第91章
91.
魔王の妾、というのは役職じゃない。
ただ、立場を表す言葉に過ぎない。
それでも、多くの者が『魔王の妾』を畏れ、そして蔑んだ。
曰く、『死を振り撒く者』
曰く、『黒衣の暗殺者』
曰く、『孤独な闇の女王』
そして、『魔王様に取り入った、娼婦』
いずれの呼び名も、嫌いじゃないけれど。望んで得た物は、一つもない。
力を持たぬ一人の女は、いつの間にか魔王の傍で、声を潜めて噂される、そんな悪女に上り詰めた。
数多の街が焼かれ、多くの人間が斃れ、数え切れない魔族が死んだ。
そして最後に魔王が死に、魔王の妾は弑逆の罪を問われ、処刑された。
「大分、うなされてた、みたいだな。大丈夫か?」
・・・大丈夫じゃ、ない。
薄っすらと開けた視界に、わたしを覗き込む巨体が陰を落とす。
大丈夫か問うくらいなら、何とかしなさい。それが、貴方の仕事でしょ!
言うのも面倒くさいので、取り敢えず如何にか腕を上げ、頬をツネッておく。
『痛った』とか言って身を引くが、わたしにつねられるまで身を屈めて待っているところが、律儀だ。このオトコらしいというか、如何にもグレンらしい。
普段なら殴るところだが、今は微妙に力が入らない。
其処のところ、感謝して欲しい。
夢を見た。
胸のうちにある幾つもの生の記憶の中でも、『魔王の妾』が生きていたのは遠い過去ではない。寧ろ、昨日の事と言っても良かった。
故に鮮やかな、とても鮮やかな記憶。
人間の流す血は緋く、魔族の流す血は蒼く。
自身に穿たれた傷は、鮮烈な痛み。
相手を切り裂く刃には、ザラリとした骨を断つ軋み。
人も魔族も死ねば強烈な死臭を放ち、戦場は蓋の閉じられた魔女の釜の中で煮られるが如く、其処にいる者を等しく狂気で押し包む。
でも、それはもう、今、ではない。
『魔王の妾』は、死んだのだから。
「暫くは、お粥だけで良いか?」
窓の外は、晴れだった。
跳ね上げた木戸の外から、朝の清々しい空気が流れ込んで、まだわたしの身体中に纏わり付いていた血塗られた記憶の欠片を、跡形もなく洗い流していく。
清潔なシーツに包まったまま、手脚だけ伸ばして、伸びをする。
「そう、ね。少し、何か他の物も食べさせて」
グレンはわたしの注文に、いそいそと何か見繕うべく、嬉しそうに階下に向かった。
あぁ、まだ頭は痛いのだから、そんなにドスドス駆け下りないでほしい。
後で、お仕置きだ。
でも、やっぱりまだ、無理。
もう少し体力が戻るまでは、ツケだ。
心の中の帳簿に付けておくし、帳簿に付けると言う事は、自然と利子も増える。
故にグレンは、覚悟をしておくべきだろう。
もう少し、元気になったら。
そう、もう少し元気になったら、わたしの代わりに処刑された、彼女の墓に花を供えに行っても良いかもしれない。
其処に彼女の遺体はないけれど、魔族の国を出る時、石を積んで墓とした。
いずれ、わたしも其処に行くのだろうけれど、それまで一人なのも寂しいだろうし。
「・・・そうでしょう、ステファニー?」
アルティフィナは再び目を瞑り、朝食までの時間を、再び微睡みの中で過ごす事にした。




