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虚言妄想シンドローム

作者: 日凪セツナ

虚言妄想シンドローム


 真夜中、眠らない都市のとあるビルの屋上に、一つの影が降り立った。黒いコートを風に翻らせ、やはり墨で塗りつぶされたような黒髪を揺らす。やや癖のある短髪には、黒縁の眼鏡が乗っていた。

「やぁれやれ、これはこれは、良い街ですねぇ」

 嬉しそうな声音で言い、その影は口元を笑わせた。

 姿かたちは人間のものだ。痩躯に纏う服はやや着崩したワインレッドのシャツと黒いネクタイ、黒いスラックス。顔も普通の青年と変わらない。敢えて言うなら、やや整った顔はしているが。

「……おや」

 青年は振り返り、その、不気味なほどに澄んだ金色(こんじき)の目を細めた。細長い虹彩と切れ長の目は何処か蛇を思わせる。青年は、口元をにっこりと笑わせた。

「あなたも、夜風にあたりにここへ?」

 その視線の先には、誰もいない。



 冷たいコンクリートの壁が、意識を現実に引き戻した。それからじんわりと、殴られた頬が痛み出す。

「……立てや鎌治(れんじ)。くっだらねぇ嘘で俺に恥かかせやがって」

 地面にへたり込んだ青年、鎌治の胸倉を掴み、もう一人が無理矢理に立ち上がらせた。体格は鎌治より数回り大きい。二人共同じ、黒いズボンに白いシャツという学生服姿だが、加害者が肩から鞄を下げているのに対し、鎌治の鞄はやや離れたところに転がっていた。

 二人がいるのは、校舎の裏手、人気も少ない文化サークル棟の影であった。教師は勿論、学生も殆ど来ない場所である。

「……俺が、いーつ嘘吐いたってぇ?」

 鎌治は腫れた頬を撫でながら、しかし挑戦的に笑っていた。加害者の生徒は額に青筋を立てる。その大きな拳が、また鎌治の顔を殴った。

「このっクソ野郎っがっっ! てめぇの嘘吐き癖はみーんな知ってんだよ!」

「……るっせぇなぁ……信じたお前が馬鹿なんだろうがよ……」

 なおも憎まれ口を叩く鎌治に、生徒の理性が吹き飛んだらしい。

 強烈な一撃が腹に入った。

「かっ……」

 流石に言葉を切り、鎌治は膝を付く。その髪を掴み、生徒は更に鎌治の腹を蹴り上げた。

 鈍い音が何度も響く。鎌治は地面にぐったりと倒れ、ひゅうひゅうと息を漏らして動かなくなった。

 生徒は舌打ちをすると、地面を蹴り上げて鎌治の顔に土をかけ、苛立ちを隠さない足取りで去っていった。

 残された鎌治はしばらく動かないでいたが、やがてもぞりと起き上がる。

「くそ痛え……思いっきり殴りやがってあの筋肉ゴリラ……」

 痣と内出血だらけになった顔の泥を擦り、転がっていた鞄に近付く。側面にはくっきりと泥の足跡が付けられていた。鎌治は舌打ちをして汚れを払う。

 と――――ぱち、ぱち、ぱちとまだらな拍手が降って来た。そして、鎌治の目の前に白いハンカチが差し出される。

 鎌治が顔を上げると、そこにはにっこりと満面の笑みを浮かべる青年がいた。

「さあお使いください。折角のお顔が台無しだ」

 青年はハンカチを差し出したままで言う。やや整っている顔だが、ふんわりとした黒い癖毛と大きな黒縁眼鏡、そして、襟元の開かれたシャツが、どことなく青年の雰囲気をだらしなく見せていた。うっすらと開かれた目は、鋭い金色だ。

「……誰だよあんた」

 鎌治は苛立たしげに吐き捨て、鞄の泥を払い続ける。青年は笑顔のまま、ハンカチを鎌治の顔に近付けた。

「私のことはいいじゃあないですか。ほら、早く冷やさないと、悪化してしまいますよ」

「放っとけよ。……他人の事だろ」

「放っておけないたちなのです」

 青年はやはりにっこりと笑っていた。鎌治はちらりと青年を見上げ、舌打ちする。

「……何故、あんなことに?」

「別に……」

「あなたが嘘を吐いたということでしたが、どのような?」

「だからあんたには関係ねぇだろ!」

 鎌治はそう吐き捨てて立ち上がった。が―――腹部に喰らった攻撃は、そんなに優しいものではなかったらしい。鈍痛がはしり、鎌治はその場に膝を付いて呻く。

「ああ、何てこと……」

「るっせぇ……」

「実は、あなたに差し上げたいものがあって来たのです」

 青年は鎌治の傍らにしゃがむと、懐から何かを取り出した。

「あなたを助けたい」

 青年は不意にまなざしを真剣にしてそう言った。

 差し出された掌に乗っていたのは、小さな砂時計だった。丸みを帯びたガラス製の本体が、刀の鍔のような黒い金属板にはまっている。一番外側をぐるりと輪が囲んでいて、その左右からは鎖が伸びていた。

「これを差し上げます」

「……只の砂時計じゃねぇか……まさか時間が巻き戻せるわけじゃあるまいし」

 鎌治が言うと、青年はまたにっこりと笑った。

「嘘が得意なあなたにピッタリな一品ですよ?」

「……はあ?」

 青年は砂時計を鎌治の眼前に出すと、口元をゆっくりと歪曲させた。

「『あなたは怪我なんかしていません』」

 そう言ってから、青年はくるりと砂時計を回転させた。一番外側の輪と内側の金属板はバラバラに動くようになっているらしい。輪はそのまま、砂時計とそれを包む金属板だけが回転する。さらさらと、青い砂が落ち始めた。

「はあ? 何くだらねえ嘘吐い……て?」

 砂はさして時間もかからず落ち切る。鎌治は自分の腹に手をあて、怪訝な顔になった。

「治ったでしょう?」

 青年が笑顔のまま首を傾げる。鎌治は制服をまくり上げた。痣だらけだったはずの腹は綺麗になっており、まるで最初から怪我などしていなかったかのようだ。

「……何で」

「それがこの砂時計の力なんですよ。あなたなら使いこなしてくれると思います。嘘を本当にしてくれる砂時計ですよ」

 青年は砂時計の鎖を取り、呆然としている鎌治の首にそれを掛けた。

「ルールさえ守れば、あなたにはとっても有益なモノだと思いますよ?」

 青年は眼鏡の奥の目を細めて言った。鎌治は鎖に触れ、しかし舌打ちをしてそれを外す。

「生憎、他の奴の嘘はスグ分かるんだよ」

「おや」

 鎌治は立ち上がって土を払うと、鞄を肩に引っ掛けてその場から立ち去ろうとした。が、青年はその後方から、しゃらりと砂時計を鎌治の首にかける。

「っ!?」

「まあ一つどうぞ。『嘘を吐いて、引っ繰り返す』。これだけで嘘が本当になります」

 青年は、肘を張って振り回した鎌治から素早く離れる。肘を振った勢いのまま振り返り、鎌治は青年に敵意のこもった視線を向けた。

「信用できないのでしょう? では名前だけでも覚えてください。私はレンクと申します……レンクと鎌治……おや、一文字違いですねぇ」

 青年は―――レンクはそして、やはりへらへらと笑っていた。鎌治はしかし、意にも介していないように視線を逸らす。

「試しに一つ、嘘を吐いてみたらどうですー? サービスとして一回まではルールに触れても目を瞑りますからー」

 舌打ちして歩き出した鎌治の背に、両手をメガホンにしてレンクがそう呼びかける。鎌治は苛々と歩きながら砂時計を外し、鞄に突っ込んだ。



 委員会で遅れたと嘘を吐いて、鎌治は二階の自室へ向かった。住宅街の一戸建て、さして広くはないが個室もある。四畳半の自室には、ベッドと机の他、ゲーム機や漫画雑誌の類が転がっていた。本棚には小説がずらりと並び、机の上には参考書が並べられている。壁にかかったダーツ盤には夕日が当たっていた。

 泥だらけになっていた制服を脱いで、見とがめられる前に洗ってしまおうとジャージにくるむ。階下に降りると、養母(はは)は夕飯の支度をしていた。

 体育で汚したと嘘を吐いて、制服を洗面器に突っ込む。洗剤と水を入れて適当に手洗いし、洗濯機に放り込んだ。手を洗って自室に戻ると、ベッドの上に放り出していた砂時計が目に入る。薄暗くなってゆく部屋の中で、砂時計は妙な存在感を放っていた。

「……アホらしい」

 怪我が治ったのには驚いたが、だからといって、嘘が本当になる、など夢物語をいきなり信用できるはずもない。砂時計をそのままに、鎌治は椅子に座った。

 ノートを開き、指先でペンを弄びながら教科書を眺める。だが、集中できず視線はすぐにベッドへと滑った。

『試しに一つ、嘘を吐いてみたらどうですー?』

 レンクの言葉が蘇り、鎌治は立ち上がって砂時計を手に取った。

「――――、」

 何と言おうかと視線を泳がせ、鎌治はふと机の上の宿題に目を止めた。

 嗚呼、今日の宿題はひどく面倒なものだった。そもそも分かりきっていることを証明する数学など面倒なだけではないか。

「……『今日は宿題が無い』」

 そう言ってから、鎌治はくるんと砂時計を引っ繰り返す。かちりと金具が鳴り、砂が落ち始めた。鎌治は砂時計を眺めながら、数を数える。

 砂が落ち切るまで、十秒とかからなかった。

 鎌治は再度、開いていたノートを見遣る。

「……!」

 最新のページに書いてあった、『宿題 教科書問の3』という文字が消えている。勿論自分で消した記憶も無い。鎌治はスマートフォンを掴み、クラスメイトにメッセージを送る。

『今日の数学の宿題って何処だったっけ』

『は? 宿題なんかないでしょ、何、寝てたの?』

 返信は少しも待たずに来た。鎌治は細く、長く息を吐く。


「信用していただけたでしょうか?」


「うぉあっ!?」

 不意に、後ろから声が掛けられた。鎌治は振り返り、そのまま足をもつれさせて転ぶ。レンクはにこにこと笑いながら、胸元に手を当てて礼をした。

「どうやら使っていただけたようで。早速ルールの説明に参りました」

「な……ど、何処から」

「それは企業秘密で」

 レンクは唇の前に人差し指を立てて見せた。鎌治は呆然として目を瞬かせる。

「改めて自己紹介をしますね。私、こう見えて、人間が言う悪魔という存在でして。魔界でも下っ端なのですが、出世できる見込みも無いのでこうして人間界に避難しているのです。そして、見込みのある方にその砂時計を渡しているのですよ」

「……あ、悪魔……?」

「ああ、信じていませんね? でもご安心ください。悪魔は人間と違って、嘘を吐けないんですよ。その砂時計を持っているということで、信じて貰えませんかね?」

 レンクは、何処か人懐っこい笑みを浮かべて肩を竦め、首を傾げる。愛らしさすら覚えるようなその仕草に、鎌治は目を瞬かせた。

「……信じるよ。信じりゃいいんだろ」

「ええ、ありがとうございます。それでは、その砂時計は謹んで進呈いたします。いくつかのルールを守ってくだされば、いくら使おうが自由ですよ」

 レンクはそして、ベッドに座って足を組む。鎌治は椅子に座り、机に肘を置いて頬杖をついた。レンクは膝に片手を乗せて、もう片方の手を鎌治に差し出す。

「それではご説明いたします。それは、先程申し上げた通り嘘を真に変える砂時計です。仕組みは、人間の遊戯で言う、オセロ、のようなものだと思って貰えれば」

「オセロ?」

「ええ。真を白、嘘を黒としましょう。その砂時計は見てのとおり黒です。まず、あなたが(クロ)を置く。そして砂時計を引っ繰り返す。砂時計は引っ繰り返すことで力が発動しますので、間に挟まれた(シロ)(クロ)になるのですよ。そうすると、あなたの(クロ)事実(クロになったもの)が一致します」

「……ふーん」

「それではルールを幾つか。分からなくなったら聞いていただければ何度でもお教えしますからね」

 レンクは「メモはしなくてよろしいですよ」とご丁寧に付け足した。

「ではでは。まず一つ。必ず、嘘を吐いた後に、引っ繰り返してください。逆だと先程の仕組みが成立しなくなります。先に黒の石を置いておかなければ黒を置いても引っ繰り返せないでしょう?

 一つ。一つの事実に対しては一回しか使えません、この砂時計はいつでも黒のままですから。黒にしてしまったものを白には戻せないんですよ。

 一つ。これが黒ということは、(シロ)とこれで挟んでも事実(シロ)(シロ)のまま。使う時は、必ず嘘を吐いてくださいね。口にすることが本当に嘘なのか、見極めをお忘れなく」

 レンクはそこで一息吐き、もう一つ、と指を立てた。

「もし本当に間違ったと思ってしまったなら、砂が落ち切る前に引っ繰り返してくださいね。キャンセルできますから」

「……終わりか?」

「ええ。ルールを二回以上破ったら……分かりますよね」

 レンクは細めていた目を薄らと開く。そこに嫌に冷たいものを感じ、鎌治はぐっと言葉に詰まった。

「それでは、砂時計の力を思う存分お楽しみくださいね!」

 レンクは立ち上がると、窓を開いてひらりと窓枠に飛び乗った。外は夕闇に沈み始めている。眼鏡の黒縁がオレンジに光り、コートが大きく靡いた。

「ではでは、またいずれ」

 レンクはそして、窓枠を蹴って空中に飛び出した。大きく両手を開いたその姿は、ざあっ、とまるで砂のように空中で霧散する。

「……、」

 浮かせた腰を下ろして、鎌治は机に拳を乗せる。ゆっくりと開いた掌には汗が滲んでいた。レンクの言葉と笑顔が頭の中で、ぐわんぐわんと反響する。

 改めて手に取った砂時計は、どこか不気味に黒く光っていた。



 生徒指導の教員に呼び出しを喰らうのは珍しいことではなかった。鎌治はポケットに砂時計を突っ込んで生徒指導室へと向かう。

 校舎の端にある生徒指導室には、既に教師と、昨日自分を袋叩きにした生徒が待っていた。

 怪我をしていない鎌治の様子に、生徒が怪訝な顔になる。

獅戸(ししど)……座りなさい」

 教師が言って、鎌治は溜息を吐いてポケットに手を突っ込んだ。

「何故呼び出されたのか分かりません」

「昨日喧嘩をしただろう?」

 あれを喧嘩と言うか。鎌治は内心鼻で笑う。

「いいえ」

「くだらない嘘を吐いて逃れようとするんじゃない。目撃者が何人もいるんだ」

「でも怪我もしてないじゃないですか」

 鎌治は空いている方の手でシャツを捲り上げて見せた。生徒が目を丸くする。やはり、袋叩きにして、怪我をさせたということは事実のままらしい。鎌治は唇を舐めた。

 喧嘩、ではない。では何と言えば完璧な嘘になるだろうか。下手に真を混ぜてルールを犯してもつまらない。

「『殴られてなんかいません』」

 言い終えると同時に、くるんとポケットの中で砂時計を回す。感触で方向が正しいことは分かる。かちり、と金具が鳴って、引っ繰り返すことに成功したと鎌治は息を吐いた。

 本体に沿えている指に、落下してきた砂がガラスを叩く感触が伝わってくる。

「……お前にとって不利な嘘だろう? 何故そんな嘘を吐く」

 教師が更に怪訝な顔をした。

 鎌治は数を数えながら、面倒だからだよ、と心の内で呟いた。

 砂が落ち切る。

「……そうか。すまなかったな」

 訝しげな顔をしていた教師があっさりとそう言った。

「ったく、言いがかりも良いとこだぜ」

 生徒が舌打ちをして出て行く。鎌治も一礼して出て行った。男子生徒がぶつぶつと言いながら去って行き、鎌治は教室へと向かった。

 宿題に、リンチ。面倒事を二つも無かったことに出来た。

 鎌治は口元をにやりと笑わせる。自然と足取りは軽くなり、学校でなければ鼻歌の一つでも歌いたいところだった。

 今日は部活も無い―――いや、折角なら、全員が何かしらの部活に所属しなければいけないというこの面倒な規則自体無かったことにしてしまおうか。

 まさか世界を引っ繰り返すような嘘を吐くつもりはないが、日常の面倒事はこれで全て無かったことにできる。その気になれば、勉強などせずテストで満点を取ることだって可能だ。

 いや。鎌治は更にその先を考えて口元を押さえる。

 嘘一つを吐くだけで、大学にだって、大企業にだって自分は所属していたことにできる。この砂時計と、自分の口さえあれば。

「……はー……」

 階段の踊り場で足を止め、鎌治は壁に背を当てた。

 背筋を這い上がる悪寒は、狂喜か、破滅の予感か。それでもこみ上げる笑みを押さえきれず、鎌治は口元を覆う手に力を込めた。



 鎌治は指先に鞄を引っ掛けて、街中をぶらぶらと歩いていた。ふと、道の先に、見覚えのある女子の集団が目に入る。カフェで買ったクリームたっぷりのコーヒーを飲みながら、鎌治はその集団に近付いていった。

 どうやら、クラスメイトの女子三人が、他校の不良に絡まれているようだった。傍に置いてある鞄は、付近でも有名な不良学校―――下手に助けに入れば自分の身が危うい。

 だが。鎌治はポケットの中に手を突っ込み、そこにある砂時計を確認した。そして唇を舐め、ずかずかと一同に向かって行く。

「だーあかーらぁ、そっちの人がぶつかって来たんじゃん? これも運命だし、ぶつかってきたことの謝罪代わりに遊ぼうってーのー」

「だから、謝ったじゃないですか。私達予定があるんです」

 俯いた女子達は、既に壁際に追い詰められていた。すぐ近くの路地を指差し、声の調子を上げながら不良達は更に距離を詰めてくる。

「はーい、ちょっと失礼」

 その間に、鎌治が割り込んだ。

「なっ……」

「何だ桃井達か。こんな奴らほっといてスタバ行こうぜー」

 突き出した腕でそのままクラスメイト達を引き寄せ、鎌治は不良達に背を向ける。

「……おい」

 その襟首を掴んで、不良が鎌治を引き留めた。鎌治はポケットに手を突っ込み、面倒そうに振り返る。

「何だよお前、正義の味方気取りか?」

「……あー」

 行け行け、と女子達に手を振り、鎌治はポケットの中で砂時計をなぞる。不良達の興味は女子達から鎌治に移ったらしく、吊り下げた鎌治を三人が囲んだ。持っていたコーヒーを奪い取られ、投げ捨てられる。鎌治は溜息を吐いた。

「お前何だよ、あいつらの知り合いか?」

「ひょろっこい癖に出しゃばって、死んでも知らないぜ?」

「正義のヒーローのつもりかも知れねぇが残念だったなー!」

 ふー、と鎌治は息を吐く。

「悪いこと言わないからやめとけよ。ここはあの人の縄張りだから」

 鎌治はいかにも余裕というふうを装って言う。不良達が小馬鹿にするように笑った。鎌治は砂時計に指をかけ、息を吸った。

「俺、あんたらの先輩に縄張りの見回り頼まれてんだけどさぁ、最近この辺りでハバきかせてるらしいじゃん? シメられない内に止めといた方が良いぜ?」

 言うと同時に、砂時計を引っ繰り返す。

「てめぇ、適当な事言ってると……」

 砂が落ち切る。

「おい、止めとけって、そう言う話聞いたことあるぜ?」

 拳を振り上げていた一人を、もう一人が止めた。そしてタイミングを見計らったようにもう一人の携帯が鳴る。

「げっ……やべぇ、先輩からだぜ」

「嘘だろ? ……うっわマジだ」

「そいつほっとけ! 逃げるぞ!」

 鎌治を放り出し、三人は青い顔になって逃げだした。

「……ふう」

 鎌治は息を吐いて、乱れた胸倉を直す。不良達が完全に見えなくなってから、ポケットから手を抜いた。

「……嘘だったけど」

 ぽつりと呟き、クラスメイト達の方へ向かう。と―――数人の男子を引きつれて、三人が戻ってきていた。どうやら、同じく部活の無いクラスメイトを呼んだらしい。

「獅戸君! 大丈夫だったの?」

 女子の先頭で叫んだのは、友人の桃井芙海(ももいふみ)だ。鎌治は乾いた笑みをこぼした。

「平気……。悪いな、助け呼んで来てもらって」

「ううん……」

「それじゃあ気を付けて」

 踵を返した鎌治の腕を、芙海が掴む。

「待って。お礼くらい、させなさいよ」

「……いや、ホントいいから。うん。別に」

「じゃあせめて、さっき持ってた飲み物くらい奢らせて」

「……じゃあそれくらいなら」

 そうと決まれば、と芙海は鎌治の手首を掴んだままずかずかと歩き出す。

「スタバ行こう、スタバ」

「えっ、マジで行く予定だったのか?」

「違うけど。あれスタバの新作でしょ? あれ持って『スタバ行こう』だなんてすっごい馬鹿っぽかったよ」

「ほっとけ」

 半ば芙海に引きずられるようにして、鎌治は歩いて行った。



 半ば押し付けられるように持たされたケーキとコーヒーを手に、鎌治は家路についた。結局芙海達は図書館に調べものに行くところだったらしい。

「ただいまーっと」

 玄関を開くと、靴は一つも無かった。どうやら買い物にでも出かけているらしい。鎌治はコーヒーとケーキを冷蔵庫に入れ、二階へと向かった。

 ベッドに座り、鞄を開いてスマートフォンを取り出す。芙海から、画像が送られてきていた。アプリを起動して確認すると、先刻半ば無理矢理撮らされたプリクラのようだ。女子に囲まれて、引き攣った笑みでピースサインをしている自分がいた。

 ポケットから砂時計を取り出し、机に置く。青い砂は透明なガラスの中でさらりと揺れていた。鎌治はベッドに仰向けになり、目を閉じる。

 午後の日は既に傾き、窓の外は夕闇に沈み始めていた。薄暗くなる部屋の中で、鎌治はやがて寝息をたて始める。

「……おやおや」

 音も無く、レンクが部屋に現れた。部屋の薄暗がりからゆっくりとベッドに近付き、そこで眠っている鎌治の顔を覗き込む。眼鏡の奥の金色の目は、少しも笑っていなかった。

 唇を、赤い舌が這う。レンクは眼鏡を外し、細い息を吐いた。ちらりと見えた歯―――鋭い犬歯が鈍く光る。

「たった一日でこんなに使うなんて。……やっぱりあなたを選んでよかったようだ」

 レンクはくすくすと笑い、また部屋の薄暗がりへと姿を消した。



「昔は俺も、部活のエースだっただろうが」

 砂時計を引っ繰り返す。向かいの芙海は、一瞬怪訝な表情を浮かべた。

「……そういえばそうだったね。それが今は新聞部でちまちま取材してるなんて。またバスケやらないの?」

「やらねーよ。面倒臭い」

 放課後の教室、残っているのは鎌治と芙海だけであった。

「中学の時はもっとあんた派手だったのになあ。何、高校デビュー?」

「ほっとけ。派手でいいことも無かっただろうよ」

「嘘ばっか吐いてるからでしょ。もう病気だよそれ」

「だぁからほっとけって」

 芙海がノートを突き出し、鎌治はそれに目を通す。自信たっぷりの芙海の表情に、鎌治はまた溜息を吐いた。

「間違いだらけだぜ。こんなんでよくこの高校受かったな」

「……うるさい。これ分からないから教えてよ」

「先生つかまえればいいだろうに、何でわざわざ俺を……」

 ぶつぶつ言いながらも、鎌治は数学の教科書を取り出す。

 時計をちらりと見ると、そろそろ午後の五時を回ろうとしていた。外はまだ明るいが、学校内に残っている生徒は少ない。外からは、運動部の声が聞こえていた。

「お前、これ代入するやつ間違ってるだろうが」

「はあ?」

 鎌治は芙海からノートを奪い、赤ペンで容赦なく書き込みをしてゆく。

「これをこうして……と。それとこっちは単純な計算ミスだ。お前昔からおっちょこちょいなんだから」

「獅戸君には言われたくない」

「……おっちょこちょいか、俺?」

 芙海はノートを取り返して視線を落とし、唇を尖らせた。

「変わってないよね、危ないことに自分から突っ込むところ。おばさんに心配ばっかかけてさ。君子危うきに近寄らずっていうじゃん?」

「別に俺君子じゃねえし」

「勉強だけ出来るタイプの人だよね」

「お前な、助けてやったのに……」

「だからお礼したじゃん」

 芙海はふいと顔を背けた。鎌治は頬杖をつき、深い溜息を吐く。

「嘘吐きだって全然治らないし。……むしろ、中学に入ってから悪化した?」

「……ほっとけよ」

 鎌治が舌打ちをすると、芙海は「ごめん」と言って黙った。

 芙海が問題を解き始め、鎌治は椅子の背もたれに寄りかかって外を見遣る。ぎぃぎぃと椅子が軋み、耳障りな音を立てた。

「……なあ桃井」

「ん?」

 ポケットに手を突っ込んで、そこにある砂時計に触れる。

「今日、一緒に帰る約束してたよな」

 砂時計を引っ繰り返す。

「……そうだっけ……ああ、うん、そうだったね。それが?」

「ドーナツ屋でも行かないか。腹減ってきた」

「えー……私ダイエット中なんだけど」

「一日くらい大丈夫だって」

「その油断が、命取りなの」

 芙海ににべもなく断られ、鎌治は唇を曲げた。

「……桃井は痩せてるだろ」

「最近下腹がちょっと……何言わせるの」

「自分で言ったんだろうがよ」

 鎌治は溜息を吐き、鞄に教科書をしまう。

「あれ、もう終わり?」

「もう五時半だ。今日は珍しく、父さんが早く帰ってくるんだよ」

 砂時計を引っ繰り返す。

「尚更、ドーナツ屋行かない方がよくない?」

「………………」

 鎌治はがしがしと頭を掻いて溜息を吐いた。「そうだな」と言ってポケットから手を抜き、鞄を肩に掛ける。

「明日もお願いしていい? 獅戸先生」

「……あー……明日、は……いや、大丈夫だ。明日も部活は無い」

 砂時計を引っ繰り返す。

「よかった。次のテストでは赤点回避したいからさ」

 芙海が笑い、鎌治はその表情を見て微苦笑を漏らす。芙海はすぐに鞄に教科書とノートを突っ込んで、歩き出した鎌治の後を追った。

「……ねえ、獅戸君」

「ん?」

 鎌治は振り返る。少し離れた後方で、芙海は足を止めていた。

 夕日が差し込む教室の後方で、二人はしばし無言で見つめ合う。鎌治が怪訝な顔をして首を傾げると、それで時が動き出したように、芙海は口を開いた。

「私、部活の先輩と付き合うことになったの」

 芙海はそう言って、にっこりと笑った。

 頬が染まって見えたのは、夕日の為か。鎌治は目を数度瞬かせ、それから「そうか」とだけ呟いた。

「うん。豊原さんっていうんだけどね。……正直あんまりタイプじゃないんだけど、同じ部活で気まずくなるのも嫌だし」

 俯いたまま、芙海は歩を進めて、鎌治の隣をすり抜ける。そのまま廊下に出た芙海の背を、黙って鎌治は見詰めていた。

「……明日もお願いできるよね、獅戸君」

「ああ」

 鎌治は思い出したように歩き出す。

 ポケットに手を突っ込んで、そこにある砂時計を確認する。ぬるりとした触感で、ひどく手汗をかいていたことに気付いた。

 並んで昇降口に向かいながら、芙海は黙って俯いたままだった。鎌治は指先で砂時計の曲線をなぞりながら、ちらちらと芙海の顔を見遣る。

 出会ったのは、小学校低学年のころだ。家が近所な訳ではないが、同じクラブに所属していたり、席が隣になったりと妙に縁があった。自然と話す回数も増え、中学になって鎌治の交友関係が複雑になっても、常に近くにいたのは芙海だった。

 だからこそ見えていなかったが―――高校生ともなれば、かつては無かった身長差も生まれ、芙海の、男のように短かった髪も肩にかかっている。体の線も丸くなり、表情や立ち振る舞いも以前より大人しくなって――――

「……獅戸君?」

 見上げられて、はっとして鎌治は顔を逸らす。気付けばまじまじと芙海を見つめていた。

 獅戸君。そう呼ばれるようになったのも、中学校の頃だったか。

「あ……ごめん、獅戸君。先輩から連絡入っちゃった。一緒に帰ろうって」

「あー……そう、そっか。うん。俺は別にいいから、行けよ」

 鎌治はひらひらと手を振った。うん、と控えめに笑って芙海は踵を返す。

 別棟へ向かう芙海の背を見送り、鎌治は無意識に溜息を吐いていた。

「……何だ、これ」

 心臓を舐められるような、不快感が胸元に広がって行く。じんわりと、何かが自分の中でこぼれ落ちる感覚。貧血のような、吐き気のような―――どうしようもなく不快な何か。

 芙海が、自分から離れていく。それが、自分にとってこれほどショックだとは。

 当たり前のように隣にいたからこそ、いなくなった空白は他の誰にも埋められない。汗で湿った指先で、何度もポケットの中の砂時計をなぞった。

「……嫌だな」

 ぽつりと呟いて、鎌治は驚いたように目を瞬かせる。

 そうして口元に手をやって――――嗚呼、と額を壁に当てた。

 どうやら自分は、またくだらない嘘を吐いたらしい。そう自分に言い聞かせて、昇降口の扉を開いた。



 翌朝、気だるい体を引きずるように階下に降りると、養母が難しい顔で待っていた。鎌治は自分の分のご飯をよそい、食卓につく。

「……おはよう鎌治。よく眠れた?」

「ああ、うん……」

「今日の放課後、時間あるかしら」

 養母の言葉に、鎌治は食事の手を止めた。

 今日も芙海と約束をしている。だが、適当に言って帰ってくることは出来るだろう。お得意の嘘でも吐けばいい。

「あるけど?」

「……あなたの、本当のお母さんが、会いたいって」

「……え?」

 本当の、母親。その言葉に、鎌治は箸を置いた。

「……真面目に? あの人が?」

「ええ。お父さんはまだ見つかっていないんだけど、お母さんは、もしよかったら話したいんだって。どうかしら」

「……どうと、言われても」

 鎌治は養母から視線を逸らした。口元が引き攣って、上手く言葉が出てこない。

「俺の両親は、今の父さんと母さんだから。今更あの人に会っても、別に、何も」

「でも、会ってみるのも良いかも知れないでしょう? 本当の、血の繋がった唯一の家族だもの。こんな機会、次はいつか分からないし」

「……分かったよ」

 食い下がられるのが面倒になり、鎌治は承諾した。だが、押し込んだ食事は灰のように味がせず、手には冷たい汗がにじんでくる。

 残りの食事を機械的に流し込み、鎌治は家を出た。

 芙海には何と言おうか。いっそ砂時計を使って、母親と会うことそのものを無くしてしまおうか。その方が、自分にとってはいい結果になるだろう。あの母親とはいい思い出が無い。今の夫婦に引き取られるまで、いくつの嘘を自分に課して、生き延びてきただろうか。

 ぐるぐると回る思考回路は、嘘で塗り固めた過去の裏側を、勝手に呼び起こす。

「幸せな家庭だった、父さんと母さんは仲が良かった、俺は幸せだった」

 苦々しく、懐かしい嘘を吐き捨てる。今更それで誤魔化せるほど、優しい傷ではなかった。

 足を一歩踏み出すごとに、ずぶずぶとそのまま、身体ごと泥沼に引きずり込まれるような気がする。昨日、芙海から交際を打ち明けられたときと同じ、自分の心から、何か大切なものがこぼれ落ちて行く感覚。

 歯車が、狂ってゆく。少しずつ、嘘を吐きながら、危ういバランスで積み上げてきた自分の現在が、勝手に動き出す。錆びついていた歯車が無理矢理に突き動かされ、それに耐えきれずに壊れてゆく。

 芙海が自分の傍らからいなくなったとして、芙海と自分の関係そのものが壊れる訳ではない。母親と再会したとして、自分がまさかあの人と暮らすことになるとも思えない。

 だから、自分が動く必要はないのに。否応なしに、自分は周りの変化に引きずられている。

「―――おはよう、獅戸君」

 声をかけられて顔を上げると、不安気に自分を見下ろしている芙海がいた。鎌治は寄りかかっていたブロック塀から体を剥がし、無意識に握り締めていた胸元から手を離す。制服のシャツは皺になっていた。

「……おはよう、桃井」

 喘ぐようにそう絞り出す。

「顔色悪いけど、大丈夫?」

「ああ、うん、平気だ。……いいのかよ、朝は彼氏さんと一緒じゃなくて」

「……うん」

 芙海は困ったような笑みをこぼした。

「それより、本当に顔青いよ。手を貸そうか? それとも、今日は休む?」

「平気だって」

 差し出された手が苛立たしく、鎌治はその手を払って歩き出す。ポケットに手を突っ込んで砂時計をいじりながら、芙海に背を向けて足を早めた。

「獅戸君!」

 小走りで、芙海が付いてくる。

「――――来るな!」

 鎌治は叫んで走り出した。

 苛々する。それは、突然女らしくなった芙海に対してではなく、苛立ちを隠せず、芙海に八つ当たりをした自分に対してだ。

 文化部で鈍りきった体だ。現役の運動部の芙海が追い付けないはずがない。だが、しばらく走っても芙海が追い付く気配は無かった。それでも鎌治は、振り返らずに駅までの道を走りきる。ばくばくと脈打つ心臓が、破裂しそうに痛い。息を吸っても、まるで酸素が入ってこないように感じる。

 ホームに降りると、電車が来るまでは数分の間があった。いつもとは違う、階段から遠い所まで歩き、電車を待つ。

 ようやく一息吐いたとき、不意に後ろから、誰かが肩に腕を乗せてきた。

「っ!?」

 思わず硬直する。相手は馴れ馴れしく鎌治と肩を組むと、耳元でくぐもった笑い声を漏らした。

「……よう、獅戸君。俺、豊原って言うんだけどさ」

 豊原。確か―――そう、芙海と付き合うことになったという先輩だ。

「お前、芙海の幼馴染だろ? 仲良しだって聞いてる」

「……だから何ですか?」

「まだ聞いてねえかな? 芙海、俺と付き合うことになったんだよ。つまり、お前が芙海の周りにうろうろしてると邪魔なワケ」

「別に……男友達なんだから、うろうろというか、たまたま近くにいるだけっていうか」

 ぐっ、と脇腹に相手の鞄が食い込んでくる。

「俺こう見えて、荒っぽい連中に顔が利くのよ。俺の芙海に近付くな」

「……、」

 鎌治の首に、豊原の指先が食い込む。

「お前の噂はよーく聞いてるよ、オオカミ少年。俺は学校じゃあ優等生でな。万が一お前をボコったとして、教師はどっちの話を信じるか、な?」

 小馬鹿にするように豊原が言う。鎌治は顔をしかめた。

「まあ安心しろよ。芙海みたいないい女がお前に靡くわけねえってのは知ってるからよ。頭はカラッポだが女としてはピカイチだぜ」

 鎌治は黙ってポケットに手を突っ込む。豊原は、鎌治が無反応なことに苛立ったのか、更に言葉を続けた。

「そうだ、お前もういっそ俺のグループに入らねえか? お前の口は便利だしな。そうしたら、お前にも俺の女を分けてやるよ。一回くらい、芙海抱いてみたいだろ?」

「………………」

 その言葉で、切れた。

「――――どいつも……こいつも勝手なこと言いやがって……」

 絞り出すように鎌治は言い、砂時計を握り締める。

「あんた死ぬぜ。今ここで」

 砂時計を引っ繰り返す。

「……へえ? 嘘だけじゃなく予言まで吐いてくれるのか、その口は」

 豊原は鎌治から離れる。鎌治が振り返ると、立っていたのは、声の印象とは裏腹の、柔らかな物腰の青年だった。

「死ぬって? じゃあお前が殺してくれるのか? やってみろよ。お前人殺しになるぜ」

「………………」

「ほらな出来ねえ。口先だけの負け犬少年はすっこんでろ」

 豊原は鎌治の肩を押してそう吐き捨てた。鎌治は息を吐き、足を階段へ向ける。豊原は鼻を鳴らした。

 足を早めて、鎌治はいつもと同じ、階段近くまで戻った。到着のベルが鳴り、ホームに列車が入ってくる。

 振り返った視線の先、人ごみの中に、豊原が見えた。あくびを噛み殺すその姿が、ゆっくりと前へ傾き――――

 悲鳴のようなブレーキ音が耳をつんざく。耳障りな甲高い音は、やがて、肉感を伴った、水が弾ける音へと変わる。それが何かを鎌治が理解する前に、電車を待っていた人々は一斉に、その音とは反対側へと逃げ出した。女も男も関係無く、悲鳴をあげて、必死の形相だ。

 何が起きたかは分からなくても、その結果だけは知っていた。

 その人ごみに押し流されそうになった鎌治を、細い腕が捕まえた。そのまま鎌治は壁際に引っ張り出される。

「わっ? 誰、」

「どうも」

 鎌治の目の前には、にっこりと笑うレンクの顔があった。

「……あんた、」

「二日ぶりですかね? 魂を引き取りに来ました」

「……え、」

「悪魔だと言ったでしょう? ああ勿論、まだ生きているあなたから魂を引っこ抜いたりしませんから。豊原さんですよ」

 レンクはそして、鎌治をそのままに、ひらりと舞い上がった。天井から吊るされた看板に着地し、黒いコートを翻らせながら、人ごみの上を通過していく。

 ―――他の人間には、レンクが見えていない。そう鎌治が気付くのに、さして時間は要らなかった。

 レンクは、血と肉の欠片となった豊原に近付く。そして、空中に手を突き出した。白い掌の上に、青白い光の球が現れる。ビー玉ほどのそれを包むように、不定形な靄のようなものが揺れていた。レンクはそれを握ると、またひらりと鎌治の前へ戻ってくる。

「その砂時計を渡すことのメリットは、これなのですよ。あなたがその砂時計で殺した人間の魂は、その砂時計の持ち主の悪魔が総取りしていいんです。悪魔の世界も厳しいので、なかなかこういう上質な魂は手に入らないのですが……」

 レンクは握った豊原の魂を、飴玉でも食べるように口に放り込む。

「……嗚呼、やっぱり程よく腐っています。鎌治さん、罪悪感なんか抱かなくてよろしいですよ。これは『事故』なのですから」

「……でも、」

 ずるずると鎌治はその場にへたり込む。

「俺が……俺が、死ぬように嘘を吐いたから……俺が、」

「ではそれを忘れないことです」

 レンクは鎌治に顔を近付ける。そして、鎌治の顔を掴んで自分を向かせた。

「あなたが『(クロ)』から『事実』にしたこと。本来彼が死ぬはずではなかった。その『(シロ)』を、あなただけは忘れないことです。そうすれば、失われた彼の命に報いることになる」

「……そう、か?」

「ええ。では精々頑張って殺してください。出来るだけ腐った、美味な魂を」

 レンクは胸元に手を当てて礼をした。鎌治は唇を震わせ、拳を握って俯く。

 鎌治が再び顔を上げたとき、既にレンクは姿を消していた。



 魂が抜けたようなままで、気付けば昼休みになっていた。鎌治は人気のない部室棟へ向かい、新聞部の部室に入る。

 コンクリートが剥き出しの床はひんやりと冷気を放っていた。外は暑いくらいだというのに、部室の中は身震いするほどに寒い。椅子に座って深く息を吐くと、こみ上げていた叫びがゆっくりと霧散していった。

「……俺が」

 鎌治は確かめるように口にする。

「俺が、殺した」

 ポケットの中で握り締めていた砂時計を、机に置いて頭を抱える。

 嘘を真にする砂時計。まさに自分が求めていた、面倒事を全て無かったことに出来る道具。便利な道具だ。

 嘘を吐くようになったのは、現状から逃げ出したかったからだ。化粧臭い母親と、拳しか覚えていない父親と、離れて行く友達が、全て憎くて。目を閉じる為に嘘を吐いた。

 ようやく目を閉じなくてもよくなった頃には、染み付いた虚言癖は取れなくなっていて、日常の些末なことに嘘を重ねては、自分で自分を傷付けてきた。

 そんな現状が、この砂時計なら変えられる。同じように嘘を吐き続けても、傷付かなくなる。好きに生きられる。このまま、虚言で自分を飾って、芙海が傍らにいて。どうでも良い過去など全て書き換えて、理想の自分が、理想の現在を過ごす――――

 芙海を自分から奪う者があれば、殺してでも、この安息を。

「……そうか」

 鎌治はぽつりと呟いた。

「俺、桃井が好きだったんだ」



「浮かない顔ですね。こんなに見事に腐りきった魂を貰えて、私はとても嬉しいですが」

 公園のベンチに座り、鎌治は俯いて手を握っていた。背中合わせになるように背もたれに座り、レンクはビー玉のような魂を指先で弄ぶ。

「……余計な人が五人も死んだ」

 もとから会いたくなかった相手だ。まして、来る途中で事故に遭ったのなら自分の責任ではない。鎌治はそう自分に言い聞かせる。

 だが、砂時計を引っ繰り返したのは自分だ。

「余計な人、ですか。そうですかねえ。事故に巻き込まれて死ぬっていうのはとんでもない確率ですよ。途轍もなく不運な人です。そんな不運な人は生きていても不運なままですよ。そう考えれば、この先被ったかもしれない不運が全てここに集約されたんですから、幸運な人達ですよ。そう思ってあげることです」

「生きていれば、幸福だっただろうな」

「死は救いですよ。或いはね」

 レンクは、舌の上で、鎌治の母親だった魂を転がす。

「死は終わりであり、同時に始まりです。神々に引き取られた魂はあの世で清められ、もう一度無垢となって赤子に戻される。それは人間であったり、動物であったり、はたまた植物であったり。生きとし生けるもの全てになり得るのです。本当に恐ろしいのは、その魂を悪魔にかすめ取られることですよ」

 レンクの言葉に、鎌治は顔を上げてレンクを振り返る。椅子の背もたれに座り、レンクは組んだ足を軽く上下させた。そして鎌治の視線に気付くと、舌を出して、ビー玉のような魂をちらつかせた。

「こうして悪魔の腹に入ってしまえば、魂はもう何処にも行けないでしょう?」

 軽く鎌治が目を見開く。その目の前で、つるりとその魂はレンクの喉へと吸い込まれていった。鎌治は苦い顔で視線を逸らす。

 午後の六時を告げるチャイムが、遠くから鳴ってくる。

「……今日一日で、七人殺した」

「ええ素晴らしい。是非このまま、無実の殺人者を続けてください。歓迎しますよ」

 レンクは鎌治の隣に座り、眼鏡の奥の目を細めた。

「但し、ルールは破らないように――――そんなの、つまらないですから」

 鎌治が舌打ちをして立ち上がり、レンクはやはり、芝居がかった礼をして姿を消した。



 金曜の放課後の学校は、平常より弛緩した雰囲気に包まれていた。のそのそと帰る準備をしていた鎌治の机に、いきなりに鞄が置かれる。ゆっくりと顔を上げると、芙海が立っていた。

「……何だよ? 邪魔」

「今日ヒマ?」

「……暇だけど」

「ちょっと付き合って」

「丁重にお断りいたします」

 あっさりと言って、鎌治は鞄に教科書を詰める作業を再開する。芙海はむっとしてその手を掴んだ。

「あのさ。この間ドタキャンしたの悪いと思って誘ってるの。暇なら付き合って」

「暇かっていう質問に、正確に答えるならな。お前の用件の具体的な内容と、その重要度と、見込み時間を教えて欲しいものだな」

「はっらたつなあ、いつもこっちの予定はお構いなしなくせに」

「へーへー。それじゃあ今日は三角関数の復習しようと思ってたけどキャンセルしますか」

「あああごめんごめん、それは教えて!」

 芙海は慌てて言い直す。鎌治は露骨に嫌そうな顔をした。

「つーかさあ……先輩が亡くなってまだ一週間だろ。尻軽の薄情者と思われるぜ」

 鎌治は声を潜めた。芙海はしかし、鼻を鳴らして鎌治の向かいに座る。

「だから何よ? そもそも、部活の皆は知ってるけど、あの人にしつこく迫られたから了承したの。死んだ人を悪く言いたくないけど、良い噂は聞かなかったし」

「じゃあ何で了承したんだよ。言ってくれたら……」

「何? 言ったら守ってくれた?」

 芙海の言葉に、鎌治は言葉に詰まった。

「確かにあんたは部活のエースだったし、頭も良いし。でも今は只のモヤシヤローじゃない。何ができるの」

 殺せる。

 ポケットの中で砂時計を弄りながら、鎌治はその言葉を飲み込んだ。

「……今からでも、運動系の部活入るかね」

「へえ? 珍しいね、獅戸君がそういう積極的な行動に出るなんて」

「俺にも思うところはあるんだよ」

 芙海はノートを開き、筆箱を取り出す。

 今を変えたいわけではない。むしろ変わらないままの方が望ましい。

 芙海を自分から引き離す者と、自分を平穏から遠ざける者。自分の言葉ひとつでどちらも消えた。ならば、否応なしに変わる現状に、自分も追いついていかなければいけないのならば、その露払いをすればいい。いつまでもモラトリアムを続けてもいられない。

 前に進むなら、障害を取り払う手段を持っている、今だろう。あの飄々とした悪魔が、いつ気分を変えて自分から離れるとも知れない。

「でもじゃあ、やっぱりバスケ部? エース様復活?」

 期待を寄せる芙海の表情に、鎌治は苦い顔になった。

 エースだった過去は、自分が作った物。自分にそんな実力など無い。

「さあ。これから決める」

 鎌治は教科書を叩いて芙海をそちらに集中させた。

 ポケットに手を突っ込んで、砂時計を弄る。ほとんどの生徒は、既に教室から出ていた。

「でもそっかあ。楽しみだな、あのエース様がまた復活かあ」

「だからバスケ部とは決めてないって……」

 顔を上げた芙海と目が合い、鎌治はほぼ無意識に笑みをこぼす。

 最後の生徒が教室から出て行き、向かい合った二人に夕日が差す。

「何? 獅戸君」

 そう問いかける芙海の髪は、夕日で金色に縁取られている。鎌治は背もたれに寄りかかり、足を投げ出したまま、ゆっくりと長い息を吐いた。

「桃井は、先輩のこと好きだったのか?」

「……ううん。付き合っていたら、その内好きになるかと思ったけど」

「じゃあ、好きな人は、いるのか?」

「何? いきなり……」

「いや」

 鎌治はポケットの中で砂時計を握った。

 口が渇く。鎌治は視線を落とし、前かがみになった。

 人を殺せる砂時計だ。記憶すら書き換えられる砂時計だ。――――出来ないはずがない。

 自分の理想の為に利用してやる。

「別にいないって言ったら?」

「……じゃあ、俺でいいじゃん」

 まるで世間話をするように、鎌治はそう言った。

「……へっ?」

「俺でいいじゃん、付き合おう。……桃井は俺が好きなんだから」

 砂時計を引っ繰り返す。

「俺も桃井が好きだし。豊原先輩みたいなのがまた来たとき、露払いくらいはしてやれるし。お前のためなら喧嘩に負ける気しないしさ」

「……何、何で……」

 鎌治は顔を上げ――――芙海の表情に、息を飲む。

 顔は耳まで赤くなり、目は潤んでいた。震える唇からはそれ以上声が出てこない。

「何でそのこと……」

 泣きそうになって、芙海はようやくそれだけ呟いた。震える声音が、鎌治の胸にいやに深々と突き刺さる。

「っごめん、間違えた!」

 鎌治は言って、立ち上がって教室を飛び出した。

 鎖を引っ張って砂時計を取り出す。砂はとっくに落ち切っていた。

 同じ出来事に二回は使えない。だが方法はある。

「俺は告白なんかしてない」

 そう言って、砂時計に指を掛ける。だが、引っ繰り返そうと砂時計と輪をずらし、そこで指の動きは止まった。

 唇が震える。指先は汗で滑り、砂時計の鎖の鳴る音が嫌に耳に張り付いた。

 告白していなかったとしても。既に芙海に対して砂時計を使った。芙海の本心を自分が塗り替えてしまった、その事実はずっと自分の中に残ったままになる。

 自分の気持ちは変わらない。ならばこのままの方が――――しかし、流石に今のタイミングで言うのは、まるで豊原の死に付け込んでいるようだ。

「~っ、」

 目を閉じて、指を押し出す。かちりと音がして、砂が落ち始めた。

 そうだ。このままでいい。自分が全てを心の内に収めておけばいい。そうすれば何も起こらないではないか。そもそも自分は、現状を変えたくなくて嘘を吐いていたのだ。現状を変える嘘など吐いてどうするのか。

 目を開く。砂は半分ほど落ちていた。

 ―――だが自分は、今ようやく前に進もうとしたところだ。露払いはできるのだから。錆びた歯車が壊れるのが嫌ならば、自分から油をさして動かせばいい。芙海と付き合うことになれば万々歳ではないか。元から自分はそれを望んでいた。それを今更、相手に悪いなどという考えで諦めていいのか。

 自分にはこの砂時計がある。全てを書き換えられるこれが。

「っ!」

 鎌治は、砂が落ち切る寸前、指を輪に押し込んで、もう一度引っ繰り返す。

「確かこれで、キャンセルに……」

「はぁーいお疲れさまでーす」

 不意に。

 からっとした声が降って来た。ほぼ同時に、鎌治の後方から、床、壁、天井までもが漆黒に染まってゆく。まるで蔦が這うように、漆黒が廊下全体を覆っていった。

「えっ……」

 息を飲んだ鎌治の足元が消えた。確かに踏んでいた筈の地面は虚空となる。何かを掴もうと伸ばした手の先に、悪魔を見た。

「二回ルール違反したので、失格ですね」

 レンクは、逆さまになって鎌治を見下ろしていた。しかし、本来垂れ下がる筈のコートも、髪も、足元に向かっている。まるで重力がそこだけ反転しているかのようだ。

 いつも通りの優男の姿―――では無い。背中からは、まるで蝙蝠の翼のような黒いものが生えていた。

「二回……? 俺は、一回も!」

「いいえ二回です。まず、『使う時は、必ず嘘を吐いてくださいね』と言ったでしょう?」

「……え、」

「口にしたことが真実か否か。よくよく見極めるようにと言ったのに」

「じゃあ……だとしたら……」

 心当たりは一つしかない。

「……嘘だ」

 ぽつりと呟いた鎌治に、レンクは逆さのまま近付く。こつこつと、革靴が鳴った。

「幼馴染の恋心ひとつ分からないなんて」

 嘲るようにレンクが言い、鎌治は泣きそうな顔になる。

 自分は好きだった。だが、だからといって好かれているなど――――自分のような嘘吐きを好きになる物好きなど、いないと思っていたのに。

「……芙海」

「残念でしたね、折角告白できたのに」

 震える声で鎌治は呟き、レンクは笑って肩を竦めた。

「そしてもう一回。砂が落ち切る前に引っ繰り返しましたよね。因果に触れる砂時計を、そう軽々と使われては困りますよ」

「はっ? だっ……て、そうすればキャンセルになるって、」

「すみませんねえ。嘘なんです」

 レンクはあっさりとそう言った。

「……は?」

 くらっ、と貧血に襲われる。

「だって……悪魔は、嘘を、吐かないって」

「それも嘘です」

 レンクはやはり笑顔だ。ざわついていた胸の奥から、どす黒いものが噴き出してきた。

「ふざけっ」「まさか!」

 鎌治の言葉を遮り、レンクが声高に叫ぶ。そして回転し、鎌治に急接近した。鼻の頭が触れるのではという距離で、レンクは金色の目を細める。ただ笑っているのではない。鎌治を見下して、嘲笑っている。

「自分がこれだけの嘘吐きだというのに、他の誰もが正直者だとでも思っていたのですか? 詐欺師でもない、日常の些末な事にしか嘘を使わないあなたが? 世界で唯一の嘘吐きだとでも?」

「……それは、」

「まさか悪魔が嘘を吐かないとでも? 魂をかすめ取って喰らう悪魔が? あなたにそんな、世界の理すら捻じ曲げかねないものを渡して遊んでいた悪魔が?」

「…………俺は、」

「そんな思慮が浅いあなただから砂時計を進呈したのですけれど、返して貰いますね――勿論、あなたの魂と共に」

 レンクの手が、鎌治の首に伸びる。

 脳裏に浮かぶのは、レンクの紅い舌に包まれて飲まれていった魂だ。息苦しくなって、がちがちと歯が鳴る。死ぬのが怖いのではない。その先、自分の魂があの悪魔の腹に入る、その事実が、今更のように恐ろしいのだ。

 鎌治は後方に倒れながら、砂時計を、掌に食い込むほどに固く握りしめ――――

「俺は         」

 砂時計を引っ繰り返した。



 時計の秒針が一周して、芙海は顔を上げた。

「……あれ、寝ちゃったかな……」

 誰も居ない教室で、芙海は目を擦る。座っているのは自分の席でもなく、顔を伏せていたのも他人の机だ。

「ごめん、寝ちゃって……何処を……」

 そう言って、ふと、芙海は目を瞬かせる。

「……誰と勉強してたんだっけ」

 向かいには誰の荷物も無い。自分は一人で、放課後の教室で勉強をしていた。

 そのはずなのに、頭の奥に、針が刺さったような違和感がある。

「ああ、いたいた。芙海、帰ろうか」

 がらりと教室の戸を開いて現れたのは部活の先輩の豊原だ。先日、再三の申し込みに折れて交際を始めたばかりだ。

「あ、はい……」

 芙海は立ち上がって荷物をまとめた。そして豊原に向かって歩き出し―――

「……?」

 襟を引っ張られたような感触に振り返った。当然ながらそこには誰も居ない。

 だが―――夕日の中、自分に向かって手を差し出す、誰かが見えた気がした。

「芙海?」

「え? あ、すみません。すぐに」

 芙海はその幻から、すぐに豊原へと視線を戻した。



「……考えましたね」

 夜風が吹き抜ける、とあるビルの屋上。レンクは黒い砂時計を握って街を見下ろしていた。

『俺は十五歳で死んでいた』

 鎌治の最後の嘘だ。レンクが止めるより先に砂時計は引っ繰り返された。書き換えられ始めた因果を止めることはレンクにもできず―――鎌治は、中学卒業時に、このビルの屋上から転落死したことになった。

 高校生にならず、レンクとも出会わない。そうなれば当然砂時計を得ることすらできない。過去を書き換えられた現在では、鎌治が重ねた嘘を知っているのはレンクだけだ。

「やっぱり嘘は良くないですね。折角の最高に腐った魂に逃げられてしまった」

 レンクはフェンスの上に座り、首から砂時計をかける。しゃらん、と鎖が鳴った。

「まあ良いでしょう。腐った魂も、その素質のある魂も、この世界にはいくらでもいる。次は精々、腐りきるまで大切に育てますよ」

 レンクは眼鏡を外し、畳んだそれを胸元に掛ける。金色の目が見下ろす街は、相も変わらず回っていた。

「――――さて」

 夜闇に浮かぶ月に向かい、レンクは長い息を吐く。

 そして、小首を傾げて虚空を見た。

「あなたも、夜風にあたりにここへ? ……そんな訳、ありませんよね」

 口元に手を当てて、犬歯を隠すようにレンクは笑った。

「本当に残念だ。あと数年生きていればあなたは最高に腐ったのに。……そんなに生き苦しかったのなら、私に食べられても同じではなかったですか?」

 髪の間から、曲がった角が覗く。レンクの背後に広がる漆黒の翼が、屋上にそそぐ月光を遮っていた。闇の中に向かって、レンクは更に問いかける。

「ああ、やっぱり、生きていたくなくても、死にたくても、死んだら楽になってしまいたかったですか? それとも、辛いことなんか、全部なかったことにしたかったですか?」

 暗闇から返事はない。

「残念。そういえばもう私のことも忘れてしまった……いえ、知らないんでしたね。それじゃあ、あなたとはここでさようならにしましょう。……そのまま死に続けていればいい」

 暗闇から返事はない。

 ただ遠くで、ぐちゃり、と聞こえないはずの音がした。

 レンクは踵を返し、ビルの端で翼を広げる。両手を広げて空を仰ぐと、その顔は陶酔するように笑みを浮かべた。

「嗚呼、彼は必死に逃げようとしたのに。自分が一番苦しまない方法を探したのに、結局誰も救われなくなってしまった。誰かが彼を迎えに来るまで彼は死に続けるでしょう。彼が、自分と好き合っていたのだとも気付かなかった彼女は? 母親は? 何もかもが元通りで、ただ、彼がいない。その事がどれ程の悲劇か! 自分がどれ程、周りにとって必要な人間だったのか。それを理解できなかった彼はどれ程不幸だったか!」

 紅いレンクの舌がゆっくりと唇を舐める。その姿は夜の闇へと溶け始め、眠らぬ街の狭間へと消えていった。

「嗚呼――――これだから、人間は面白い」


(了)

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