白薔薇の王子さま/1998年8月/セシル・アッシャー
※各人物、時系列順に進行します。
王子さまはこの世界に実在するの。
それは本物の王子様がいるこの国においても、女の子をいつだって幸せにできる夢物語でも。
白薔薇の王子さま
1998年8月/イギリス・ロンドン・ハマースミス
柔らかな朝陽が窓を通り抜けて、空気がまだ熱を持たない早朝。
微睡みに浮かぶ少女の亜麻色の髪を金色に染め上げた。
新境地に至る日にはふさわしい天気だろう。
イギリスを象徴する曇天が今は見る影もない。
だが、このベッドに眠る少女であるセシル・アッシャーにとっては憎らしいほど悲しい朝だった。
セシルには7つと4つ、年の離れた姉のエマと兄のダレンがいる。
姉弟といっても兄のダレンは遠い親戚で、セシルが6つほどの時にこのアッシャーの家に養子としてやってきたため血の繋がりは薄い。
しかしセシルはダレンを本当の兄として慕っている。
というのは彼女は生まれつき体が弱く、ちょうどダレンがこの家へ養子としてやってきた時、都市にある大学病院に生まれてまもない頃から入院していたのである。
家族は病弱で将来の希望すら持てるかわからない末娘のために時折嘘をついた。
嘘といっても優しい嘘だ。
サンタクロースが実在することや、家の周りには妖精が住んでいて妖精に祈ると良いことが起こることなど。
セシルは絵本をよく好んだので、絵本に登場するプリンセスの物語と王子様は実在するという家族の嘘を純粋に信じた。
「はじめまして、僕はダレン。君はセシルだね」
セシルが自宅静養を始めた日、両親の嘘は本当になった。
家へ帰るとリビングの長椅子にゆったり身を任せ、分厚い古書を読み耽る美しい少年がいた。
「……あ、Hi、ダレンなのね?」
セシルは初対面までこんな少年が家にいることを知らなかった。
灰色がかったブラウンの髪を持つセシルとは違い、ダレンの髪は黄昏時の稲穂のように金色であった。
彼によく近づいてみるとダレンがいかに綺麗な少年であるかがわかったし、本当に男の子なのかと信じられなくなった。
「僕は知っているよ、君が赤ん坊の頃から。僕がお見舞いに行った時は大抵よく眠っていたけれどね」
「えっと、ダレン」
セシルは姉のエマの友人か親戚の子か誰かだと思っていた。
まったくその通りに彼女の勘は正しいわけだが、ダレンを含めエマや両親たちはやさしい嘘をつくのが得意だった。
「こっちにおいで、おかえりのキスをしてあげる」
ダレンは長椅子の上で両手を広げセシルを歓迎した。
セシルは断る選択肢が無く、おずおずと少年の腕の中へ進んでキスを受けた。
「はじめまして、よろしくね。ぼくの小さなお姫様」
セシルの髪と広い額に数回、それは親愛の挨拶である。
妙な胸のこそばゆさに戸惑うセシルを知ってか知らずなのかダレンは立ち上がってセシルの手を取ると庭へと続く扉まで連れ立った。
「久々の我が家に帰ってきたセシルにプレゼントするよ。ぼくらのマミーが先に用意してくれているはずだ、楽しみだね」
扉を開けるとそこは薔薇の園だった。
赤、白、ピンク。
柔らかな薔薇の香りが庭一面を覆い、包み込んでいる。
セシルにとってこの家は我が家であってそうではない。
だから家族はできるだけ早くセシルにはこの家に慣れ親しんで欲しかった。
「綺麗だね」
ダレンがセシルに共感を求めるようそう言ったが、セシルはこの薔薇園や誰よりも、今目の前にいる男の子の方が綺麗だと思っていた。
「ダレン! セシルをこっちに連れてきてちょうだい!」
少し離れたところからダレンを呼んだのは姉のエマだった。
エマはセシルとは対称的で、人付き合いが上手く器用な人で入院生活が中心のセシルの世話によく来ていた。
「マミーは?」
「マミーは車の鍵を溝に落としちゃって、今表にいるわ。私はその代わりよ」
若草色の芝生の上に用意された簡易テーブルには編み込まれたレースのテーブルクロスが掛かっており、さらにそこにはアフタヌーンティーセットが載せられていた。
セシルは期待に弾む胸を押さえながら、これから何をするの?とふたりに問いかけた。
「セシルはこっちに座って。マミーは……ダディが帰ってくるから大丈夫でしょ。じゃあお茶淹れてあげるから待ってて。ダレンはキッチンにマミーのケーキがあるから持ってきて、それを切ってあげてね」
「わかったよ」
言われるがままに椅子へ座ったセシルだったが自分もなにかしなければならないのかどうなのか、姉らがテキパキとお茶の用意をするのに合わせてキョロキョロと周囲を見回したり、膝の上においた両手指を捏ねたりと忙しなくしているので、遂にエマは「大丈夫よ。今日はあなたが主役なんだから」とたしなめた。
「ねえ、エマ」
「なあに」
「ダレンってどうして、一度も会ったことがなかったの?」
「セシルと? ……ダレンは忙しかったの。うんとお勉強をして、将来はーー」
エマはセシルから視線を外した。
ちょうど鍵を諦めた様子の母親と、その母親が朝に焼いたケーキを大皿に載せて戻ってくるダレンが見えたからだ。
「おかえりなさい、マミー。鍵は諦めたのね、じゃあお茶を足すわ」
「ええ、ありがとう。エドが帰ってきたら取ってもらうことにする。ダレン? ケーキはあるわね?」
「持ってきたよ」
セシルはもうエマに話の続きをねだる事ができなかった。ダレン本人を目の前に聞いてはいけない事なのだろうと彼女の常識が真実を胸の奥へ閉じ込めてしまった。
もし皆の前でもう一度、問いただすことができたのなら、彼女の長い葛藤と苦悩は避けられたのかもしれない。
「おはよう、セシル。寝癖がひどいよ、あとで整えてあげるから先に顔を洗っておいで」
「…ダレン」
最後の朝食の前の挨拶は、やはりいつもと違った。
昨日の夜、セシルはベッドに入ってもなかなか寝つけなかった。
兄、ダレン・アッシャーは今日から家から出ていってしまうのだ。
「本当に、行っちゃうの?」
セシルは顔を白くして縋る様に兄を見上げた。
切なく庇護欲を掻き立てるセシルはダレンからすればどうしようもない甘えきった妹だろう。
それでも嫌がらず、彼は何度も同じ言葉をセシルへと捧げた。
「いい子で待ってて。5年なんてあっという間だ。セシルはとっても我慢強いから大丈夫だよ」
ダレン・アッシャーは明後日からイギリス中等教育にあたるパブリックスクールへ入学する。
男子のみの寄宿制の学校で、英国内でも名門にあたるカレッジである。
ダレンは生まれこそ名門ではあったが、アッシャー家の養子となったが家は中産階級で、財政的に高額な学費を支払うには厳しかった。
そのためダレンは、彼自身と彼自身の家族のために通常入学ではなく奨学生制度を利用した入学を希望し、長期間に渡ってホームスクーリングと市内にあるプレップ・スクールで勉学に励んだ。
「僕は自分が誓ったことは貫ける。だから必ず帰ってくるよ」
その通りにダレンは自分自身の誓いは破った試しがない。
テューダー・カレッジの奨学生になることを受験前から固く誓い、見事その座を獲得した。
奨学生は返済不要の学費と授業料を政府によって負担される特別な制度である。
「約束するよ。セシル」
妹の頭に鳥の羽が舞い降りるようにやさしいキスを誓いとともに送った。
セシルの胸には不透明な煙が漂っていた。
ダレンが自分から離れていく、遠くへ行ってしまうことに、ひどく恐怖した。
「やあ、みんなおはよう。さあ朝食にしようか」
「マミー、ダレンはダディの車で送っていくって」
母が作った朝食をテーブルの上に並ぶと、父・エドワードとエマが台所に集まった。
「ごめんなさいねエマ、どうしても失くしちゃうのよ」
「ハニーは悪くないよ。失くしものなんて誰にだって起こることさ!」
またしても鍵を紛失した妻のフォローを入れるエドワードだが彼は物忘れが日常茶飯事であった。
エマは呆れ果てて、お気に入りのブルーベリージャムをトーストに塗ることも諦め、素の味を噛み締めた。
その3人にダレンとセシルが加わって、5人家族の今年最後の食事が始まった。
初めて会ったときからダレンはセシルにとって絵本の中、あるいは空想の中の黄金に輝く王子さまそのものだった。
女が多い家で、息子を欲しがった両親は喜び、弟を欲しがったエマも大いに喜んだ。もちろんそれはセシルも同じだった。
ダレンがその場にいるだけで世界が華やぎ、呼吸を始める。
まるでスターのよう。
もしかして、本当に地上へ落ちてきた星の妖精なのかもしれない、と夢見がちな少女であったセシルは家族の中で誰よりもダレンの虜になった。
「ダレン! お外で一緒に遊びましょ」
「食後の薬は飲んだ?」
「ばっちりよ!」
庭先の緑を一望できる1階にダレンの部屋があり、日中の半分を自室での勉強に充てているダレンをセシルはよく遊びに誘った。
「今年は綺麗に咲いたね」
「やっとよ」
「1本だけ貰っていい?」
イングリッシュローズの小さな庭園はエマとセシルが協力して作ったものだ。
セシルは少しだけ躊躇したが、首を縦に振った。
今が咲き頃の白い大輪の薔薇を優しく1本手折るとダレンは眩しそうに目を細めた。
「これを部屋の花瓶に挿すよ。勉強の時に眺められるようにね」
とってもいい香りだ、ダレンがそう言うだけでセシルの心臓は跳ね上がった。
自分のことを褒められたかのように、嬉しい錯覚を引き起こした。
セシルがダレンについて知ることはまだ少ないので、彼が花をそんなに好きであったことが意外で驚いた。
「そんなに薔薇が好きなら、来年はもっといっぱい、咲かせてみるわ」
「そう? それはとても嬉しいな」
ダレンのために、喉の奥でその言葉は雪が溶けるようにそっと消えた。
この時まさか、来年に彼がこの家にいないことなどセシルは微塵にも思わなかったし、彼はずっと自分のそばにいてくれる優しい兄だと思い込んでいた。
「薔薇を見ていると、懐かしい気持ちになるんだ」
「懐かしい?」
「昔が恋しくなるんだよ」
セシルにはわかるかな。
わからなくても、そのうちわかるようになるよ。
ダレンは意味深に言葉を続けたがセシルにはちっとも何のことだかわからなかった。
彼の昔とはいつのことだろう、セシルが知らない、知ることもかなわない程昔だろうか。
セシルはどうしてもダレンのことを知りたくなった。
なぜならばこの少年の瞳が夜空の闇に溶けていく星のように、今にも消えてしまいそうだったからだ。
「ダレンは寂しいの?」
「……そうかもしれない」
セシルは当てずっぽうに言ったつもりだった。
ダレンは白薔薇の花心に鼻を埋めると胸いっぱいに香りを満たした。
彼にとって白薔薇の匂いは幼心を蘇らせる、今は思い出の中にだけ咲く実の母のものだった。
セシルは当然そのことを知らない。
ダレンはこの家にやってきた時に誓っていた。もう二度と、思い出さないように。
しかし嗅覚が人にもたらす感動は計り知れないものだ。
ダレンは匂いによって胸の奥をかき乱されてしまったことをまさに恥じようとした。
「寂しいのね、じゃあ私がずっとそばにいるわ!」
「ずっと?」
「ずっとよ!」
「それって、どれくらい?」
セシルはダレンが不安そうにしているのが堪らなくなっただけだ。
だから思った事をすぐに言ってしまったことを後悔した。
「未来のことなんて、わからないわ」
本当に、未来のことなど誰もわからない。
それが、セシルなりの答えだった。
彼が寂しいと、心の片鱗をセシルに見せてくれた日がつい昨日のように思い出される。
午後になりダレンがすでに家を出て行った後、庭のローズガーデンの傍らにセシルは身を投げ出していた。
頭上を舞う小鳥や蝶が今は憎らしい。
これから毎日ずっとダレンのいない時間を過ごす。
朝はおはようから夜はおやすみまで。
金色に輝くひとがいない空白に耐えられるだろうか。
彼のことだから毎日のように手紙を書き、休暇には必ず戻ってくるだろう。
それをわかっていながらも、もうすでにセシルの目には涙が浮かんでいた。
「嘘よ。ダレンのためじゃない、私が一番寂しいのに」
セシルは愛してしまった。
その美しい人を。
彼の名は、ダレン・アッシャー。
それはセシル・アッシャーの兄だった。