最も自由な2時間
アジテーションエッセイ第5弾!!!
皆さん、御仕事ご苦労様です。
仕事終わりはどうお過ごしされていますか?
現代人は誰でも売り買いをしている。
そんなもの当たり前の話だ。食事に電気、水道、賃貸に仕事とこれらはすべて契約に則った売買である。
我々は何かを得るために、何かを提供する。上記の例でいえば、家に住むために賃貸料を払い、給料をもらうために労働力を提供する。
こんな当たり前のことであるが、こういった売り買いの中でも異質なのは仕事だろう。つまり労働契約だ。
労働契約は労働力の提供の代わりに賃金を受け取る契約であるが、実際に我々が提供しているのは労働力というよりも「時間」といったほうが実感としているところではないだろうか。
本当は仕事なんてしたくないし、仕事に付随する通勤や身支度、スーツの洗濯に仕事のための勉強・・・・
時間はどんどんどんどん提供されることになる。
例えば、こうした1日の流れのサラリーマンを思い浮かべよう。
朝の6時に起床し、朝ご飯を食べる。7時の電車に乗らないといけないため、6時30分には家を出る。
通勤電車の中で1時間過ごし8時過ぎに職場に着く。職場を出るのは夜の20時。電車に乗って帰り、コンビニで買い物をして夕食を摂るのが22時ほど。
明日も6時に起きないといけないから24時には就寝。
休憩時間を考えると、1日11時間労働だが、結局は仕事に縛られている時間は6時から22時までの16時間だ。
そこに選択肢なんてものはない。朝食を食べることも、通勤することも、働くことも、夕食を買うことも、もっと言えば睡眠時間だって、社会的に、生理的に強いられていることだ。
つまるところ、我々現代人に行動の選択の余地のある時間というのはたった2時間ということになる。
ここで言いたいのは、「この自由な2時間を有意義に使おう」とか「たった2時間ではなく2時間もあるとして、リフレッシュしたり、趣味を楽しんだりしよう」ということではない。
私が言いたいのは、この2時間を「可能性無限大の時間」にしようということである。
人によっては毎日することが決まっている人もいるだろう。人によっては掃除をするだろうし、プラモデルを作るだろうし、小説を読んだり、ネットサーフィンをするのかもしれない。
しかし、そうではないのだ。
同じことが習慣づいている時点でそれもまた、縛られているのである。
我々はもっと自由な存在のはずなのだ。あらゆる可能性に挑戦できるし、あらゆる娯楽を楽しめるチャンスを持っている。
だから、毎日違うことをしよう。
その内容は会社帰りの通勤電車の中で考えれば良い。どうせ身動きできないんだから、唯一動かせる頭を働かそう。
そうして、毎日違うことを、この2時間でするのだ。
この「最も自由な2時間」 で
なかなか連日投稿できずすみません。・。。