She, "She"
2
次の日は少し肌寒い日だった。それが気温のせいなのか、それとも精神的に欠けたものがあったからなのか、その時の僕には判断はできなかった。
いつも二人が合流する丁字路にあるコンビニの駐車場へとたどり着く。僕と彼女の家の方向は正反対だ。登校するときも下校するときも、僕たちはいつも同じ場所で出会い、そして別れていた。
いつもは僕が先に着いて、彼女を待っている。彼女は大体僕の到着後、十分程度でやってくる。待っている時間も、決して苦痛ではなかったし、むしろ楽しかった。今日はどんな一日になるのか、彼女とどういった会話ができるのか、そして、昨日までは知らなかった彼女の一面を見ることができるのではないか。少しの不安と大きな期待は、手を振りつつ向かってくる彼女の笑顔を見るときに、最大になっていた。
今日、僕がその場所で立ち止まることはない。疲れ切った顔をした数人のサラリーマンが店に入っていくのを尻目に見つつ、僕はゆっくりと学校への道を歩き続ける。自動ドアが開く時のメロディが、乾いた空気にむなしく混ざっていた。
「おはよ」
学校へと続く一本道に進むために曲がった途端に、そんな声が聞こえた。自分にかけられた声ではない。その時僕はそう思ったし、もし同じ状況に遭遇すれば、きっと多くの人はそう思うことだろう。そこでかつての僕たちみたく待ち合わせしていた女子が、近くにやってきた友達に向かって呼びかけた言葉なのだろう。そう信じて疑わなかった。
「おはよ」
しかし、その声は僕がその場所を通り過ぎてからも聞こえてきた。考えている間も歩き続けている。だから、僕とその女子との距離は少なからず開いているはずだ。だがその声は、僕の耳元で聞こえているように感じ……心なしか、ほんのりとした甘い香りも感じられた。
「おはよ」
ついに三度目の声がかけられる。ようやく僕は自分の考えを改め、その声のほうに視線を向けた。
「お、やっとこっち向いてくれたね。おはよ」
そこには、今の僕とは正反対の、清々しい微笑みを浮かべて僕に手を振る一人の女の子がいた。僕と同じ学校の制服にその華奢な身を包み、まっすぐにのびた透き通るような髪は、脇を通る自動車の風に吹かれて、優雅になびいている。
「えっと……誰……?」
その少女のオーラにやや気おされながら、僕はやっとのことでそう声を絞り出した。しかし彼女はあっけらかんとした表情で、さぞ当たり前のことのように答えた。
「今日から君と同じ学校に通うんだよ。よろしくね」
「……てことは転入生?」
「そういうことになるね」
「高校に転入って珍しいね」
「ま、色々あってね」
「それで、そんな君がどうして僕なんかに話しかけてきたの? あと名前は?」
その僕の質問には答えずに、彼女は涼やかに笑っている。再度訊ねようとしたその時、微かに、予鈴を示すチャイムの音が聞こえてきた。
「あっヤバッ! 早く行かないと遅れるね! えーっと……まぁいいや後で名前訊こう! 走るよ!」
一人でそうまくしたて、勝手に僕の手を掴み、走り出す。チャイムの薄い残滓が響く中で、彼女の呼吸の音が、そして笑い声が微かに感じられる。
数枚の桜の花びらが、僕たちの頭上に降り注いでいた。
今朝出会った少女は、僕と同じクラスに入ることになった。つい先日の始業式では転入生の紹介など全くなかったので、クラスにも多少の動揺はあった。しかし、彼女のその快活さ、容姿の良さが、彼女の孕む違和感を完全にかき消しているようだった。
「いやー、疲れちゃったよー」
放課後、彼女はそう言いながらも爽やかな笑顔を浮かべつつ僕の席へと歩み寄ってきた。不思議な時期の転入生ということで、今日一日、彼女はクラスメイトからの質問責めにあっていた。
「おつかれさま」
僕は相変わらず重いトーンでそんな彼女に応対する。結局今日一日、美咲と会話することはなかった。それどころか、目すらも合わせてくれなかったような気もする。……まぁ僕がその原因なのだから仕方なくはあるのだが。
ふぅ、とため息を吐き、窓の外を眺める。ちょうど昨日の今ごろの時間だっただろうか。二人で並んで、他愛のない会話をしながら歩いていた日々を、少し懐かしく感じる。美咲は授業が終わるとすぐに学校を出て、家路についたようだった。彼女が出ていくところを僕は密かに見ていたのだが、その背中は、どことなく頼もしげにさえ見えた。
「ねぇ、君」
物思いに耽っていた僕は、その声で現実に呼び戻される。僕の机に腕と頭を乗せるかたちで、僕の顔を覗き込んでいた。
「ずっと暗そうな顔してるけど、何かあったの?」
微かに眉を寄せて、心配そうな顔つきで尋ねてくる。
「……出会ってまだ一日も経ってないような人に話すことじゃないよ」
例によってそっけなく僕は答えるが、彼女は気にした様子もなく「そっか。そうだよね」と言って、静かに笑った。
「そんなことより君のことを聞かせてよ。なんで自己紹介の時、自分の名前言わなかったの?」
「ちゃんと説明したじゃん。私の親、転勤族だからさ、どうせ私はすぐにいなくなっちゃうんだよ。ちょっとの間しかここにいられないの」
少し不機嫌そうにしつつ答える。しかし過度には気にしていないように見えた。
「……もう慣れちゃったかな」
「慣れた?」
「うん、慣れちゃったの。忘れられることにね」
ちょうどその時、僕たちと同じく教室に残って雑談していた女子のグループが「おつかれー」と言って教室を去って行った。その後姿を見送り、沈黙に支配された教室のなかで、彼女はぽつりぽつりと語りだした。
「……どこの学校行っても、みんな私のことを珍獣でも見るかのような目で見てくるの。そりゃそうだよね。普通そういう人たちは始業式のタイミングでやってくるのに、学期の途中、とても中途半端な時期に転入してくるんだもん。……でも、みんな暖かく歓迎してくれた。いろんなことを訊いてくれて、私の話も聞いてくれて。中には私の親も転勤族だよ、って人もいた。……ちょっと嬉しかったかなあ」
過去を慈しむような愛慕の情を覗かせてそう言う。しかしその声も、重い沈黙に飲み込まれるように消える。
「昔は素直に話してたよ。いくら短い期間であっても、みんなと仲良くしたかったしね。でもね、気づいちゃったの。私、LINEだけじゃなくてツイッターとかも交換してたんだけどね……気づいたらフォロワーが減ってるの。……何が言いたいか、わかるよね?」
僕は無言で頷いた。チチ……と、頭上の切れかかっている電灯が微かな悲鳴を上げる。
「私は定期的にツイートしていたんだけどね。内容が面白くなかったのかなぁ……? 色々考えてしてたんだけどね」
けらけらと乾いた笑みを流しながら、彼女はそう呟いた。
僕は彼女の声に何も反応せずに、その無機質な笑顔を見ていた。彼女はすべてわかっている。その原因が自分にはないことを。そして、自分の「友人」たちに大半の非があることも。それでも彼女は、笑顔を見せようとしていた。ちょうど、枯れかけの小さな華のように。
「何も反応を見せてなくてフォロー外されるのは分かるんだけどねー。でも、自分反応見せてたじゃん。なのに……なんでだろね」
虚空を見つめつつ、誰に問いかけるでもなく彼女はそう呟いていた。僕は彼女から目をそらし、彼女を傷つけないよう、当たり障りのない言葉を探す。そうしてボソッと呟かれた言葉に、彼女は大きな目をしばたたかせた。
「……まぁ、あまり気にしなくていいんじゃないかな」
「……どういうこと?」
声音から彼女の表情は十分に推測できた。きっと、少し怒っている。空気がピリピリと肌に突き刺さってくるように感じられた。
「そういうこと気にし始めちゃうとさ……しんどくなっちゃうじゃん。忘れられちゃうのはやっぱきついことだと思うけどさ……仕方ないことだと思うよ」
「……君にとってそれは仕方ないことなんだ」
ごめん、と消え入りそうな声で僕は呟いた。ドロッと四肢にこびりつくような居心地の悪い沈黙が、僕たちを包み込む。
「……ま、いいけどね。君の価値観に深入りするつもりはないし」
ふわっと、甘い香りが鼻孔をくすぐった。そっと彼女のほうを振り返って見ると、彼女は窓の外に広がる細やかな夜景を静かに眺めていた。
「君はさ、誰かに忘れられたい、って思ったことはある?」
窓ガラス越しに僕を見て、彼女は真顔のままそう訊ねた。
「……あるよ。僕は君みたいに色んな場所に行ったことがあるわけじゃないけど、それでも……いや、それだからこそ、忘れられたい、っていう経験はとてもあるよ」
「だよね。でも私の場合、君とは違う。みんなと一緒にいられる時間がすごく短かったからさ……なんか忘れられたくないんだよね。大した思い出は全然ないから、せめて自分の存在だけは、って感じかなぁ」
校舎の壁で煌々と輝いている街頭に目を向けつつ彼女は呟く。無数の羽虫が、光に群がってひしめき合っていた。そんな彼らを、彼女はどこか微笑ましそうに見つめていた。
「私は君よりもいっぱい『出会い』を経験してきたからちょっとわかるんだけどさ。誰かと出会えたことって割と奇跡だと思うんだよね。その時、その場所、場合によってはその季節じゃないと経験できなかった出会いがあって、もしその時に私がそこに行ってても、もしあなたがそこにいなかったら、私たちはお互いに出会えてなかった。そう思うと、ちょっと人間関係ってものが怖くなってくるんだよね。わかるかな、この気持ち?」
ゆっくりと彼女は夜景から目を外し、僕の方を振り返った。先ほどまでの重々しい表情は消え、微かに慈愛を感じさせる瞳を携えていた。
「……怖いんだ?」
おずおずと僕は小さな声を発した。うん、と彼女はうなずき、再び言葉を紡ぎだす。
「ただの知り合いとか友達とか……いや、友達でもかな、私にとっては。でも、特に『恋人』に対して思うんだよね……。『二人が出会ってなかったらどうなってたんだろう』って」
彼女の長い前髪が大きな瞳にかかり、灰色の影を落としていた。恋人、という言葉に、僕の胸が微かに疼く。
「恋人の中でも特に幸せそうなカップルを見ると強く思うの。二人はいま、互いに恋愛関係にあって、幸せそうな笑顔を浮かべていられる。そもそも、二人はどのようにして恋人になったんだろう? たまたま同じ国、同じ地域に生まれて育って、たまたま同じ場所に巡り合って、たまたま会話を交わして、たまたま意気投合して、たまたま相手を好きになって、そしてたまたま相手も自分を好きになってくれた……。こんなふうに運命的に繋がれる相手と出会えること自体、すごいことだと思うんだよね」
彼女の話を、僕は黙って聴いていた。先ほど聴いた彼女の過去の話も相まったせいか、この脆い一人の少女のこれまでの歴史が、少しだけ見えるような気がした。色で例えるなら――完全に僕の妄想に過ぎないのだが――美しいまでの「灰色」であったと思う。
「だけどさ……だけど、もし二人が出会ってなかったら、二人はどんな人生を送っていたんだろう、とも思うんだ。いま横にいる相手だから、あんなに幸せそうに笑うことができるのか、他の全く知らない誰かが恋人になってても、同じように笑えてたのかな、ってね。この点、君はどう思う?」
「どう思う? って急に訊かれても……」
困惑する僕の顔を見て、彼女はけらけらと、まるで小さな花のようにかわいらしく笑う。
「じゃ、もうすぐ学校も閉まるし、歩きながら喋ろっか」
暗闇に包まれた校舎を背に、僕たちは二人、並んで歩いた。ちょうど昨日も、こんなふうに並んでたな……と、少し寂しく感じた。今日も確かに僕の横には少女が一人、いる。かわいいほうだと思う。一日しか一緒に過ごしていないが、性格もきっといいだろうし、誰からも好かれる愛嬌も持ち併せている。クラスの男子が我先にと恋人にしたがる姿が目に見えるようだ。
でも……と、僕は車のライトに照らされる、少女の整った横顔を見つめつつ思う。「何かが足りない」と。「何かが違う」と。かつての僕が憧れ、高校生になってようやく達成した夢は、きっとこういう状況だった。ならばこれでもいいじゃないか。心の中に巣くう、小人の僕がそんなことを叫ぶ。その声は、確かに本当の僕に届いた。
「結果論といえば結果論かもしれないけどさ。もし、いま恋人関係にある二人が出会わなくて、それぞれ他の誰かと恋人関係になったとしたら……それはちょっと悲しいことだと思うんだ」
宵闇を走る大量の自動車の音に、彼女の声は今にもかき消されそうだ。かろうじて届く声に、僕もまた小さな声で応える。
「僕は……そうは思わないかな」
「ほぉ」
少女は愉快そうに微笑を浮かべつつ、目を丸くしている。
小人の僕が、気持ちを伝えようと叫んでいる。でも、それは僕の望む結末ではない。「彼」を思い切り打ち消すように息を吸い、僕は声を絞り出した。
「さっき君が言った、たまたま出会えて、たまたま恋に落ちて……みたいな話は僕も共感できるけどね……でも僕は相手が誰であっても……いや、違うかな、そこで出会った人が『特別』になったなら、それが『運命』だったんだと思う。『もしかしたら特別な人になっていたかもしれない人と会えなかった人生』は本当に存在したなら辛いかもしれないけど、でも、『特別な存在になった人と出会えた人生』について想うほうが幸せなんじゃないかな。そこで出会った人が特別な人になるんだから、出会えなかった人について考えても仕方ないと思うよ、僕は」
訥々(とつとつ)と僕は言葉を紡いだ。きっと、僕の声のいくつかは車の走る甲高い音にかき消されて、彼女には届いていなかったと思う。けれども、彼女は真摯な表情で僕の気持ちを受け止めてくれた。それはひどく凛としていて……たった一日だが、彼女がこれまでに見せた表情のいずれよりも映えていたと思う。
「なるほどね……そこまで言うからには、君は『特別な存在になった人と出会えた人生』について考えたことがあるの?」
トラックが一台、爆音を轟かせて、僕たちの横を通って行った。大きな風が巻き起こり、彼女の艶やかな髪を美しくなびかせる。その様子が、大切な「彼女」と重なって見えた。何かが、心の中で音を立てずに美しく崩れた。それは僕の進むべき道を塞ぐわけではなく、障壁となるものでもなく……新たな道を示してくれていた。まるで、真っ暗な洞窟の中に差し込む、一筋の光芒のように。粉塵を煌びやかに映し出し、波のようにうねっていた。
「……うん。今日は色々あって一緒じゃないんだけどね。今まで考えたこともなかったよ。ありがとう。ちょっと落ち着いて整理してみるよ」
横から、彼女の短い吐息が聞こえた。呆れたように笑っていたのか、柔和に笑んでいたのか、前を向いていた僕にはわからない。でも、何か「彼女」に似たものを感じた。「彼女」もこんなふうに笑ってくれた。僕がちょっと面白いことを言った時、くだらないことを言った時、昔の思い出話をした時……思えば、いつも「彼女」は笑ってくれていた。怒ったことなんて殆どなかった。昨日の事件が唯一で……そしてそれもまた、もしかしたら「特別」であったのかもしれない。感情というものは常に正であるわけではない。いつだって、誰だって、負に転じることはある。昨日がたまたまその日だっただけだ。そう考えると、幾分か気分が楽になって、そして、「彼女」への申し訳なさが沸々と湧き上がってきた。
「……何かあったの?」
心配そうな表情で彼女が僕の顔を覗き込む。瞳の端が街灯に照らされて、微かに光っていた。なぜか、淡い慈しみを感じた。
「……大丈夫、たぶん、解決できると思うから」
僕は軽く笑んで、彼女にそう答えた。心の中にはやはり、灰色を帯びた雲がたなびいている。
彼女の……「彼女」のような笑みを僕も浮かべられていたらいいな。艶やかな濃い桃色に輝く桜の花びらの舞う中を、僕たちは二人、ゆっくりと歩き続けた