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第一王子メイン回。微妙に閲覧注意です。
森の中、アイザックは生まれて初めての敗北を味わっていた。王都でぬくぬくと暮らしていた人間にとって、刺激の強すぎるそれは、たとえ無様な姿を晒したとしても、逃げなければ死んでしまうという恐怖にすぐさま塗り替わった。王も臣下も関係ない。森の外へ逃げられれば、生きてさえいれば儲けものだと、グランスール王国の魔物討伐隊は我先にと来た道を引き返す。アイザックも例にもれず逃走を図り……ふと、聞きなれた声に足を止めた。声の方に視線を向ければ、そこには愛する女性がいた。いつの間にか森は普段と変わらぬ姿になっており、彼女は木々の奥で自分を呼んでいた。こっちへ来て、と。何か素敵なものでも見つけたのだろうか、その表情は幸福に満ちており、きらきらと輝いて見えた。呼ばれるままに、一歩、また一歩と近づいていく。あと少しでその身に手を伸ばせる、と思った瞬間、不意に、アイザックの体が傾いだ。転んだ先は柔らかく、怪我はなかったが、独特の匂いが鼻をついた。据えたような、たんぱく質を腐らせた匂い。それに混ざって、やけに湿気を含んだ甘い匂いがあたりに充満している。それが腐臭と死臭だと気付くより早く、アイザックの肉体は嘔吐によって拒否反応を示した。アイゼアはいない。それどころか、森はまた赤く染まっており、魔物の呻き声も方々から響いてくる。周りに味方はいない。皆、森の外へと脱出を果たしたのだろう。
「……はは、」
乾いた笑いが漏れる。思えば、ウルリヒとアイゼアの婚約を破棄させようとしたときから何かが狂っていた気がする。あの時は、それが最善だと信じて疑わなかったが、今思うとよくあんな杜撰な計画を実行したものだ。己の愚かさに、アイザックはほとほと呆れ返っていた。しかも、こんな死にそうな場面になって後悔するなど、救いようがない。だがそれでも、生きたいと願ってしまうのは人間の本能なのだろうか。
アイザックはゆらりと立ち上がり、握りしめたままだった剣を魔物に向ける。そっと息を整え、相手の出方を伺う。暫し睨みあい、相手が微かに視線を横に逸らした瞬間を狙って地面を蹴る。彼の剣の切っ先が魔物に到達するより一拍早く、一閃により目の前が急に開けた。導かれるままにその銀のひらめきを追いかけると、周りを取り囲んでいた魔物が地中から生えた何本もの火柱によって跡形もなく燃え尽きる姿も目に入る。その橙の光を弾きつつ、冴え冴えとした氷刃は最後の一匹を切り伏せた。その色のない髪の主を彼は知っていた。利き腕を失ってもなお、並の男性騎士と同等かそれ以上に立ち回って見せる鬼才。国のためでも王家のためでもなく、ただ一人に捧げられた剣が目の前で振るわれる様を、アイザックは見ていることしかできなかった。
「……殿下?側近候補の方はどうしたのです?」
「逃げたんだ、皆。私を置いてな」
想定したよりも皮肉が滲んだ響きに、アイザックは笑うことしかできない。自分から部隊と離れたのに、置いていかれたような言い方はよくないかとも思うが、咄嗟に口から出た言葉はそれだった。アイゼアは、そうですか、と興味のなさそうな声音で答えてから、アイザックの背後に視線を向けた。
「ステカ、殿下を森の外へ送り出せる?」
「お安い御用さね。そっちの王子様はそれで構いませんか?」
背後から投げかけられた言葉にどうにか頷いてみせる。実のところ、アイザックは先程からの精神攻撃で大分疲弊していた。それに、外であれば側近の誰かと会えるかもしれない、と淡い期待が首をもたげる。じゃあさっさと外に出しますね、という声と共に、視界は暗転していく。あの銀色を目に焼き付けるために、アイザックは目を閉じた。