夜に恋して
文明の力は夜の時間を変えてしまった。
子供のころはあんだけ好きだった“夜”の時間。
私たちはもう二度とあのワクワク感を味わうことはないのだろうか。
社会に送るアジテーションエッセイ第1弾。
最近生活リズムが崩れて、夜遅くまで起きるようになってしまった。
特段何をしているというわけではなく、スマートフォンをいじったり、本を斜め読みしたりしているだけである。無為な時間を過ごしているのは承知しているが、何故か早く寝ようとは思えない。
私ももう社会人なのだから自制しないといけないのだが、次の日に仕事があるときにも夜更かしてしまう。夜の魅力というものはかくも凄まじいものだと再認識する。私はどうにも無意識のうちに、朝の時間よりも夜の時間のほうに価値を見いだしているらしい。
こうした夜に重きを置く価値観は自分だけでなく皆に共通するものではないだろうか。
修学旅行の夜に、消灯時間が過ぎても友達と恋ばなに花を咲かせていたこと。
親の目を盗んで、深夜のテレビ番組に興奮していたこと。
今思えばどうとない話やテレビ番組でさえ、夜になると特別なものに思えたものだ。 誰しも子供の頃はあんだけ夜が特別な時間で、夜というだけではしゃいだものである。大人になっても、異性への告白に、家族会議に、痴話喧嘩と、大事なことは夜の時間にするのが鉄板だ。
大人になっても夜が特別な時間であることに変わりは無いのだが、なんとなく子供の頃みたいな夜への憧れや探求心というものは無くなってしまったように感じる。それはどうもプライベートの時間が夜に限られるため、夜の時間を削って日常的な雑務や娯楽をせざるを得ないことに起因しているからではないだろうか。
それは私にとっても同じだ。夜は仕事以外の時間をこなすための時間になり下がってしまったのだろう。
帰宅してコンビニ弁当を食べ、シャワーを浴び、ネットで面白い記事を探し、床につく。もはや夜は非日常ではなく、プライベートを過ごすための「楽しい」日常に過ぎない。
しかし、それでは私はいつ非日常を楽しめばいいのだろうか。夢を、理想を、いつ見ればいいのだろうか。旅行に行ったときにしか味わえないというのはあまりにも夢がないのではないか。子供の頃は毎日「非日常」を楽しむチャンスがあったのに。
ただ漠然と過ごすのではない。昼間と同じ感覚で過ごすのではない。非日常が潜む夜を再び過ごしていきたい。
夜に恋して、夜を焦がれて、夜を愛して