「アステルさん……」


 二人は、隔てられた時を埋めるかのように、優しくささやき。


「おかえり」

「ただいま、アステルさん」


 アステルとヴェルステラは見つめ合い――ついばむようなキスをした。



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