遠くて近い、近くて遠い、存在(後編)
(1)
「自分の名前が嫌いって??」
「嫌い、という訳ではないのですけど……」
部屋の四隅を背の高い本棚が囲む書庫にて。
脚立に昇り、最上段の棚に置かれた本を引き出しながら、何気なく彼女の下の名前を呼ぶ。
名を呼ばれた彼女は、居心地悪そうな顔つきで下から彼を見上げてきた。
馴れ馴れしかったか、と謝罪すれば、「いえ、名を呼ばれることは別に構わないのです」と、彼女らしからぬ煮え切れない返事が。
「フリーデリーケ、などと、いかにも女の子らしい名が私には似合わない気がして、少し恥ずかしいのです……。背が高すぎるだけでなく顔立ちも性格もきついですし。完全に名前負けだと兄や弟達からはよく揶揄われたり、フリードと呼ばれているくらいで……」
「フリードって……。いくらなんでもちょっと酷いな」
洗いざらしの緩やかな巻毛を背に垂らし、頬を薄っすらと染める様がどうにも可愛らしくて堪らないんだが。
胸中でそんなことを思いつつも口に出すことなく、脚立から床へと降り立つと彼女に本を手渡してやる。
「野ばらの唄の詩、分かりますか……??」
「あぁ……、童は手折る~という……??」
「野ばらの詞のモデルとなった女性の名がフリーデリーケで、私の名は彼女からあやかったそうです。詩の作者と恋人関係だったらしく、国に名を遺す文豪に愛された女性のように、魅力的な女性になれれば、と……」
彼女はきっと、名前以上に由来が恥ずかしく感じるのだろう。
現に頬の赤みも先程より幾らか増している。
「由来も含めて、僕は良い名前だと思うけど。でも、呼ぶ度に恥ずかしがられるのもなんだし……。そうだな……、イーディケ、と呼ばせてもらおうか」
「あ、こちらの方が、私自身もしっくりきますね……」
彼が微笑み掛ければ、少し照れ臭そうに彼女も微笑み返す。
こんな風に、互いの一番近くにずっと居続けられたら。
何気ない穏やかな一時--、二人は、確かに幸せを感じていた。
「野ばら」の女性が文豪との恋に破れたのち、一生独身を貫いていたことを、この時の二人は知る由もなかったけれども--
啄むような優しいキスは徐々に激しくなり。
唇を噛み合いながら、ドレスの背のファスナーを引き下げる。
衣擦れの音と共に、するりとドレスは床に落ち。
それが合図だったかのように、ベッドへともつれ込み。
片方だけ脱げたハイヒールがドレスの上に転がり落ちていく。
ガスランプの薄明かりの下。
高まる一方の熱、じとりと汗ばんでいく肌。
触れる度、声を殺しては感じ。
破瓜の痛みと快楽の間で翻弄されていく――
『契約』を盾にした、歪な関係の始まり。
『愛』を語り合う、甘い関係ではない。
でも、だから、せめて。
身体を重ねている間だけでも、想いをぶつけ合えたら。
「……そろそろ離してもらえないでしょうか……」
リヒャルトの腕の中、遠慮がちに身を寄せていたフリーデリーケは嘆息混じりに呼び掛ける。
しかし、リヒャルトはわざと眠った振りをして無視を決め込む。
「寝た振りをされていることくらい、とっくに気付いているのですが」
「…………」
実は、もう何度となく同じ台詞を言われている。
それでもリヒャルトは微動だにしない。
「朝までこの部屋にいる訳にはいかないですし、自室に戻ってシャワーを浴びたいのですが」
「…………」
一貫して呼び掛けを無視し続けるリヒャルトに業を煮やし、フリーデリーケが何か詠唱をしかけたところ。
「分かった、放す。放すから、その魔法を発動させるのはやめるんだ」
リヒャルトは慌てて目を開け、フリーデリーケの身体に回していた腕をささっと外すと、フリーデリーケは待っていたとばかりに半身を起こした。
「……無理をさせてしまったが、身体は辛くないか」
「はい。職業柄、体力はありますし痛みにも強いですから」
起き上がったリヒャルトをちらりとも見返しもせず、ベッドから抜け出し。
だらしなく床に散乱したままの衣服の中から、ドレスを引っ張り出して素早く身に纏い、小さく詠唱する。
虹色の光がフリーデリーケの全身を包み込んでいき、数十秒後、毅然とした後ろ姿は跡形もなく消え去った。
その一部始終を、リヒャルトはただ黙って眺めていた。
(2)
――約十年後――
春が終わりを告げ、夏の訪れを感じさせる生温い風が髪や服の襟を乱していく。
月灯りが夜空を照らし、薄闇の空にはぼんやりと星が散らばっている。
年のせいか昔よりも酒に弱くなったな、と自嘲しつつ。
彼女が探しに来る前に戻らなければ、と、無機質な鉄製の手摺から一歩離れ――
「ここにいたのですか」
呆れ返った声と、バルコニーの床を踏み鳴らす音を立てて、フリーデリーケが傍へと近づいてくる。
「少し酒に酔ったから風に当たっていただけさ。で、今、戻ろうと思っていたところだったんだが」
「会場を離れるなら離れるで、周りの者に一言伝えてください。このような狙撃されやすい場所にお一人で向かわれるなど危険です」
「君は本当に心配性だな」
正論だとは承知の上で、リヒャルトは大仰に肩を竦めてみせる。
フリーデリーケの目尻がキッと跳ね上がったが、反論することなくただ無言で彼を睨み上げていた。
髪こそ短くなったものの、あの時と同じくイブニングドレスにショールを纏う彼女は、年齢を重ねた分しっとりとした淑女に見えるというのに。
「……実に勿体無い、というべきか」
「何がですか??」
「いや、独り言だよ……」
ここでリヒャルトは一旦言葉を切り、本当に周囲に人がいないか、さりげなく見渡し――、更なる言葉を続ける。
「いい加減、結婚でもしようか」
はぁ、と、わざとらしいまでのため息が隣から盛大に吐き出された。
「今のも独り言でしょうか」
「まさか」
「丁重にお断り致します」
「そうか、残念だな」
「元帥の理想が実現された暁には、考えなくもないですが」
やはり今回も駄目だったか。
通算一五二回目にして未だ成功に至らない。
ポリポリと頬を掻きながら、フリーデリーケとの縮まらない距離に、リヒャルトはただただ力無く苦笑を浮かべていた。
(終)
結論:爆発すればいいと思います。