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リコリ・オクタヴィア伯爵令嬢とアイゼアは、友人というより、知人に近い関係だった。天然令嬢と名高いリコリは、いつも何もないところで蹴躓き、移動をすれば道に迷い、刺繍をすれば指に針を刺す。その度に過保護な彼女の従者が奔走しているのを、アイゼアは何度も見たことがある。ほんの少し人間初心者ともいえる鈍臭さがあるが、それでも朗らかに、幸せそうに彼女らしく生きている姿は、アイゼアやウルリヒにとって眩しく思える存在だったのだ。好ましいと、アイゼアはそう思っている。
応接室に入ると、リコリの過保護な従者──セルリックが待っていた。表情こそ平然としているが、その目には焦りと不安が踊っている。リコリのことが余程心配なのだろう、とアイゼアたちは思った。
彼は、アイゼアたちが向かいのソファに腰かけたのを見て、深く礼をする。
「まずは、アイゼア・ウィリデリクス侯爵令嬢に謝罪を。あのような場で、貴女にかけられた冤罪を晴らすことが出来なかったことを、我が主はとても悔やんでおります。貴女にかけられた精神的負担も推して知るべしであり、リコリ・オクタヴィア伯爵令嬢個人として、出来る限りの償いをしたいと」
「そうですか……迅速な対応、そしてお心遣い感謝致します、とお伝えください」
リコリがあの場で冤罪を晴らすことは、不可能に近い。それぐらいは、彼女の心根やその慈悲深い行動の数々を伝え聞いている彼らも理解している。彼女だって混乱しているだろうに、むしろよくあの場に突っ込んでいけたものだと、ルツは心の奥で感心した。
「ところで、伯爵令嬢個人というのは……?」
「はい。今回の騒動はリコリ様……お嬢も突然巻き込まれたものであり、伯爵家が裏で手を引いているというわけではないのです。ですので、罰するのであれば私だけを、とお嬢は主張しております」
「……そうか。それならばむしろこちらも謝罪すべきであろう。愚兄のやらかしたことに関して、後日王家からもそちらへ謝罪文を送らせていただこう」
ウルリヒが頭を下げたことで、セルリックは小さく息を飲む。そして、彼らの雰囲気や態度から、自分の主に対して悪感情を抱かれていないことに安堵していた。
「……ところで、リコリ嬢は大丈夫なのですか?」
「それが……」
アイゼアの問いに、セルリックは苦虫を噛み潰したような顔をする。絞り出すように吐き出した無事とは言えない、という言葉に、アイゼアとウルリヒは表情を硬くした。
「……シルチス公爵子息、ホーキンス伯爵子息の両名がお嬢を正妻、あるいは愛妾にしようと迫ってきているのです。あの騒ぎの後、お嬢はなんとか会場から脱し、屋敷に戻り、私に言伝を頼んだ途端……恐怖からか、気を失ってしまって」
無意識に膝の上で握る手に力がこもる。どうにか抑えようと努力していたが、彼は、今、自身の中で暴れ狂う殺意と怒りを解き放ってしまおうか、と思いつつあった。
「……セルリック殿、気持ちはわかるが、早計はいけない。幸い、こちらには冤罪を晴らす証拠がある。今はただ、主の傍で、その身を守ってやるのが男というものだろう」
「そうだな。リコリ嬢さえよろしければ、療養という体で暫く王都を離れるのもいいだろう……なあ、アイゼア」
「……わかりました。お父様には私から伝えておきます。ですので、今日のところは、リコリ嬢の下へ戻ってあげてください」
三人の言葉に、セルリックはぱっと顔を上げる。その目には、幾分か生気が戻っており、こうしてはいられないと、彼らに最上位の礼をして去っていった。
その姿を見送って、不意にルツが口を開く。
「女一人に男二人か……貴族の男ってのはそんなに持て余しているのか?」
「いや、そんなことは……」
「まあ、英雄色を好むとはよく言いますし、男性の性欲のピークは17歳前後だと聞きますし」
「おい、アイゼア!」
悲痛そうな声をあげる婚約者に対しアイゼアは冗談だと告げる。彼の姿を見たら、多少のストレスが解消されたことを感じ、自覚していなかった心的負担に、思わず自嘲的な笑みが浮かんだ。