ぼくのひみつ/1995年2月/ダレン・キングスコート
自由な空色を纏う翅は、もとから青かったのだろうか。
それとも、涙の色をたくさん吸い込んでしまったからなのだろうか。
ぼくは、空色の蝶。
1995年2月/イギリス・チェスター
今日、ダレン・キングスコートは新たにダレン・アッシャーへと生まれ変わる。
イングランド北西部のチェシャー。
中世の姿を残すチェスターの街並みの中を黒塗りの車が走る。少年ダレンは車窓からぼんやり外の景色を眺めていた。
テューダー様式の建物、オレンジの煉瓦と白の塗り壁、複雑に見えるが規則正しい木の模様。
冬の鉛色がこの街の美しさを際立たせている。
「お父さんとはちゃんと話せた?」
運転席に座るのはアッシャー夫人だ。
母方の遠縁にあたる親戚のおばさんといったところで、今日からダレンの新しい母となる人だった。
「必要なことは話しました。でもあの人は母さんの葬式にも来なかった」
「怒った? それとも悲しくなった?」
「野暮な質問は答えないと言いました、Mrs.……いえ、……マミー」
「いいのよ。まだ辛いならそう呼ばなくて」
本当のダレンの母、エレインは先月の中旬に亡くなったばかりだった。まだ36歳で若かった。
死因は転落死で遺書が見つかったので自殺と認められた。
父親は親戚の手前、美しい妻を失った愛妻家の夫を演じていたが、息子ダレンには何もかもお見通しだった。
「あの人は僕のことを頑なに認めなかった」
記憶の中に残る父親は悪党そのもので、母エレインに害をなす存在で常にダレン自身も牙を剥いていた。
「俺は知っているぞ、こいつが婚前交渉でデキた赤ん坊だってことを! 何処のどいつなんだろうなエレイン?」
「あなた! やめてちょうだい……、ダレン、部屋へ戻って!」
夕食のテーブルは3人の顔が揃う唯一の機会だった。
男は不義の息子とその妻を、食事を用意し仕えてくれる使用人たちの前で、恥さらし者として扱った。
ダレンには日常的な出来事だった。
部屋に戻らず食堂前の廊下で口論を続ける両親の罵声と悲鳴を聞きながら、こっそり持ち出してきたパンをちぎって食べた。
就寝前に母の部屋を訪れ、エレインが眠れるまで慰め続けた。
繰り言のように謝る母は実にかわいそうな女だった。
「僕がまもってあげるよ母さん。そうだ、一緒にこの家を出よう?おばあさまのお家に行くんだ」
「それはいけないわ、ダレン。出て行ってもいずれ知られてしまう」
「でもこのままじゃ……母さん」
エレインが振るわれていたのは言葉だけでないことをダレンは知っていた。
知っていながらも非力で、周囲の大人に告げることもできず、また告発したところで使用人は役に立たない。
外の大人も、仮面をかぶった素行の良い父がそんな手荒な真似はしないと信じるだろう。
そしてダレン・キングスコートはおかしな子供といった表皮を纏うことになる。
エレインが亡くなる前夜、ダレンは母の部屋を訪れていた。
「……ダレン、私のかわいい坊や。こっちへおいで」
「うん。母さん」
ベッドの上、白いネグリジェを着たエレインは青白く今にも壊れてしまいそうなほど弱っていた。
エレインは自慢の母親でありうつくしいひとだったのに、この時ばかりは酷く脆くできた球体関節人形の様だった。
その時、どうして母を連れて逃げなかったのだろうか。ダレンには唯一それができたはずだった。
部屋の化粧台にはダレンが生まれる前の写真が飾られていて、そこにはお互いを尊重し愛し合う男女が写っている。
ダレン少年の知らない2人だけの時間が切り取られて、ダレンは居心地の悪さを感じていた。
写真を撮ったとき、少年はすでに母の胎内に在ったのだろうか。
すべての業を背負ったかのような気分を紛らわせるように写真から視線を外した。
「いい匂いがするね」
母親の優しい腕の中でダレンは目を細めた。
柔らかく暖かく、そして甘い。
陽の匂いに混じって薔薇の香りが鼻腔をくすぐった。
「……ダレン、ダレン」
「なあに、母さん」
「どうか許してちょうだいね?」
「なにか悪いことをしたの? 父さんには言わないよ。だからちゃあんと言って」
僕だけが、僕だけが、母さんをまもることができる。
ダレンは最悪の答えを覚悟した。
世界で一番かわいそうなこの女を父の代わりになって幸せにしよう。
エレインがそっとダレンの左耳に囁きかける。
心臓の鼓動はずっと速いテンポのままだった。
エレインの部屋から立ち去ったとき。
冷え切った廊下に出た途端、さっきまであった温もりも頬に与えられたキスでさえも、肌に突き刺す寒さによって消えてしまう。
それが無性に悲しく、ひどく優しい罰だったのだ。
(なんて、甘い―――)
翌日、屋敷内は騒然としていた。
なぜなら母が屋敷内の大階段の踊り場で冷たくなっていたからだ。
屋敷の使用人の一人が第一発見者となった。
ダレン少年はどうしても昨夜の事が忘れられなかった。
あれが、最後の挨拶だったのだから。
(ぼくは、なんて情けないやつなんだ)
揺れ動く車内。
母を喪った孤独と無気力の狭間でダレンは儚い夢をみていた。
窓の外を覗くと灰色を下地にちらちらと降る雪が視界をかすめた。
「起きた? ダレン」
「ごめんなさい、寝てしまった」
アッシャー夫人がバックミラー越しにダレンを見た。
遠い親戚だからだろうか、笑った時にできる目尻のシワが母エレインと僅かに似ている。
「もうすぐ着くわ」
雪の中のビッグベン近くを通りすぎるとダレンの住んでいた町の子どもたちを思い出した。
彼らはみな、ロンドンに憧れていた。
休暇になると国外に行くくせ、首都には行く機会がなかった。
そんな憧れの地が今目の前にある。
ダレンは無感動な自分自身に呆れてついため息を吐いた。
「……大丈夫? ダレン、今日はやめとく?」
「マミー。マミーからみた僕はどんな様子?」
「すごく疲れているみたい、休むべきよ」
「……ううん。今日家へ行くよ、マミー」
自分ひとりの時間を与えられてもきっと今以上に塞ぎ込んでしまうだけだ。
「僕には兄妹がいるんでしょう?」
「ええ。あなたより3つ上にエマ、4つ下にセシルがいるわ。2人とも女の子よ。」
「彼女たちは僕が間に入ったりして嫌じゃないかな」
「そんなこともちっともよ。エマは大喜び! ……ああでも、セシルは……」
アッシャー夫人はセシルの名前を出した途端歯切れが悪くなった。
セシルは、家にいないの。
思わず眉を顰めたダレンに夫人は慌てて訂正した。
「セシルは生まれた時から体が弱くて、家じゃなくて病院に住んでいるの」
「そう……なんだか、僕迷惑な子どもだよね。セシルにもきっと」
「ダレン、そんなことないわよ」
「どうしてそう言い切れるの?」
アッシャー夫人の言葉は何の根拠もない宥めに過ぎない。それが余計にダレンの鬱屈とした心を逆撫でにした。
ダレンは母親が死に、頼れる人間がいなかった。
横暴な父親はダレンに手をあげるようになるかと思われたがその様にはならなかったのはせめてもの幸運だった。
なぜなら、父親もつい先日屋敷内にある噴水で冷たくなっていた。
現場を検証した地元の警察は目立った外傷がなく持病の類もなかったことから自殺と判断した。
(死んで当然なんだ。僕は知っていた、この男が僕たちにやってのけたことを思えば)
父親だった男の最後の日、土に埋もれていく棺に向かって百合を放り投げた。
生前、男と親しかった友人たちが憐みの視線でダレンを取り囲んだ。
かわいそう、かわいそうなダレン。聞こえないけれど、聞こえる心の声。
(僕はかわいそうなんかじゃない。僕は、弱虫なんかじゃない――!)
非力でなにもできない。
大切な人も守れない。
「僕は、生まれてこなければよかったんだ」
苦し紛れに絞られた自殺願望。
ダレンには哀しいだとか明日自分の生活がどうなるのかといった不安は一切なかった。
このまま自分も死ぬ。
死ぬべきだと思った。それが正しい摂理であるとさえ。
「ダレン、落ち着いて。家族みんなで決めたの、あなたが家族になることを」
「どうかな。僕はどこへ行ってもお邪魔虫だよ」
実父にさえ、認められることなく。
実母すら死に別れ、少年ダレンの心を受け止める者はいない。
シニカルな態度を取る齢10ほどの美しい少年にアッシャー夫人は底知れぬ恐怖を抱いた。
車のハンドルをぎゅっと握って息をつくと喉が渇いていたことにようやく気がついた。
「……家に帰ったら、エドとエマを紹介するわ」
僕はひとりなんだ、誰も彼もすべて。
自分だけが不幸だと思い込まなければ均衡が崩れてしまう、心の均整が保てなくなる。
だからダレンは受け入れることに抵抗しなかった。
新しいダレン・アッシャーには暴力的で懐疑的な視線を向ける父親はいないし、愛情を持って真綿のように優しく包み込んでくれる母親はいない。
ごく普通の家庭の愛情に満ちた生活を手に入れた。
仲の良い両親、面倒見のよい姉、病弱で従順な妹。
ダレンがいてもいなくても成立した家族だったが、より完全な家族になるために嘘を用意した。
ダレンはダレン・アッシャーという理想にかなった模範的な少年を完璧に演じた。
ダレンは喜んでその嘘を引き受けた。
息子として対等な姉弟として、家庭内社会の役割を求められることに喜びを覚えたから。




